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■男の器量を磨く1 [生き方コラム]

[クリスマス]器量人とは「気」の量が多い人 
●人間の命の本体は宇宙に遍満する「気」
 私たち日本人は、日常の会話で、何気なく「気」という言葉を使っている。
 「よい天気だね」を始めとして、「大気」、「気候」、「寒気」、「元気」、「病気」、「病は気から」、「気宇壮大」、「雰囲気」、「気品」、「景気」、「平気」、「勇気」、「気持ち」、「気質」、「生気」、「香気」。あるいは、「人生が味気なくなった」、「気が滅入ってしようがない」、「あいつは、山気が多すぎる」。
 さらに、「気が早い」、「短気」、「気まぐれ」、「浮気」、「気心が知れない」、「気が晴れた」、「気分がいい」、「気分を出す」、「気の毒」、「気のせい」、「気に食わない」、「お気に入り」、「気のない返事」、「やる気がない」、「気後れ」、「気がもめる」、「気がきく」、「気勢を上げる」。
 「気」がつく言葉を全部挙げるには、相当な根気がいる。それほど、ちょっとした一日の会話の中に、「気」という言葉が限りなく使われているのである。
 あなたは、こんなに使われている「気」とはいったい何か、じっくり考えたことがあるだろうか。
 「気」というのは、大宇宙の生成、発展と、万物の発生、進化の根源であり、悠久なる太古から現在に至るまで宇宙天地大自然界に遍満し続けながら、万事万物を存在させているものである。
 私たち人間の肉体も、そのまま小宇宙、小天地であり、宇宙天地大自然と同じ「気」によって支配されているのである。
 すなわち、私たち人間は宇宙の「気」によって創られ、生かされ、生きている存在であり、はるかな昔の宇宙創造の根源であり、今も宇宙いっぱいに満ちみちている「気」そのものが、人間の命の本体ということである。
 生命は「気」であり、宇宙生命も、人間生命も同じ「気」である。人間の体は、「気」で生かされ、「気」で生きている。人間の肉体は、「気」を吸収し、「気」を発する。
 行き着くところ、その「気」を全身に充実するか、しないかで、人間の人生の成否は決定するといっても過言ではない。
 「気」は風と似ていて、見ることも、手に取ることもできないし、香りも味もないが、自らの生命を生かしている宇宙天地大自然の「気」に気づいて、「気」を土台として生きるということが、最も正しい人生のあり方ということになるだろう。
 「気」の充実した人と、「気」の抜けた人。全力を打ち込んで、やる「気」のある人と、やる「気」のない人。肉体に「気」があるか、「気」がないかで、人間の値打ちは大いに違ってくる。
 宇宙に遍満する「気」は、すべての根源であるとともに、人間の知・情・意の源泉なのである。私たちの心、精神、体など、「気」はすべてを包んでいる。「気」というものは、私たちの日常生活に密接な関係を持っているわけだ。
●「気」の量が多い人こそ器量人である
 「気」は宇宙天地の創造、生成の根源であり、風のように大自然の現象であるばかりでなく、私たちにも内在するものであるために、人間における「気」はより個性的なものとなる。
 個人、個人の「気」には、落ち込んだ「気」もあれば、やがては浮かれてくる「気」もある。「気が大きい、小さい」、「陽気、陰気」、「気が強い、弱い」、「気がきく、きかない」というように、大小、陰陽、強弱、質量、形、濃淡、軽重、柔剛、開閉など、人間の「気」は、百面相のような変幻ぶりを示す。
 そして、この個人、個人の「気」というものは、対人関係においても重要な働きをする。人間対人間において、「気」の大小や量は、人間の値打ちや格まで決めるものとなるのである。あだやおろそかに考えてはならない。
 取引相手などと向かい合っていて、何となく気後れする場合、これは「気」ですでに負けているのである。
 「技術も知識も、こっちが上だ」、「語学も自分のほうがうまい」、「金もたくさん持っている」というのに、「どういうわけか相手にかなわない」という気にさせられる。「不思議なことだ」と、イライラしながら首をひねる。
 何も不思議なことはない。「気」で負けているのである。
 「あの人にはかなわない」と、腹の底から思わせるのには、「気」のパワーが大いにあずかっている。「気」のパワーとは、その人間の持っている「気」量ということだ。「気」量とは、器量に通じるものである。
 反対に、「あの人にはかなわない」と相手に思わせるということは、こちらが戦わずして「気」量、すなわち器量で勝ったということである。
 では、こうした人間の格まで決定する「気」を蓄えておく器は、どこにあるのであろうか。頭ではない。もちろん、腰でも、手でも、足でもない。実は、腹にある。
 あなたが「よし、やるぞ」と気合を入れる時、どこに力が入るか。臍下丹田(せいかたんでん)に、力が入るはずだ。肉体のヘソの下にある丹田が、「気」を育てる田んぼであり、「気」をプールする器でもあるのだ。
 この「気」の器こそ、「あの人は大器だ。器の大きい人物だ」などという場合の器のことである。
 器の大きさというのは、その人の人品骨柄に表れ、にじみ出てくる。世の中に、会った途端、何となく圧倒されるような人物がいるのは、その人の器からあふれ出る「気」に、気圧(けお)されるからである。
 こういう人を器量人という。「気」の量が多い人である。
●重要なのは収容した「気」の十分な循環
 辞書を引くと、器量とは、1.人間の才徳、すなわち才能と人徳、2.人間の備えている才能、力量、3.器量の「器」は材の在る所、「量」は徳の満つる所の意、などと説明されている。
 よって、器量人とは、才能と人徳に優れた人のことであり、才能や力量に優れた人のこととなる。知情意、知性と感情と意志に優れた人のことともいえよう。
 この点、昔から世間ではよく、「器量」、あるいは「社長の器」などということが取りざたされているところで、その実体については、「心が広いこと」、「七情をよく統制していること」といった人間性の面からの解釈が行われている。
 また、努力して身につけたものではなく、生まれながらして与えられた才、まさに天性のものを「人間の器」とか、「器量」と呼ぶ場合もあり、もちろん、その器量は天性のものでありながら、現実に生きることにおいて、常に磨きをかけておかなければならないもの、とされる。
 私はここで、人間の器量とはその人物の持つ「気」の量のことにほかならず、器量人とは器に「気」が充実されて豊かに存在する人物である、という解釈を加えたいのである。
 東洋では古来より、人間のことを「気」を収める器といっており、人間の器量、器の大小というものは「気」の器の大小、そして「気」の吸収量と排出量の多寡のことだ、と考えるのは自然である。
 人間の器を、生体エネルギーや、知情意の源泉である「気」が入る器のことであると見たほうが、話の理解も早いだろう。
 人間の大きさに、これほど関係してくる「気」量。重要なのは、その器が大きく、その量が多いというだけでなく、それが十分に体内を循環していることである。
 「気」を肉体に充実し、循環するか、しないかで、人間の値打ちが大いに違ってくるし、人生の成否が決定するといっても過言ではない。
 たとえ小柄な人でも、どっしり構えて泰然自若、すがすがしい目をした人がいる。そして、周囲の人からは、「あの人は腹のできた人だ」と、一種の尊敬を得ている。これが、器量人というものだろう。
 「器量人」、「社長の器」などといわれる人は、生気、胆力、迫力、元気、気迫、陽気などという「気」を十分に収容し、循環させている大きな器の持ち主なのである。人間集団の中で
 抜きんでるためには、大変な統率力が入り用なのであり、そのパワー源こそが多数を抑え、治める「気」の大小や人間的迫力の大小であることは、社会の現実が示している。
 反対に、元気はつらつとして、精気にあふれてはいるけれども、どこかこせついていて、落ち着かない。こんなタイプに器量人はいない。
 いずれにせよ、器量人であろうと、器量人でなかろうと、人間というものは各自、それぞれの「気」を放ち、独特の気配を漂わせている、不思議な存在といえる。
 例えば、器量人とまでは評されていなくても、組織の長や幹部という指導者の立場にある人間は、特別な気配、雰囲気、オーラなどといったものを放っているもの。




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■男の器量を磨く2 [生き方コラム]

[クリスマス]向上心や信念が器を大きくする
●西洋の見えるオーラ、東洋の感じる「気」
 こうした人間の持っているエネルギーが形になったオーラについては、特定の能力者の目に見えるといわれているが、オーラが見えない一般の人々でも、リーダーたちから強い圧力を感じたことがあるにちがいない。
 この圧力こそが、彼らの人格的な強さと、生体エネルギーの強さの現れなのである。
 しかし、この強さは必ずしも、性格からくるものではない。穏やかな性格のリーダーであっても、どこか、とりわけ目から強い圧力を放っている。目からのオーラ放射現象である。
 いわゆる眼力というやつである。この言葉には、文字通り理非や善悪を見抜く力を指すほか、目からパワーを放つという意味もある。「目がキラリと光る」などという。これは、事態の重さや真実に気づいた場合、一時的に強力なオーラが放射することを示したものだ。
 おおよそ、リーダーと呼ばれる人たちならば、たとえ彼らが日頃おとなしい性格であっても、いったん事の判断を迫られたり、何かを見極めようとする時、目からパワーを放つ。
 この時、特定の能力者は彼らの目から発するオーラを見、気配敏感者は緊張した気配と圧力を感じるのである。
 オーラという概念は西洋で特に重視され、多くのオカルティストたちと、近代の何人かの科学者によって研究されてきた。彼らは「見える」という事実にこだわり、その存在を証明しようと試みてきたのである。
 一方、東洋では、見えることよりも「感じる」という面に気づき、「気」や「気配」をさまざまな言葉の表現で伝承してきた。だから、中国の古書には、「土気」、「地気」、「霊気」、「天の気」などといった「気」の変化形が記されているのだ。
 西洋の絵画が色鮮やかに塗り込められているのに対して、東洋の絵は水墨画のように、におうような感じが込められているのは、こうした彼我の感性の相違に由来していると考えられる。
 ともかく、人間は器量人や指導者に限らず、各自が独特の気配を漂わせ、「気」を放つ不思議な存在なのであり、特別の能力を備えた人には、それが見えたり、感じられるのである。
 この場合の「気」は、人間が発散する見えざる手といってもよいだろうし、人間の肉体から外へ向かって発せられている波長のようなもので、一種の目に見えない触手、触角の機能を果たしているものなのである。
 例えば、普通の人であっても、後ろから見つめられていたり、ソッとつけられたりしているのを、微妙な気配によって気づくことがあるはず。相手の姿こそ見えなくとも、相手が発する「気」を感じられるという、自らの「気」の感覚作用である。
 こういう働きができるのは、宇宙が巨大な電磁体であり、太陽が目に見える熱核反応体であるとともに、目に見えない拡散する放射体であるように、人間の肉体もまた、目に見えない「気」の放射体であり、さらにいえば「気」の受容体だからこそである。
 目に見えない肉体作用の話を加えれば、愛し合っている恋人同士は、寄り添っているだけで楽しいものである。逆に、憎しみ合っている相手だと、鳥肌が立ったり寒気がするだろう。
 これは、シェイクスピアがいみじくもいっているように、他人の隣に数分間でも座っているだけで化学的に反応、変化をするのが、人間の肉体というものだからである。
 人間の肉体を「気」の放射体だといったが、それは電磁波の固まり、「気」の結晶体と言い換えてもよく、肉体から常に放射され、プラズマのように肉体を包み込んでいるものなのである。
●自己を磨けば誰でも器量人に近づける
 人間誰もが、自己の内実を表す「気」を放射しているのであるから、「気」を収める器である自己というものを、あだやおろそかに考えてはいけない。
 「気」の充実した器量人、大器、大人物などと称される人間を目指して、自己を磨かなければいけないということである。
 私は、人間性の面からは、心身両面で充実しながら、自律した強い個人になることを器量人になることと表現したい。
 器量人や大器とは、一部に解釈されているような歴史上の英雄、豪傑というような存在ではなく、普通の個人でも、勇気を持って自己啓発を怠りなく続ければ、次第に近づいていける存在と考えたいわけだ。
 大きな器量を持った人物を表す言葉の一つ、「大器」について考察してみると、中国の古典「老子」の第四十一章にある「大器は晩成す」という文が出所である。
 一般的に、この成句は、「鐘や鼎(かなえ)のような大きな器は早くはできないように、人も大きな器、すなわち大人物は才能の現れるのは遅いけれども、徐々に大成する」というように捕らえられている。
 若い時にちょっと薄ぼんやりしたようなタイプの人は、冗談で「君は大器晩成だよ」などといわれたのを真に受けて、「本当に自分はそうかも」と思ったりする。しかし、薄ぼんやりした人物が時間がかかって大人物になるケースは、実際にはほとんどないだろう。
 歴史上でも、そんな例は少ない。あるとすれば、それまで認められず埋もれていた人物が、何かの機会に表面に浮上した場合である。
 何となく大器晩成の代表といった雰囲気の西郷隆盛でも、二十代から頭角を現し、三十代はじめで明治維新の大業を実現した敏腕家であった。百キロを超える体の持ち主だったから、そのようなイメージができてしまったにすぎない。
 大器、器量人にふさわしい吉田松陰にしても、坂本竜馬にしても、二十代から三十代ちょっとで、歴史に名を残す大事業を行った。
 そこで、「老子」の著者である老子はどんなつもりで、大器晩成という言葉を書いたのか、第四十一章の前後の文脈を引用してみよう。
 「大方は隅無し、大器は晩成す、大音は希声なり、大象は形無し」。
 老子という人は二千数百年前の中国の哲学者で、儒教と並ぶ東洋精神史上の二大潮流をなす老荘思想の祖と伝えられるが、実在した人物であるかどうかは疑問が持たれている。
 しかし、こういう思想家がいたことは確かで、盛んに「大」という字を用いている。これは広大無遍な宇宙天地大自然の道理を表し、「大」は「道」であるという意味である。
 大方、つまり大きな宇宙を表す四角の箱は、あまりにも大きいのでその四隅は見えず、なきに等しい。大きい器量は、ゆっくり出来上がる。大きな音は、それがあまりにも大きいと、ささやくように聞こえる。象、すなわち形は、あまりにも大きいと、目に入らない。
 従って、「天地の道は凡俗な人間には認識できない」という意味で、ちっぽけな人間のあさましさを笑っているのである。
 立派な人物はへりくだっているため、見掛けはあほうのように見える。つまり、あまりにも大きいものは、大きいがために俗人には感知できないというわけだ。「大賢は愚なるがごとし」という、ことわざもある。
 しかして、「大器は晩成する」と老子がいった意味は、俗に解釈されているように「十で神童、十五で才子、二十すぎればただの人」の逆であるというニュアンスではなく、本当に優れた人は完成するということはあり得ず、生涯修行。学べば学ぶほど奥が深いことがわかり、人間は少しずつ器が大きくなっていくだけである。
 より器が大きくなった人物は、まだまだ自分は未熟者だという謙虚な気持ちを持っているために、腰が低く、普通の人がちょっと見ただけでは、その人が大きな器の人であるというようには感じない。
 だが、大器とは、まさにこのような人物のことをいうのである。
 人間の器の大きさには限りがなく、死ぬまでこれで終わりだということもない。ゆえに、大きな器の人物はなかなか出来上がらないのだ、ととるべきである。
 だから、少しくらい早熟だろうと、晩熟だろうと、関係ないということだ。
●向上心や信念が自己の器を大きくする
 「人間は生涯修行、学べば学ぶほど奥が深いことがわかり、少しずつ器が大きくなっていくだけである」と老子の言は解されるわけだが、私がいう器量人を目指すという観点からいえば、器量人なり、大器になれる資格の一つは、自己啓発を生涯にわたって永続できる向上心ということになる。
 人間の器は、知識や経験、情報をため込んでおく入れ物でもある。この器が小さいと、ため込む知識や経験も少なくなるが、怠りなく学び、自己を磨き続けて器を大きくすれば、たくさん入るようになる。
 今の日本は、学歴だけでは通用しない時代になってきている。大学を出れば誰もが、部下を導く管理職になれるという時代ではない。中小の企業にもデパートの店員にも、大学出はゴロゴロしている。
 逆の見方をすれと、大学を出なくても能力や知識、経験を向上させていければ、十分出世できる可能性があるということである。もちろん、女性の場合も、それなりの地位に就くこともできる。
 といっても、自分の能力なり知識というものを、冷静に分析できる人間は、世の中になかなかいない。どちらかというと、上司などの周囲が自分の能力を過小評価していると思っている。自分で仕事ができると思い込んでいる人ほど、実際は無能であることが多い。
 「まだまだ自分は未熟者だ」という気持ちを持ち続け、自己の能力を磨き上げて器量人に近づいていける人であれば、謙虚に振る舞っていても、おのずと光ってくるものである。
 組織の中にいる人の出世に関していえば、誰が決めるともなしに人望を集め、昇進ともなると暗黙の了解によって取り立てられてゆく人々がいるものである。
 これらの人がトップに立った時には、「新入社員の時から他と違っていた」とか、「若い頃(ころ)から、友人たちの信望を集めていた」などという言葉が、決まり文句のように語られる。
 社長の器を持った人は、若い頃から定まっているのであろうか。多くの大学生に接しているような識者によると、それらの青年のうち将来、企業の中で順調にトップへの階段を上ってゆくだろう人物の見分けは、そう困難ではないという。
 彼が陽性人間であることと、その陽気の発散が周囲の状況に合わせてコントロールされているという特徴が、共通して見られるようだ。
 陽気の出しっ放し型と陰性人間は、まず社長の器ではないようである。陰性人間が昇進するケースもあるが、この場合は、あくまで技術系企業のトップに限られる傾向が認められる。
 また、こういう出世する器を持った人は、不思議と若い頃から何らかの信念を強く持っているのである。たとえ「素直に生きよう」などという単純なものであっても、彼らは信念なり、精神的原理を積極的に護持しているのだ。
 以上のような自己啓発を続ける向上心や信念とともに、器量人を目指す人に求められる才能としては、一般によくいわれている統率力が挙げられる。
 統率力は、現代に求められている指導者の資格の一つである。いや、一つといっては小さすぎるかもしれない。もっと大きな人間の資格である。
 歴史の上から考えると、統率力、あるいは統率という言葉は、その時代を引きずってゆくくらいの力を持ったものである。
 しかし、ここで断っておかなければならないのは、それが決して特異なものではないということである。
 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった英雄のみが持つ不思議な才能ではないということだ。まねをして、まねることのできないものではないという気がする。普通の個人でも努力すれば、ある程度までは、それを身につけることができるというものである。
 はじめから特異なものであり、普通の人間にはできないようなものだったら、このような問題を持ち出す必要はないだろう。
 例えば、「家康になれ」というのは無理な話であっても、彼が持っていた忍耐とか寛容とかいうような徳目は、誰でも努力すればできるであろう。いや、身につけることができるはずである。
 そうした忍耐、寛容を通じてはじめて、人間としての成長があり、機会をものにすることができるのだ。統率者は、そのなすべきか、なさざるべきかの機会を知っている。
 統率ということを考える際、大切な条件として思い浮かぶのは、与謝野鉄幹の有名な詩句「友を選ばば書を読みて、六分の侠気(きょうき)、四分の熱」である。
 指導者がその統率力を発揮しようとする時、六分の侠気、すなわち男気がなくて、誰が奮起してついてゆこうか。そして、それが四分の熱気なくして、行われるであろうか。
 加えて、よく書を読むということは、平素から常に仁義の道を志しているということで、それが周囲の共感を誘うのである。




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■男の器量を磨く3 [生き方コラム]

[クリスマス]目指すべきは人間性の完成
●器量人を目指す人に求められる包容力
 器量人、大器を目指す人に求められる徳目、資格として、編集子が挙げた寛容な精神、すなわち包容力というものについて詳しく述べてみよう。
 包容力に関しては、昔から「窮鳥、懐に入れば猟師もこれを殺さず」という言葉がある。人間は誰でも、このことわざを知っているし、それができるのが正常な人物だと思っている。
 できないことではない。しかし、食わんがために自己意識を働かせ、現実を生きている目が、それを忘れさせるのである。
 器量人は、それを忘れず、いつも心の中に、その包容力を保っているのである。といっても、包容力があるということは、誰でも無差別に抱き込むということではない。包み込む人物が公正で、私欲がないという精神の裏づけがなければならぬ。
 ここで、包容力がある器の大きな人について、次の四つを指摘したい。
1.異質なものを寛大に受け入れる。
2.異質なものへの対応を知っている。
3.物事を大きく考え、公正、謙虚である。
4.正直、温順で自分だけの利益を考えない。
 反対に、包容力がない人、器の小さい人を思い浮かべれば、包容力がある人、器の大きい人はその逆であることがわかる。狭量な人、器の小さい人を見ていると、
1.えり好みが激しく、異質なものを受け入れない。
2.異質なものを警戒して、排除しようとする。
3.物事を自己中心的に考え、小胆、憶病である。
4.自尊心が異常に高く、感情的で心が冷たい。
 こういう人を上司に持った部下は、全く浮かばれない。災難に遭ったようなものである。また、こういう人を部下に持った上司も、始末に困るものである。
 包容力のある人、器の大きい人は、心が広いから、異質な人や物事を差別しない。好奇心があるから、どんな人間や物事がやってくるかに興味があり、とにかく積極的にそれを受け入れようとする。
 最初はうまくいかないが、何回か苦心してやっているうちに、対応の仕方を心得てしまうのである。そのぶん、器が大きくなる。
 狭量な人、器の小さい人は、異質な人や物事がやってきた場合には、全く対応できない。最初から、排除しようと感情的になって、理性的に処理できない。どうしようもなくなると隔離して、口もきかず、冷たくあしらう。だから、いつまでも器が大きくならないわけだ。
 人間を解くカギの一つは、自尊心、すなわちプライドである。非行者、万事につけ反抗的な態度の人、不平不満の多い人、他人を悪罵(あくば)してやまない人、大言壮語する人、すべて自尊心からくる。
 自尊心があまりにも本人の資質、能力と懸け離れているのに、それを認めない人は、自尊心が独り歩きするようになる。
 自尊心、プライドとは、メンツ、顔であり、これを害したことで決闘ざたになったり、そこまでいかなくても人間関係がいっぺんに崩れるというようなものである。自尊心に対しては、細心の配慮が必要だ。
 包容力のある器の大きい人は、もちろん自尊心も高い。だが、自分より大きいものを見てしまったがために、自分の自尊心などは高が知れたものと思うようになり、自尊心に引き回されるようなことはしない。
 つまらない人に自尊心を傷つけられても、他の立派な、大勢の人たちに評価されているから、何とも思わないのである。
 包容力のある人、器の大きい人は、素直であるから、異質な人と出会った時に、その人の性質がどのような背景からきたのかをまず理解しようとし、よい素質である場合は積極的に評価して役立てようと考える。
 また、角が立って円満にいかない場合には、どうするかを考える。異質な人がこれまでの人たちの間に交ざれば、摩擦が起きないとは限らない。ドジョウの中にナマズが入れば、必ず何かが起こる。
 器の大きい人は、それを解決できる力を持っている人である。これは、別に人だけとは限らない。異質な物事や、新しい経験とか、情報であっても同じである。
 こういう能力を育てるには、小さいことにこだわらないこと、好奇心があること、差別をしないことが必要だろう。
 受け入れてしまうから、解決しようとして四苦八苦する。人間、苦労すれば知恵が働き、乗り越えようとする。これを重ねていけば、だんだん利口になっていくのではないか。
 当然、自分と異質の人をいかにうまく取り込むかという修練を重ねるのは、器を大きくするのに役立つ。これは、人でなく物事でも同じだから、好奇心を持って、教養を広く積むようにして自己を磨けば、自然に器が大きくなっていく。
 いくら金を出しても買えないのは、教養と知性、品格、すなわち器量である。生涯修行の理由は、ここにもある。
●真の器量人とは人間性が完成した人のこと
 結局のところ、真の器量人とは、知情意といわれる教養や知性、品格などを備えた、人間性が完成した人といえる。
 先に、「日本は学歴だけでは通用しない時代に入った」と述べたが、能力や知識、経験があったとしても十分ではなく、ビジネスや人生に無数にあるハードルを越えるためには、豊かな人間性の完成すらもが求められている。
 高度成長の時代や、そうでなくとも現在のように高度な技術力が内外に売れる時代にあっても、金と権力がどうせ世の中を動かすのだから、人間性の向上、人格の向上などはどうでもよいという考え方には、納得できないのが一般の感情であろう。
 実際、そんな考え方は間違っている。日々の中で、人との出会い、触れ合い、付き合いは、不可避な事態なのである。
 ビジネスマンを取り巻く企業環境も、利益第一主義、機能優先主義から、新たな方向へ転換しようとしている。
 機能優先主義時代は分業と協業によって成り立つから、人間の価値はその面で役に立つ専門に絞られた知識、組織適応能力、協調的な態度などによって測られる。そういう人が仕事のできる人といわれる。
 人間には仕事以外の能力、才能もいろいろあるが、直接仕事に役に立たない部分は、能力としては評価されにくい人格者だとか、繊細な感受性などの精神的価値は、それが仕事の遂行に当たって有益であるという意味においてのみ評価される。
 人間は年を取れば取るほど、人格が錬成されて、円熟してくるはずのものである。ところが、あまりにも機能優先主義で使い捨てにされると、卑しい顔立ちになり、退職した後の晩年は何をしてよいかわからない、ということになる。
 妻に「粗大ゴミ」だとか、「濡(ぬ)れ落ち葉」などといわれて、うるさがられるだけである。
 一方、今後のポスト機能優先主義時代は個人の自己実現、生きがいが最大のキーワードになり、誰もそれをじゃますることができなくなる。人々はパンだけのために働くのではなく、自分が納得した好きな仕事に就く。
 今の学生などは「教えられ症候群」というか、教えられることを強く希望するから、研修の盛んな会社ほど人気が高いといえども、自分の人生時間を充実して過ごす場、あるいは能力を試す場として就職する会社を選んでいる。会社は自己実現の場へと、確実に移行しつつある。
 好きな仕事だったら、誰でも一生懸命働く。その結果、非常に能力も高まる。能力は人格を高める。ビジネスは人間を育て、その精神性を磨き出すための試金石となる。
 企業の側から考えても、人格があり、心のこもったサービスができる人を集めたところが伸びるようになる。心のこもったサービスができる人とは、演技ではなく人柄がそういう人だということ。
 企業にとって、こういう社員を大事にすることが大切だし、こういう好ましい印象を与える人物を新規採用しようと、選別の目を光らせていくべきだろう。
 人を使うにしても、「おまえはここを辞めたら、ほかにゆくところはないんだぞ」というような脅しや、金銭だけのニンジンで人は動かなくなるから、心のこもった指導ができる人、尊敬を受けるに足りる人が上に立つようになる。また、そういう人材のいない企業からは、人も去っていく。
 貧しい時代には、自分が出世するために少々他人を押しのけたり、迷惑をかけることに、人々はある程度寛大であった。だが、これからは自己中心的に動く人は嫌われるようになる。
 人々は快適な職場、よい人間関係の下で働くことを求めるから、そのような環境、雰囲気を作り出す人格の優れた人が指導者になる。これからのポスト機能優先主義時代は、総合価値としての人格、徳性を備えた器量人が求められるようになるのが特徴である。




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■女の器量を磨く1 [生き方コラム]

[わーい(嬉しい顔)]女性の理想は器量よし
●女性の美しさにも関係する人間の「気」量
 男性に対して「器量人」という称賛の言葉がある一方、女性に対しては「器量よし」という褒め言葉がある。
 広義には顔立ちがよいこと、また美人を意味するが、狭義の器量よし、真の器量よしが意味するところは、単なる顔立ちがよい、美形というだけではない。ただ容姿が優れている、容姿端麗というだけでもない。
 愛嬌(あいきょう)があって、よく気がついて、明るくて、品があってなどの形容詞をいくつか重ねなければならない。人をうっとりと酔わせてくれる、雰囲気という名の含みのある芳香、香気を放っているともいえようか。
 「気」量が人間の大きさばかりか、真の美しさにも、これほど関係してくるのだから、その重要性が理解できるであろう。人間の器の「気」量が大きく、しかも肉体に十分に循環しているなら、内面の輝きが顔という社会への窓や、全身の雰囲気に反映されるのである。
 現代に生きる女性も、上辺のみを飾ることに腐心せずに、真の器量よしを目指してもらいたいと望むところだ。
 単に「器量」というと、顔形のこと、つまり顔のことを指す。この「顔」という言葉は、通常二つの意味で使い分けられている。一つは一般的にいわれる形、顔付き、容貌(ようぼう)、いわゆる人相である。丸顔・角顔・面長といった顔形、目鼻立ち、顔を形作る目や鼻といった部分、色白・色黒、眼鏡など、容貌を左右する要素は多い。
 もう一つ、顔という言葉が意味するのは表情である。どんな容貌であれ、それぞれに喜怒哀楽の感情を顔に出す。「顔色一つ変えないで」という表現をする。それもまた一種の表情といえる。
 それぞれの人間の顔というものは、その人の氏や育ち、生きざま、性格、教養、職業を始め、すべてを表す。その人間を集約する個所だから、顔は体の中でも、その人を代表する大事なところ。「人の顔に泥を塗る」とか、「世間に顔が広い」とかいう。顔は、社会に向けられた、その人間の存在なのである。
 顔形、骨相そのものは両親から受け継いだものだから、本人に責任はないかもしれないが、「年頃すぎたら顔は自分が作るもの」といわれるように、やはり顔に現れる品格や教養は本人の責任だろう。
 よく「人品卑しからぬ」とか、「一癖ある顔」などという両極端の表現をする。どちらも顔に現れたその人間の生きざまだ。骨相が遺伝的なものなら、人相の場合、半分は後天的なものだろう。美人や美男は親譲りのものかもしれないが、これも顔の美しさ、すなわち美貌で決まる。
 「妻をめとらば才たけて、みめ麗しく、情けある」と与謝野鉄幹が歌った「みめ」も、見た目、つまり容貌、器量のこと。それが麗しいということが、広義の器量よし、美人である。
●相手の容貌から正しく人柄を見抜く方法
 器量よし、美人を始め、美女、美少女、べっぴん、ちょっと古めかしい言葉では佳人、麗人、優女、俗語っぽいところでは色女、シャンなど、美しい女性を指す日本語はけっこう多い。
 「上品な顔立ち」という言葉もあるが、目鼻立ちの整い具合、要するに、表面的な器量のよしあしをいったものである。
 一方、器量の落ちる語は数が少なく、「醜女」と書いて、しゅうじょ、ぶおんな、ぶす、しこめといったり、無器量などという。
 美しい男性に対しては、美男、好男子、色男、眉目(びもく)秀麗、美少年など、女性に比べて用語が乏しい。昔から「男は気で持て」、「男は度胸、女は愛嬌」などというように、男は美貌で競うものではないとされるからであろう。
 女性の顔の美しさについては、時代とともに違いがあるようだ。平安時代の美人は、各種の絵巻物に描かれているような下膨れの顔であるし、近世、浮世絵に登場する女性は、みな面長の顔をしている。
 昔は美人の典型とされていた顔ではあっても、どう見ても現代人の感覚には調和しないといってよいだろう。
 それにしても、あまり他人の器量を批評するのはいい趣味とはいえないが、私たちは相手に対する時、顔によって人物を見分け、顔によってその人となりや心の内側まで推し量るのだから、致し方ないところもあるだろう。
 特に、人間は初対面の人に会った時、まず容貌から相手の人柄を判断しがちである。「怖そうな男」、「信頼できそうな男」、「心の優しそうな女」といった人物評価を、無意識のうちにやっているのである。
 しかし、人間の性格や心というものは、人相見の名人や人間観察の専門家ならいざ知らず、えてして顔付きとは無縁なところにある場合もある。見掛けだけで人柄までを判別すると、間違うことも少なからずあるのも事実なのだ。
 反対に、相手の容貌から感じ取った第一感が正しくて、鋭く人柄まで判別していたのに、二度、三度と見ているうちに、自己意識が「ああのこうの」と、へ理屈を加え、自己流の間違った人物解釈に陥る場合もある。
 人間が初対面の相手の顔を見て、好悪の先入観を勝手に抱くのはなぜだろうか。最近の脳や心理学の研究によると、乳児期の母親の顔付きと感情表現が、その鋳型になるようだ。
 では、大脳に刻まれたそういう先入観の鋳型に捕らわれないで、相手の人柄や心や考えを正しく理解するには、どうすればよいだろうか。大事なポイントは二つ。
 第一は、話してみること、つまり聞くということである。第二は、表情を見て、心の動きを知ること。「そんなことは当たり前だ」といってしまえば、それまでのことだが、いうはやすく行うはかたしである。
 なぜなら、本来の人間は目や耳などの五官で見たり、聞いたりして、相手を見抜き、物事を知るという力が備わっているのに、現代の人間は五官さえ正しく働いていないことが多く、みないい加減な自己意識に左右され、判断を誤っているからである。
 人を正しく見抜くためのよい方法は、日常的に多くの人々と接して、人間を見る目を養っておくことである。言い換えれば、人を見抜くには、まず見抜く側の自分を鍛えるべきだということになる。
 人生は常に、真剣の一本勝負である。何事にも、一期一会という禅的心構えで臨むべきである。
●真の器量よしは単なる美人とは異なる
 世の中には、口のうまい人が多い。うそつきで、ご体裁の見掛け倒し、大抵これに引っ掛かってしまうのである。社会的な肩書きも、金も、学歴も、本当には当てにならぬことが多い。
 同じ意味で、見掛けの美人、編集子のいうところの表面的な器量よしも、当てにならぬことが多いので、特に若い人に注意を促しておきたい。
 美というと、すぐ顔形、容姿の美しさを連想するだろうが、真の美というものは、根に支えられたもの、精神に支えられたものでなくてはならない。美しい花に、よい実はならぬ。美婦は不祥の器。美しい女は縁起がよくない。「災いや不幸を招く元だ」というのも、すべて根のない姿、形だけの美に捕らわれるからだ。
 「美と愚は好一対」といって、とかく美人には愚か者も多い。外見だけの美に心を奪われるのは、危険千万。「はなはだ美なれば、はなはだ悪あり」ということだ。
 絵画を見ると、そのあたりの理がよくわかるだろう。技巧のみに走って、何とか美しく、うまく描こうとしたら、すなわち、意識を働かせ、意識で描こうとしたら、その絵はもう堕落である。一見、「美しいな、うまいな」と思っても、すぐに見飽きてしまう。精神がないし、見る者に対して訴えるものも、力もないからである。
 この点、先に触れた与謝野鉄幹の詩を口ずさむ者は、「妻をめとらば才たけて、みめ麗しく」、そこで終わっているのではなかろうか。下の句の「情けあれ」を見逃している若者が多い、と思わないだろうか。
 美人で、しかも頭がいい。これは外観で、少し付き合えばすぐわかる。だが、「情けあれ」は内容だから、ちょっとやそっとでは、なかなか見通せないもの。「目下恋愛中」などと、熱ボケしている段階では、お互いによく見せようと、猫をかぶっているだろうから、相手の真実などわかりっこない。
 「情けあれ」こそが重大だ。情けとは、優しい心遣い、思いやりというもの。物事の趣がわかる心ともいえる。情は愛なり、敬なりで、せんじ詰めれば、まこと心、誠実ということになる。
 誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なりで、情け心は真理に通ずる心。そういう心根を持った女性こそが、真の器量よし、本当の利口者として、家庭を支えていくことができるだろう。
 男であれ、女であれ、人を見抜き、人を信用する場合には、その人の行いを見よ。体は正直なもので、顔にも、態度にも表れるし、虚偽は長く平均して続くものではない。人の行い、動きをよく見る力を養えば、人柄がわかり、性格、内容もつかめるようになるはず。
 強情、頑固な人と、素直で、すっきりしている人とは、顔を見てもわかるし、態度を見てもわかる。自然と姿に表れるからである。人間の性格が、姿、形に表れるのである。
 見抜くのは、目の働きである。眼光紙背に徹するほどに鍛えられれば、相手の運命や将来性まで、直観することもできるようになる。
 さらに、体を鍛え抜いて、体で「気」を感ずることのできる人になれば、人と人との関係で、相手の人の「気」を気配で感ずるし、気持ちの動きもわかる。
 人間の言葉はもちろん、行いや態度というものも、なかなかちょっと見ただけではわかりにくいけれども、相手が何を思っているかということを、「気」という段階で感じ取ることができれば、その内容がよくわかる。「気」と「気」との触れ合いというもので見れば、よくわかるものである。
 どうしてかというと、人間の表現力は言葉や態度、動作のみではなく、顔色という皮膚の艶(つや)や生気が、その時々の意識や感情を表しているではないか。
 それを言葉を聞き取るように感得する力があれば、相手の意は言葉を発する前に読み取れるのである。相手が心とは逆のうそをついていても、その真意を察して誤ることがない。
●悪い印象を与えないためには外観も大切
 誰にとっても、他人の見掛けに惑わされずに、彼や彼女の内容や真実を見抜くことが大切であるが、当人たちの側に立てば、女も男も形だけの美、見掛けの美しさ、格好のよさにこだわるのも理解できる面がある。
 完ぺきな容姿を備えた人間など、世の中にそうそういるものではない。ならばせめて、顔に化粧を施したり、衣服や装身具に金をかけたりして、外観を飾りたいと思うのが、人情というものだ。
 「見掛け倒し」、「人は見掛けによらぬもの」などはよく聞く表現にしろ、人間の見掛け、外観というのも、なかなかに大切なもの。大抵の場合、人間は相手を第一印象でまず値踏みするからである。
 例えば、人間の目が相手の顔から取り出す情報には、その人の目がどっちへ向いているかというような物理的なことのほかに、その人が誰か、あるいはその人の感情状態、属性など、いろいろな要素が含まれる。そういう情報を、人間は意識する、しないにかかわらず、やり取りしている。
 人間が本質的にどこを見て顔を判断しているか、実は今のところ科学的には何もわかっていないが、真顔からでも、優しいとか、怖い、明るい、暗いという感性を情報としてちゃんと読み取れるのである。
 「この人間は、自分に害をおよぼさないか。付き合って損するようなことはないか」。誰もが持っている自己防衛の関門をくぐり抜けて、はじめて口をきくようになり、お互いの心がほどけて、相手の本質がわかってくる。
 つまり、人間の見掛け、外観、第一印象などといわれるものも、なかなか大切なわけだ。
 就職戦線で面接に向かう人、恋人の心の底を知りたい人、ビジネスではじめての相手に会う人、人間が人間と向き合う場面はさまざまだが、とりわけ現代社会では見掛けや外観で判断し、判断される面接は、想像以上に重要視されている。
 就職試験を始め、さまざまな試験で重要視されているこの面接とは、人間を選別する際に、相手の人となりを察知しようというものである。言い換えれば、面接というのは、短時間で相手の性格や人格を見抜くための手っ取り早く、有効な方法論ということもできる。
 人間にとっては、魅力的な顔も、嫌いな顔も、ともに記憶しやすい顔だといわれている。誰もがはじめて出会う人には、魅力的な顔のほうを印象づけたいものである。
 日本とアメリカで行われた心理学の実験で、被験者に対して、ある人物の悪い情報とよい情報とを与えて、後でどの情報を覚えているかを調べたところ、どちらの場合も、悪い印象のインパクトが強く残って、よい印象は背景に消えてまったという。
 結局、第一印象で悪い印象を持たれないようにしておかないと、悪い印象ばかりが残ってしまい、後の展開が大変むずかしくなってしまうということである。人は見掛けを気にしていないようで、かなり気にしているのだということに、留意する必要がある。
 やはり、自分を正しく見抜いてもらうためにも、第一印象は、本当に大切なものである。




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