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■耳は受け身の姿勢を表す [人を見抜く]

[耳]耳には顔の遺伝体質がよく出る
 人間は耳がよいと得をするものであるが、この耳は人間の受け身の姿勢を表すところである。あるいは、防衛機能の能力を表しているところといってもよい。
 顔における他の目鼻立ちは、生物学的に見たなら、それぞれに攻撃的な意味での表情を何かしら持っているもので、目はにらみ、鼻は膨らみ、口は歯をむき、顎は口に応じて張り、眉は釣り上がるという具合だ。
 ところが、耳だけは攻撃的意思や情感と全く連動しない器官である。人間の耳はあくまでも、受け身の姿として存在するのみである。それは、知識を得るための源泉であり、情報収集の源であるだけに、顔の中で最も冷静な場所であろうとしているともいえるかもしれない。
 実は、この耳は内界のものを取り入れて、無意識に送り、体の調節機能もはかっている。しかも、人間が豊かな表情を表す時には、耳が無意識的に働き、表情を作っているのである。
 面白いのは、耳というものが、一番よく顔の遺伝体質を表すとされることである。中国観相法では、鼻も口も年齢によって変わるが、基本的な形は耳が最も一定不変と教えている。
 法医学的な親子鑑定の時も、今でこそ、血液型の種類が赤血球型、白血球型、DNA型などと詳しく調べられるようになり、顔の検査は簡単にされているが、三十年ほど前には、細かく比較したもの。中でも、一番特徴が出ているのが耳であり、この耳が立っているか、寝ているかから始まって、耳たぶの形、耳の一番下の端の切れ込みの形、加えて、結節という耳の上の膨らみがあるかないか、内側のほうが出っ張っていないかなどの特徴を親と見比べて、鑑定していったのであった。
 さて、観相術でいう理想的な耳とは、顔の色より白く、艶やかで、耳たぶが一定の厚みでできていて、硬く、耳の穴は人差し指がスポッと入るくらい大きく、側頭壁にへばり付いていて、できれば耳の上部が眉の位置より一センチほど出ているものである。
 すなわち、色が白く、艶があると人品卑しからず、健康状態もよい。厚みは名声、金力、硬さは精力、耳の穴は度量を示す。耳が側頭部に付いていると、徳の心があって、人が付いてくるといわれる。
 この観相上でいう耳の理想的特徴の中では、一般に、福耳、つまり耳の下部が肉付きがよく、たっぷり膨らんでいる耳は金持ちの相というのが、一番信じられているようだ。もちろん、福耳で金持ちの人もいるし、福耳で貧乏の人もいるのは当然のことである。
 そこで、耳の形や張りの観相で、その人の資質や性格を判断する基本を述べておく。
 まず、耳の大小は、最も原初的な意味で、外部からの音を聞き取る能力の大小を表している。結果として、理解度の大小を表すものであり、また、外部の音への理解度が高ければ、警戒能力もそれに比例して高くなるのはもちろんだ。
 一般に、人間というものは自分の優れた能力に愛着するもので、耳の大きな人は、理解する行為そのものを好み、他人の話にもよく耳を傾けるものである。
 逆に、耳の小さい人は、周囲の言をじっくり聞くというより、どうしても独走的になりやすい。その気質は注意深さが不足するということにつながり、無鉄砲で、そそっかしい軽率な人が多い。
[耳]耳の張りで察知する運勢の動向
 肉が厚く、頑丈そうな耳と、肉が薄く、弱々しい耳の二種類があるのは、通常、誰もが薄々感知していることだろう。
 前者の耳の厚いタイプの人は、体力、気力ともに優れ、外部からの刺激や働き掛けに対しても、簡単には反応せず、じっくり腰を落ち着けて動こうとする傾向が認められる。
 これに反して、後者の耳の薄いタイプの人は、外部からの作用に対して、敏速に、腰軽く動こうとする傾向を見せる。
 耳について、古来、中国人が「耳重きは人を動かし、耳軽きは人に動かさる」という観察法を唱えていたのは興味があるところで、耳重きは耳厚き、耳軽きは耳薄き、に対応するのはいうまでもない。
 耳の厚薄の次は、耳の張りで見る観相である。耳の張りとは、大きさや厚薄、形には関係なく、耳に勢いがこもっていることだ。
 張りのある耳とは、力強い感じ、はつらつとした感じ、艶があって血色がよいこと、どっしりとした安定感、ふくよかでみずみずしいことなどの一つ、もしくは複数の状態を備えているもののことを指す。
 反対に、張りのない耳とは、力弱い感じ、しょぼくれて見えること、くすんで縮こまった感じ、汚く不潔感があるなどの、どれかに当てはまるものである。
 こうした耳の張りは、人間の活気性を表す。活気性とは、外部からの影響に積極的に対応できる精神であり、気持ちであるといえる。耳の張りのない人は、活気性に乏しく、外部への対応が消極的に、逃げ腰になっているものだ。
 なぜかというと、耳というものが、人間の身体的条件の好不調を強く反映する器官だからである。他の目鼻立ちと違って、耳の形状は体形をかなり忠実に表している上に、体の生理機能の代弁者でもあるわけだ。
 身体状況の好調、不調を耳が反映しているということは、まだ解剖学的に確認されたわけではないが、中国では何百年も前から、経験的に認められてきた事実。人体のすべての病気を、その人の耳のツボ、すなわち経絡を刺激することによって治癒力を高め、治してしまおうとする中国の針治療法は、今や世界的にも有名である。人体のツボはすべてそっくり、ミニチュアサイズで耳に再現されているとし、耳のツボを刺激すれば、それに相当する本体の病気も治るという考えに立っているのである。
 耳のツボ刺激で病気が治る人がいることも事実なら、耳の張りのよい人は、外部からの作用に対して活気性のある反応を示すということも、動かしがたい経験的事実である。
 そして、人間の耳は、身体状況の反映ということからして、常に変化しやすいものであることも経験的に認められる。だから、例えば仕事が順調にいっていた人の耳が、急に張りを悪くしたような時は、心身の状況についても、仕事の面についても、十分に点検する必要がある。
 反対に、耳の張りが以前よりも生き生きして、顔色よりずっとさえた感じになった時は、それこそ調子や運勢が乗ってきたことを示している。気乗りがしてきているということだ。




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■鼻は自我と財力を表す [人を見抜く]

[ちっ(怒った顔)]鼻は自我を表し、財力を暗示する
 顔の中心は、鼻である。感覚器官としての鼻には、嗅覚(きゅうかく)機能のほかにも、鼻甲介の血管の収縮によって、肺に入る空気を暖める暖房の機能がある。また、鼻孔内の繊毛と粘膜によって、外から侵入するホコリを防ぐ役目を果たしている。
 そればかりか、実は、この鼻が体を統制している。心をも調整しているのである。坐禅の時、「鼻の頭を見よ」、「鼻の頭に精神を集中させよ」などというのは、本当の教え方ではない。しかし、鼻に意識が集まれば、精神統一と同じような状態になることができるという、一つの方便的教えなのである。
 つまり、人間にとっては、鼻は第二のヘソのような存在で、臍下丹田(せいかたんでん)に「気」を沈めれば、自然に落ち着けるように、鼻をすっきりと通しておけば、神経が常に安定しているから、精神統一をする時も楽なのである。
 さらに、鼻は宇宙からの「気」を受信し、発信するアンテナでもあり、それは外部環境に対しての広がりを意味するだけではなく、肉体内部のあらゆる器官にも四通八達しているものである。盾の両面のように、外部環境と肉体内部に作用する五官作用の働きの霊妙さのシンボルといえよう。
 鼻といえば呼吸だけが役目、と思っている人がほとんどに違いないから、意外な機能にびっくりするだろう。
 人相的には、鼻は金、財力、精力を表す。理想の鼻は、顔面の三分の一の長さ。鼻の付け根は両目の高さから盛り上がり、徐々に高くなって、鼻先に至る。その途中には段差や節などなく、鼻先はビー玉が入っているような丸さがあるのをよしとする。
 伝統的観相学では、鼻を三段階に分け、そのうちの鼻の付け根の部分の山根が知性を表すとし、山根が低ければ知性が低い、山根が高ければ知性高く頭領運などとしているものもある。
 もちろん、世の中には、山根など低くても大成功をした人、頭領になった人、高い知性を持った人など、たくさん存在するのはいうまでもない。鼻高きは高貴などと、決めつける必要もあるまい。
 鼻について確実にいえることは、その人の鼻がその人の自我の存在形態を示すものだということだ。顔という自分の世界の中で、顔の中心に位置する鼻が、さらにもう一つの自分自身の存在の形を表している。
 つまりは、大きな鼻の人は、それだけ自分に占める自我が大きいわけで、我の強い行動をとりやすい。小さな鼻の人は、その反対になりやすい。加えて、自我のあり方という面からいえば、形がはっきりした鼻の人は行動様式もはっきりしているし、鋭くとがった鼻の人は何事においてもシャープな行動をとることが多く、弱々しくふわついた鼻の人はいつも頼りない態度に終始するといった傾向は、かなり鮮明に出てくるのである。
 とりわけ、大きな鼻の持ち主は自我性が強くて、支配欲が旺盛(おうせい)であることは、昔から経験的に認識されてきた常識といってよいだろう。西洋でも古くから、「偉大な征服者はみな偉大な鼻の所有者である」、「鼻は制圧の器官である」などといわれてきた通りである。
 反対に、小さな鼻の持ち主は、周囲に自分を適合させようとする気持ちが強く、自らの限界に敏感なので、暴走することが少ない。
[ちっ(怒った顔)]鼻の下が長いのは長寿を示す吉相
 鼻の長短でいうと、鼻の長い人間は、論理を構築し、追求することを好む。物事にこだわりやすいということだ。
 人種的に見ると、欧米人は東洋人より鼻が長い。それだけ理論好きの人間が多く、ことにドイツ人の理論偏重的性格は有名である。日本では、多少のもめ事は人情的にまあまあで解決してしまうのが普通だが、欧米ではちょっとしたことでもすぐ訴訟になってしまうのも、鼻の長さに関連があるといえよう。
 短い鼻の持ち主のほうは、物事に計画性が乏しく、結論を急ぐ傾向が強い。従って、直観に頼るか、判断を急ぐか、衝動的に行動するかといったことになりやすい。性急な人は、短鼻であるのが普通である。しかし、短い鼻の人は、おおむね機転がきき、明朗で開放的な性格であることが多い。ただし、根気が続かず、移り気な場合も多い。
 次に、鼻の座りについて観察すると、鼻の座りのよい人というのは、実務性が高いといってよいだろう。実務性は、現実認識力と比例する。
 私のいう座りのよい鼻とは、地から生えた樹木のように安定感があったり、小鼻がしっかりと張っていたり、要するに顔面との違和感がなく、しっくり座っている鼻である。
 座りの悪い鼻とは、鼻が顔面から孤立した感じでそびえていたり、つまんだように浮き上がっていたり、ふわっと弱々しい感じであったりと、自分の顔との釣り合いがしっくりせず、座り具合に安定感のない鼻である。
 人間の顔全体を一つの小宇宙、小天地と考えれば、鼻は自分自身である。小宇宙に、どんな具合に根を張っているかを、座り加減が象徴しているのだ。座りのよい鼻の人は実務性が高いというのは、自然の示す驚くべき比喩(ひゆ)の一つであろう。足がしっかり地に着かないへっぴり腰では、鍬(くわ)を地面に打ち込む前に自分の足を傷つけてしまうに違いない。
 実際の話、地に着いた実務性や認識力を欠いては、事業の成功や金もうけもむずかしい。観相学の中に、「金甲、すなわち小鼻の張った人は金がたまる」というのがあるが、小鼻が張っているなら、座りのよい鼻といってよく、実務性が高いはず。その意味では、この観相法もゆえないことではない。
 が、座りのよい鼻の人は必ず金がたまるということではなく、実務性が高く、現実認識力がある人は金もうけをする可能性が高い、というのが正解である。
 一方、座りの悪い鼻の人は、少し調子がいいとすぐ上っ調子になりやすいし、独り合点に早合点、自分勝手な希望的観測、周囲のことも考えず、根回しもすまないうちに独走してしまう。このタイプの人物は、自分の欠点を十分認識して、慎重に行動する習慣をつけねばならない。
 鼻のついでに、鼻の下の人中(にんちゅう、じんちゅう)と、その付近の相について説明しておく。
 人中は、鼻の下から上唇にかけて伸びた溝のことで、これが長い、すなわち鼻の下が長いのは長寿の相とされ、長生きする上に財力にも恵まれる吉相である。
 また、人中の両わきのあたりを食禄(しょくろく)と呼んでおり、家屋でいえば台所に当たるこの部分が広く、豊かな人は、生計にゆとりがあり、財をなすとされる。
 結局、鼻の下に関しては、長ければ長いほどよい相なのである。




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■口と顎は生命力のポイント [人を見抜く]

[キスマーク]口の鑑定は大小、厚薄、締まりで行う
 人間の口は、食と性の二大本能を持つ生命力のポイントである。大きくて力強い口とか、豊かで締まりのよい口といったものは無論よい相であるが、小さくても力のこもった口や、気品のある口、すがすがしい口といった場合も良相である。 
 黒目の内側から下ろす二本の垂直線の中に納まるのが普通で、これより大きな口は、行動性の大きさを表している。口は空気の出入りするところで、自動車でいえば排気量の大小がエンジンの馬力の大小と関連するのと同じく、人間も排気口が大きいと行動力も大きくなるといえるようだ。 
 大きな口は器量も表すから、大勢の人を使って、大きな資金を動かす仕事に就けばよい。
 小さな口の人は、大きな口の人のように本能的に行動が先に立つタイプと違って、エンジンのかかりも遅いので、行動力が弱くて、自主独立の気概に欠けていることが多い。
 唇は、上下同じ厚さが理想的。この口唇の厚い薄いは、持ち主の情動性の厚薄と比例する。一般的な表現でいえば、厚い人間は情熱的で、薄い人間は冷静といえる。つまり、口唇の厚い人は情愛や欲望に突き動かされた行動に走りやすく、口唇の薄い人は情におぼれないで行動するということだ。
 また、口唇の厚薄は、食欲という肉体的欲望とも関連する。一般に、口唇の厚い人は飲食の欲におぼれやすく、薄い人はおぼれにくい。食欲と並ぶ本能、性欲についても、口唇の厚いタイプは欲情に我を忘れやすく、薄いタイプは淡泊なところがある。
 イメージ的に表現するならば、口唇の厚いタイプは、情熱、濃厚、非合理。薄いタイプは、冷静、簡潔、合理。そういった言葉が当てはまるようだ。
 もう一つ重要な観点がある。口の締まり具合で、その良否は、意志性の強弱を表している。締まりのよい口の人物は、意志的コントロールがよく、自制力に富んでいる。反対に、締まりの悪い、だらしのない感じの口の人は、意志的な安定が弱く、自制力に欠けている。
 もっとも、口の締まりは、何も苦虫を噛みつぶしたようにいつもギッと噛み締めているのがいいわけではなく、静かに、穏やかに締まっていても同じことで、むしろ緊張過度の苦虫型より自然である。
 この点、大きくて口の締まりのよい人は、行動半径の広い仕事をするものだ。小さくて口の締まりのよい人は、行動半径はさほど広くなくても、確実性のある仕事をなしとげてゆくものである。
[キスマーク]顎の値打ちは力強さ、頑丈さにある
 頬は孤峰独従といって、ここだけが高いと、人はなかなか付いてこないとされるが、頬の下に位置する顎の相について述べよう。
 人相上では、顎は意志の強さを表し、晩年の相をも表す。老人は足から衰えるというが、実は人間の一生は上から下へ成長、発達してゆくもので、晩年の運勢は顎にある。
 日本の軍隊では、よく「顎を引け」といった。相撲界では「顎が上がった。もう駄目だ」といっている。一般の人なら、「顎で人を使う」という言葉を使うだろう。
 顎の先を動かして、人を指図する意味だが、その裏にはなかなか意味深長な背景を持っている。というのは、顎の頑丈な人間は先天的に、ある意味で他人を支配するのに適した性質を備えているといえるもので、政治家や実業家、労働組合の指導者などのように、多くの人間を直接に支配する立場の人には、実際に頑丈な顎の持ち主が多いもの。
 明らかに、顎の頑丈さの持つ闘争性が、支配性という様式に転化した好例である。それに、人間という生物は、本能的に、頑丈な顎の迫力に圧倒される面があり、彼らは楽に支配力を発揮できるというわけである。
 顎の大小で見ると、顎の大きい人間は、行動における発動性が遅い。一つの行動を起こすのに、時間がかかるのである。ゆったり構えて、なかなか行動に踏み切らない。これに対して、顎の小さい人間は、行動における発動性も、行動の転換も早い。
 次に、丸い顎、あるいは丸っぽい顎の人と、角顎、あるいは角っぽい顎の人との違いで見ると、行動における方向性の違いが観察される。
 丸顎は、感情や感覚に触発されて行動を起こし、また、自分の感情や感覚が納得する方向に行動を持っていこうとする。片や、角顎は、論理や規範に基づいて行動を起こし、また、自分の信じる論理や規範に反しないように行動する方向へ持っていこうとする。
 丸っぽさ、角ぽっさの程度に応じて、その方向の強弱はあるが、この傾向の違いは歴然としている。
 ともかく、顎の値打ちの根本は、頑丈さにある。顎の頑丈さは、闘争性の強さを表している。行動における力を決定する要点なのだ。
 しっかりと、力のこもった頑丈な顎の持ち主は、意志が強く、困難打開力や抵抗力も強い。しかも、この顎に力のある人や、腰に力のある人、足に力のある人というのは、落ち着いている。度胸があるからである。
 頭がよいということと、人間がしっかりしているということとは、違うのである。利口といっても、本当に利口な人というものは、無駄口をきかないし、無理なことをしない。無法なことなどはしないものである。
 人間の真なる力というものは、顎とか腰とか、腹や足というような肉体の低いところに集まっている。そして、これがその人の落ち着きというものになる。
 その一つの典型が坐禅である。足を組み、腹を据えて、顎を引く。次に、口を結んで腹で呼吸をする。このようなしっかりした顎を持って人生を生き、しっかりした腰や腹で生きていく時は、心臓や肺臓に負担がかからず、頭がすっきりする。雑念や妄想なども起こらない。
 この力のある顎、頑丈な顎に反して、力のない、弱々しい顎の持ち主は、難敵に対する闘争力が劣弱で、自らの行動を貫徹する持続力にも欠ける。人生の正念場で挫折する人間に、よく見るタイプである。
 しかしながら、顎が頑丈でなく、行動性において弱い人の場合でも、人間は社会的動物として多様な生活様式の中に生きているのであるから、他の才能や性格が優れていれば、適職を選ぶことによって、社会における重要な地位を占めることが十分に可能だといえよう。




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■観相術は経験法則による判断学 [人を見抜く]

[わーい(嬉しい顔)]顔が人間のすべてを物語る
 「顔は精神の門にして、その肖像なり」と、古代ローマの政治家、哲学者のキケロは喝破した。現代に生きる私たち人間も同様に、顔によって人を見分け、精神のあり方や、人となり、心の内側までも推し量る。顔は、彼や彼女の氏や育ち、生き方、性格、教養、職業などから、喜怒哀楽まですべてを表す。
 その人間を集約する個所だから、顔は肉体の中でもその人を代表する大事な部分といえる。「相手の顔を立てる」、「人の顔に泥を塗る」、「世間に顔が広い」などという。顔は、社会に向けられたその人間の存在なのである。
 この点、「あなたは初対面の人の顔を見て、相手の性格を見抜くことができるか」とアンケートで聞いてみると、三十代までの人に比べて、四十代以上の人の肯定的な回答が目立つものである。人間は年齢と経験の積み重ねで、他人を見抜けるようになるわけだ。若い人にしても、相手の性格まではっきり見抜けなくても、一目で「この人は金持ちらしい」とか、「あの人は貧乏に違いない」などと、常識的にわかる一面があるはずである。
 私にいわせれば、顔の人相、相貌は、その人の現在を物語るばかりか、その人が先祖から受け継いだ先天的なものを表し、将来の運命さえも物語るものである。人相、相貌で長寿か否かもわかる。すべてのものは、姿、形から実質を判断でき、インスピレーションで推理もできるからである。宇宙天地大自然世界には、姿、形に関係ないものは一つとしてない。
 人間の姿、形、すなわち容貌、骨格などから性質、運命、吉凶を専門的に判断することを観相、観相術、人相、人相学などという。中国伝来のこの観相術は、一方で「当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦」といわれながら、時の宰相が足を運んだ観相家もいたほどである。
 また、かつて某大学で県下の易者グループの協力のもとに、人相と手相の的中度を調査したところ、人相は被鑑定者の性格や経歴との一致率が高いのに比して、手相ははなはだ低いという興味深い結果が出た。
 こうした観相術の領域に踏み込んでみたい。ここでで述べる観相術、人相学は、自然科学のようなものであり、知ると必ず得をするはずであるし、知っていると自分の生き方も楽になるはずのものである。
[ちっ(怒った顔)]毎日の心構えが天来の人相を変える
 人間個人に備わった人相は、天来のもの、先祖伝来のもの、一生のものである。だから、今、こういう人相を持った自分には本来、先祖といった前提があるもので、過去からのすべてのものの集合が自分であり、永遠の中に生きる自分であるということを、まず大いに自覚してもらいたいもの。
 次に、顔形(かおかたち)そのものは親から受け継いだものだから、本人に責任はないかもしれないにしろ、年頃すぎたら顔は自分が作るものといわれるように、やはり顔に表れる品格や教養は本人の責任であるということを、自覚してもらいたいものだ。
 よく「人品卑しからぬ」とか、「一癖ある顔」などという。両極端だが、どちらも顔に表れたその人間の生き様だ。骨相が遺伝的なものなら、人相の半分は後天的なものといえるだろう。
 つまり、天来の人相には動かしようがないという一面があるにしろ、毎日の心構えで変えようもあることも知ってもらいたい。
 心構え、あるいは観念などという意識は、それだけでは抽象的で実体のない自己満足のようなものであるが、この観念の持ち方いかんでは、人間の一生を左右するほどの力を持っていることさえある。   毎日毎日、同じ思いを心の中に持ち続けていると、文字通り身も心も、その思いの通りになるもの。その思いを固く観念として維持しておれば、それは自然にその人の人相を形作り、その人の表情を操作し、その人の発する言葉の端々にまで反映されてくるものである。
 心の中の想像はそのまま、精神の肖像たる顔の創造につながる。一日一日の自分の意識の集積が、自らの人相を形作ってゆく。
 とりわけ、四十歳以後の風貌は、本人自身の後天的な責任にある。「男子は四十歳になったら自分の顔に責任を持て」とは、世間でしばしば交わされる言葉で、もはや不惑は、親がどうの、仕事の上の人間関係がどうの、女房や隣人がどうのといって責任転嫁をしてお茶を濁せる年ではない。
 大学卒なら学窓を出て二十年近い四十歳代には、誰もが人生の年輪が顔に刻まれ、修養や勉学の深浅、苦労の多寡などが自然と表れるのが必然。
 だから、中年世代になると、久々のクラス会などで、旧知の同級生がまるで別人みたいに変わっていて、驚くことが少なくないはずである。
 例えば、学生時代には「ガマ」のニックネームが付けられ、醜男(ぶおとこ)の代表格と見なされたAという人物が、基礎科学の研究に専念し、四十代を迎えた時にはその道の権威者の一人になって、その顔は英知に輝き、アンバランスな目鼻立ちは一種独特の、重厚な風格をたたえている、というような場合がある。
 社会で磨かれて、四十すぎると立派な人間性を形成し、顔や姿に人格の輝きが表れるという人は、けっこう見掛けるはずだ。
 片や、クラスの中でも眉目(びもく)秀麗で名高かったBという男が、女性問題でつまずき、事業も失敗を重ね、いつも暗い、さえない表情をたたえ、実際より十年も老け込んだ顔をしている、というような場合もある。
 ただ老けた、おやじ臭くなっただけではすまされない人相の変容も、わりあい見掛けるはずだ。不細工でもいい、せめていい人相になりたいと思うのが人間自然の人情というものではあっても、世の中には、結婚生活に失敗したり、性生活を乱暴、狂態にし、それが悪癖、悪運命となって、三十から人間の不幸が目立ってくるという人も、けっこう存在するのである。
[がく~(落胆した顔)]顔に表れる良相、福相、悪相、貧相
 人間の顔は、年を取るにつれて変わる。誰しも免れ得ない事実であるが、その変わり方は、単に老化するだけではなく、いい変わり方をする場合と、悪い変わり方をする場合があるのだ。なぜ、変わり方に相違があるのか。顔にできるシワという面から考えてみよう。
 人間は年齢を重ねていくと、必然的に筋肉が衰えるにつれて、顔がだらけてしまう。目尻(めじり)や口元も下がって、そのままでは顔面の縦方向にシワが出るものである。とはいえど、自分の仕事を一生懸命やっているような人、特に上に立って部下たちを指導し、叱咤(しった)している人などは、顔に張りがあるもの。叱咤したり、命令したりすると、顔のシワが横に引っ張られるため、シワが横に出るようになるのである。
 だから、人相学的にいうと、縦ジワが多い顔は悪い顔、横ジワが多いのはいい顔ということがいえる。何事か打ち込むものを持って、張りのある生き方をしている人間は、いい顔、良相、福相になるのが当然で、縦ジワよりも横ジワが目立つ顔をしているのは、彼らの人生が充実していることの証拠といえよう。
 一方、げっそりやせて、頬がこけた顔は、いくら健康でも、周囲からは貧相に見られてしまう。また、眉間(みけん)に深い縦ジワを寄せている顔も、何か陰険そうで、いい顔とはとても思われない。
 一生を懸ける生きがいもなく、これといった熱意も持たず、のんべんだらりと、酔生夢死といった有り様で生きている彼や、心配事や悩みが尽きない、暗い生き方をしている彼女は、貧相、悪相になる傾向が強い。
 そもそも、人間というものは、先天的な、生まれついての顔をベースにしているわけである。感情を乱すこともなく、平常心を保って生きてきた人は、そのままの顔が習慣化して定着するだろう。ところが、いつも顔をしかめて、「困った」といっているような人は、眉間にシワが寄ったりして、困った表情が定着する。
 このように、長年にわたる習慣的表情は、人の顔のあり方を次第に変えていくものなのだ。
 日頃の生活が人の顔を作るとは、心理学的にもいえること。プラス志向で暮らしていれば、顔にも活力があふれてくる。そういう人は周囲にも好かれるようになるので、ますます活気に満ちた生活を送れるようになる。その結果、いい表情が定着する好循環が生まれて、いよいよ素晴らしい顔になっていくというわけである。
 そういう張りのある生き方をしている人に、自然にできる顔のシワは、浅くて、美しいものである。反対に、シワなどはそうやたらにできるものではないのに、何か大きな心配事でもあった人は、心の圧力によってシワができるもので、圧力でできたシワは非常に深く、醜い。
 結局、人相学でいういい顔になることとは、年を取るにつれて横ジワが出てくること、しかも浅いシワが自然に出てくることである。それとともに、太り顔になることもある。やせて、頬骨が出てくると、人間は残忍な顔になってしまいかねないが、太り顔はいわゆる福々しい顔ということで、豊かな生活をしているとか、悪いことはしないというように思われる。中年太りを気にしている人にとって、人相学的には太ることもまんざら悪いことではないとは、少しうれしい話ではなかろうか。
[ふらふら]観相術は経験法則による判断学
 しかしながら、従来の観相術、人相学はあまりにも、仏様の顔であり、エビス、ダイコク様の顔に近い、肉が厚く、丸みを持った福々しい顔を福相そのものと規定しすぎた傾向があるのは否めない。
 理由の一つには、成功者の晩年の満ち足りた顔貌をもって、福相の基準としたせいもある。つまり、美食と自己満足のゆとりが作り上げた福々しい顔は、成功したという結果がもたらした変化にすぎないのに、多くの観相家が陥ったワナであり、単純に考えれば肥満タイプはことごとく福相ということになりかねない。
 もっとも、昔の時代にあっては、腹いっぱい食べることは金持ちにしか許されないぜいたくであった。太り顔が福相とは、ある程度、事実に近かったかもしれない。ところが、一般庶民でも飽食、美食が普通になった現代では、むしろ不用心に太りすぎた人は自らの健康管理すらできない者と見なされ、スマートさを保つことこそが成功者の証明であるとさえいわれ出している。
 この際、あまりにも類型的で通俗的な、福々しい顔が福相で、やせこけた顔が貧相という考えに、こだわりすぎないほうがよいだろう。歴史が証明するように、いわゆる貧相で大富豪になった人もいるし、逆に、世にいう福相で貧乏な人も多い。
 観相術は本来、客観的に科学的な証明が可能なものではない。むしろ、膨大な数の観察経験を集積し、その中からタイプごとの共通項を見つけ出していく経験法則による判断学である。
 人間の顔の観察を集積し、分析していくと、共通タイプの人は、共通の資質や性格を持つことが次第にわかってくる。もちろん、共通のタイプはすべて共通の資質、性格ばかりというわけではなく、共通のタイプの人でも、あったりなかったりするものはある。その中で、百人のうち九十九人までは必ず備えているという特別に濃厚な資質、性格が鮮明に浮かび上がってくるもので、多数の観察結果を帰納して出てきた法則こそが、必然といえる特徴といえるのである。
 本サイトでは、人間の顔の型、目鼻立ちといった基本的形状のタイプから、人間の資質判断や性格判断に役立つ、最も根源的な意味を持つシグナルだけを紹介することにする。
 それらは、私の長い間の観察と研究の結果、導き出された経験法則であり、科学的証明ではない。だが、これこそ、人間を判断し、知るための基本的なものであることは、読み進むうちに次第に納得してもらえるはずである。
 皆さんは、私が述べる判断ポイントに従って、自分、あるいは恋人、友人、上役、部下などのチェックを行い、人生のいろいろな面で役立ててもらいたい。本当に人間を見抜くあなた自身の見識となれば、より幸いである。




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