■生涯現役への準備2 [生涯現役を目指す]
変わってゆくことの面白さ
本来、労働するということは、楽しい、面白いことである。これを苦しい、つまらないものにしているのは、人間の自己意識のなせる業である。
だから、もしどうしても今の会社、ただいまの職業から労働の喜びを見いだせないのならば、自分の性分に合った会社や職業に出合うまで、何度でも変えてみることである。
元来、人間というものは、生まれてから死ぬまで同じ人間でありながら、生まれ子の時から百歳、百二十歳になって死んでゆくまで、みな違った状態にある。その人の一歳の時と十歳の時、二十歳、三十歳、四十歳、五十歳と十年ぐらいを一期間として考えてみると、同じ人が大変違った存在をなしている。変わらずに変わっており、変わって変わらず。これが変不変の原理、易不易の原理である。
こうして変わってゆくところに面白さもあり、飽きずに次へ次へと方針、理想を変えてゆくこともできる。一生涯一つの仕事を守ってゆくことも面白いだろう。一方、時々に自分の職務、職業を変えて、この広くて自由な知恵と働きを発揮してみるのも、愉快ではないか。
豊臣秀吉のように、あれ程変化の多い人生も人の一生である。
どうせやるなら、でっかいことをやれ。何でもやってみよう。人のやらないことをやってみよう。こうして思い切ったことばかりやっていくうちに、どんな素晴らしいことに出合うかもしれない。人の一生などというものは、まさに謎のようなものである。自分を変えるのは、今からでも遅くはない。八十歳からでもよい。
松尾芭蕉は「奥の細道」の冒頭に、「月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人なり」と書いたが、天の運行は一分一秒も待ってはくれない。すべて物事は、時、処、位の上に成り立ちながら、一分一秒も休まずに流れ続け、無始から無終に向かって変化し続けてゆく。
天には暮れも正月もない。止まっては河の水も腐る。すべては変化するからよいのである。人の生命もまた、その通りである。
このことは個人にとっても社会にとっても、重要な事実なのであるが、世の中の人はウカウカしていて、それに気がつかない。いや、気づいても、現実に、確かに年ごとに馬齢を加えていくのをどうしようもない。
世の中は変化するからこそ楽しい。すべての道を、よりよく向上する道だとするには、寸秒を惜しんで、またとない、この掛け替えのない一生を充実させる以外に道はない。
そのためにも、自分はどういうことに特質、特長があるか、自分の職務、職業を変えて、自己発見をすることである。
間違ってならないことは、職業を変えることに主眼があるのではなく、特質を発見すること、快適に働ける、労働の喜びの味わえる、充実した人生が送れることが大事なのである。
最近の若者には、就職したら、たちまち転職したり、郷里へUターンしたりする傾向が表れている。卒業して会社に勤めても、三年後の離職率は高卒で五割近く、大卒でも三割近い。理由は働きがいの問題、仕事や待遇に対する不満、人間関係のいざこざ、都会生活への失望などさまざまであるが、適性の職場を選択するというプラス面と、腰を据えて技能と知識を吸収する機会を取り逃がすというマイナス面がある。気まぐれに職場を転々とすることは、決して本人のためにはなるまい。
ともかく、数百に上る職業があるのだから、必ず自己に適した仕事があるはずである。もんもんとして毎日を惰性に任せて生きているのでは、何のためにこの世に生を受けたのかもったいないではないか。人々よ、生きがいのある人生を送ろう。
現在に自己を没し切る
いろいろある職業には貴賎はないが、仕事を通じて知らず知らずに熟成する品性陶冶(とうや)こそ、人間の目標とする大切な点である。
誰が何をやるかは、自分自身にしかない持ち味、性格、徳性、品位、技能、ひらめきなどを総括して決定すればいい。
こういう便利な時代、素晴らしい時代に生まれて、自分が自分の運命を選び、進めていくということについて、しっかりとした考えを持って、この広い、自由な時代を進んでゆく。
自分はどういう人間なのか。自分の能力はどういうものであるか。今までどういうことをやってきたか。自分にはどういう条件、特徴があるか。自己を知る。自分の人間性、内容を知る。「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」と昔からいうが、自己というものをよく知ることも、運命を作る絶対条件の一つである。
誰もが、現在の自己というものを一度その原点に立ち返って、しっかりと検討し直してみる必要がある。
人にはそれぞれに特長がある。自己の特長を発見して、それを伸ばすことが大切である。己独自のパーソナリティを完全に生かし切らねば、一生を棒に振ることともなる。
こうして正しい職業、自分にしかやれない適職を決めたなら、その時こそは石の上にも三年、せっせと学び、体に覚え込ませ、仕事に励んでおかなければ一生涯の失敗である。
私たちが第一になすべきことは、現在の現実の生活に自己を没し切ることである。へっぴり腰で生きていたのでは、せっかくの一生を、それもきわめて短いとさえいえる一人の人間の生涯を、全く無駄に費やしてしまうことになる。
今の私たちの生活をひたすら真摯(しんし)に、誠実に送ることから始めなければならない。
人間の自意識は、十年先の取り越し苦労までして思い煩い、無駄な妄想をして、日々の能率を低下させる。明日の予定を立てるのは、今日の仕事であるが、遠い将来を考える必要はない。肉体には妄想も、予定もないものである。
能力にしても、明日になれば明日の能力ができるものであるから、肉体の疲れるほどに今日を一生懸命に働くがよい。そうすれば今日の疲れが回復して、明日の力となる。これが生命作用の妙所である。この原理をもっと活用すべきである。
すなわち、自ら適職と信じたなら、バカといわれようと、何といわれようと、根気よくコツコツと歩む。そうすると、自然に運が開けてくる。おのずと徳も備わってくる。
人生すごろくのさいの目は、まことに気まぐれだ。丁と出るか、半と出るかは、その人の心掛け次第でもある。世に、「運鈍根」という。どこにも知だの、才だのという字は見当たらない。運命に逆らうな。生かされの身を、才もてあがくな、ということである。
才だの知だのというのは、とかく困りものである。才子は才におぼれる。才におぼれると、おのずと人にうとんじられる。才余りて識足らずといって、才知は十分あるが、識見が足らないというのは、よく見掛ける図である。「賢去りて功あり、知を去りて明あり」といって、小賢い知識をひけらかしていると、とかく世の中が見えなくなるもの。
人間の運勢などというものは、第一には祖先から伝承したもの。第二には、いかに宇宙の「気」を充電させるかである。
すべて、人間の運命を左右するものは、「気」の働きだということを、世間の人は知らなすぎる。
ひたすら肉体に「気」を充満させて、根気よく適職に励み、徳を積むべきである。「徳は孤ならず、必ず隣あり」で、おのずと行路が開けてくる。これこそ人生の妙諦なのである。
本来、労働するということは、楽しい、面白いことである。これを苦しい、つまらないものにしているのは、人間の自己意識のなせる業である。
だから、もしどうしても今の会社、ただいまの職業から労働の喜びを見いだせないのならば、自分の性分に合った会社や職業に出合うまで、何度でも変えてみることである。
元来、人間というものは、生まれてから死ぬまで同じ人間でありながら、生まれ子の時から百歳、百二十歳になって死んでゆくまで、みな違った状態にある。その人の一歳の時と十歳の時、二十歳、三十歳、四十歳、五十歳と十年ぐらいを一期間として考えてみると、同じ人が大変違った存在をなしている。変わらずに変わっており、変わって変わらず。これが変不変の原理、易不易の原理である。
こうして変わってゆくところに面白さもあり、飽きずに次へ次へと方針、理想を変えてゆくこともできる。一生涯一つの仕事を守ってゆくことも面白いだろう。一方、時々に自分の職務、職業を変えて、この広くて自由な知恵と働きを発揮してみるのも、愉快ではないか。
豊臣秀吉のように、あれ程変化の多い人生も人の一生である。
どうせやるなら、でっかいことをやれ。何でもやってみよう。人のやらないことをやってみよう。こうして思い切ったことばかりやっていくうちに、どんな素晴らしいことに出合うかもしれない。人の一生などというものは、まさに謎のようなものである。自分を変えるのは、今からでも遅くはない。八十歳からでもよい。
松尾芭蕉は「奥の細道」の冒頭に、「月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人なり」と書いたが、天の運行は一分一秒も待ってはくれない。すべて物事は、時、処、位の上に成り立ちながら、一分一秒も休まずに流れ続け、無始から無終に向かって変化し続けてゆく。
天には暮れも正月もない。止まっては河の水も腐る。すべては変化するからよいのである。人の生命もまた、その通りである。
このことは個人にとっても社会にとっても、重要な事実なのであるが、世の中の人はウカウカしていて、それに気がつかない。いや、気づいても、現実に、確かに年ごとに馬齢を加えていくのをどうしようもない。
世の中は変化するからこそ楽しい。すべての道を、よりよく向上する道だとするには、寸秒を惜しんで、またとない、この掛け替えのない一生を充実させる以外に道はない。
そのためにも、自分はどういうことに特質、特長があるか、自分の職務、職業を変えて、自己発見をすることである。
間違ってならないことは、職業を変えることに主眼があるのではなく、特質を発見すること、快適に働ける、労働の喜びの味わえる、充実した人生が送れることが大事なのである。
最近の若者には、就職したら、たちまち転職したり、郷里へUターンしたりする傾向が表れている。卒業して会社に勤めても、三年後の離職率は高卒で五割近く、大卒でも三割近い。理由は働きがいの問題、仕事や待遇に対する不満、人間関係のいざこざ、都会生活への失望などさまざまであるが、適性の職場を選択するというプラス面と、腰を据えて技能と知識を吸収する機会を取り逃がすというマイナス面がある。気まぐれに職場を転々とすることは、決して本人のためにはなるまい。
ともかく、数百に上る職業があるのだから、必ず自己に適した仕事があるはずである。もんもんとして毎日を惰性に任せて生きているのでは、何のためにこの世に生を受けたのかもったいないではないか。人々よ、生きがいのある人生を送ろう。
現在に自己を没し切る
いろいろある職業には貴賎はないが、仕事を通じて知らず知らずに熟成する品性陶冶(とうや)こそ、人間の目標とする大切な点である。
誰が何をやるかは、自分自身にしかない持ち味、性格、徳性、品位、技能、ひらめきなどを総括して決定すればいい。
こういう便利な時代、素晴らしい時代に生まれて、自分が自分の運命を選び、進めていくということについて、しっかりとした考えを持って、この広い、自由な時代を進んでゆく。
自分はどういう人間なのか。自分の能力はどういうものであるか。今までどういうことをやってきたか。自分にはどういう条件、特徴があるか。自己を知る。自分の人間性、内容を知る。「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」と昔からいうが、自己というものをよく知ることも、運命を作る絶対条件の一つである。
誰もが、現在の自己というものを一度その原点に立ち返って、しっかりと検討し直してみる必要がある。
人にはそれぞれに特長がある。自己の特長を発見して、それを伸ばすことが大切である。己独自のパーソナリティを完全に生かし切らねば、一生を棒に振ることともなる。
こうして正しい職業、自分にしかやれない適職を決めたなら、その時こそは石の上にも三年、せっせと学び、体に覚え込ませ、仕事に励んでおかなければ一生涯の失敗である。
私たちが第一になすべきことは、現在の現実の生活に自己を没し切ることである。へっぴり腰で生きていたのでは、せっかくの一生を、それもきわめて短いとさえいえる一人の人間の生涯を、全く無駄に費やしてしまうことになる。
今の私たちの生活をひたすら真摯(しんし)に、誠実に送ることから始めなければならない。
人間の自意識は、十年先の取り越し苦労までして思い煩い、無駄な妄想をして、日々の能率を低下させる。明日の予定を立てるのは、今日の仕事であるが、遠い将来を考える必要はない。肉体には妄想も、予定もないものである。
能力にしても、明日になれば明日の能力ができるものであるから、肉体の疲れるほどに今日を一生懸命に働くがよい。そうすれば今日の疲れが回復して、明日の力となる。これが生命作用の妙所である。この原理をもっと活用すべきである。
すなわち、自ら適職と信じたなら、バカといわれようと、何といわれようと、根気よくコツコツと歩む。そうすると、自然に運が開けてくる。おのずと徳も備わってくる。
人生すごろくのさいの目は、まことに気まぐれだ。丁と出るか、半と出るかは、その人の心掛け次第でもある。世に、「運鈍根」という。どこにも知だの、才だのという字は見当たらない。運命に逆らうな。生かされの身を、才もてあがくな、ということである。
才だの知だのというのは、とかく困りものである。才子は才におぼれる。才におぼれると、おのずと人にうとんじられる。才余りて識足らずといって、才知は十分あるが、識見が足らないというのは、よく見掛ける図である。「賢去りて功あり、知を去りて明あり」といって、小賢い知識をひけらかしていると、とかく世の中が見えなくなるもの。
人間の運勢などというものは、第一には祖先から伝承したもの。第二には、いかに宇宙の「気」を充電させるかである。
すべて、人間の運命を左右するものは、「気」の働きだということを、世間の人は知らなすぎる。
ひたすら肉体に「気」を充満させて、根気よく適職に励み、徳を積むべきである。「徳は孤ならず、必ず隣あり」で、おのずと行路が開けてくる。これこそ人生の妙諦なのである。
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