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■肉体を慣らして頭を鍛える1 [頭を鍛える]

[野球]歩くことが大脳を活性化する
 頭脳を鍛えて活性化し、あるいは頭脳の明晰さを維持するために、自らの体を使うというのはよい方法である。
 「気」の宇宙真理的に理解するならば、人間の体は宇宙の「気」の結晶身である。そして、人間の体を「気」の結晶身、「気」の放射体として理解して得られる結論は、その全身が判断機関であり、記憶機関であり、呼吸機関であるということであった。
 私たちは一般的に、脳だけが考えることを行う器官だと思っているが、実際は脳とすべての器官を使って考えているのである。頭脳明晰法を考える場合にも、やはり肉体の存在と機能を無視するわけにはいかない。
 頭脳も体の一部分、体全体が鍛錬されて立派になると、おのずから頭脳も整い、落ち着き、さえてくるものなのである。
 例えば、体を支える足を使って歩くのは、脳の働きも活性化する。歩くことによって、血液の循環はよくなり、血圧も調節され、その上、脳の働きもよくなるのである。
 近頃はあまり使われなくなったが、逍遙(しょうよう)という言葉がある。ブラブラ歩くことであり、そぞろ歩きのことである。ギリシャの哲学者、アリストテレスは、並木道を歩きながら弟子たちに講義したそうで、この学派には逍遙派という、またの名がつけられた。
 歩く時には足の筋肉が働いているので、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ伝えられる。大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできている。
 人間の若さは大脳に集約されて表れ、足が衰えると長生きできないといわれるのも、足の筋肉から大脳へゆく信号が減り、弱くなるためである。
 手の運動をつかさどる脳の分野があるように、足の運動をつかさどる働きも、位置と占める割合こそ違うが大脳にはある。この大脳にある足の運動を担当する領域と互いに連動し合って、歩くのに使われる筋肉は、特に歩行筋と呼ばれており、おしりの筋肉である大臀(だいでん)筋、大腿四頭(だいたいしとう)筋、下腿(かたい)の腓腹(ひふく)筋やヒラメ筋などである。
 これらの歩行筋だけで全身の筋肉の半分以上を占めているのだから、気づいていないかもしれないが、歩くという単純な運動を続けるだけで、大脳ばかりか、体の多くの筋肉を鍛えることができるのである。同時に、腹筋と背筋を強くするのに、歩くことは効果的だ。
 ともかく、さすが大哲学者のアリストテレスは、合理的な教授法をとっていたわけである。同じ哲学者のカントの規則正しい散歩も有名である。
 そこで、頭脳労働をしている人は、ことに歩かなければいけない。頭ばかりを酷使していては、うまい考えは出てこないからだ。正しい歩行により、大地に足を印することは、脳に微妙な刺激を与え、脳の疲労をとり、脳を健全にすることにも役立つことを忘れないでほしい。
[ゴルフ]頭も足も使わないと委縮するもの
 歩くことが頭をはっきりさせると知ったからには、頭脳労働者ばかりでなく誰もが歩いて肉体を主として、意識をすっきりさせるようにしたいものである。
 歩くことの刺激によって、人体の横隔膜の下にある肝臓、胃、腸、脾(ひ)臓、すい臓、膀胱(ぼうこう)、それに女性ならば子宮などの臓器において、停滞している機能が適度にほどけて、働きが活発になる。
 すると、横隔膜の上位にある心臓も肺も、同時に機能的に血液の循環をよくし、血液への酸素の供給が盛んになるため、当然、意識はすっきり、気分はさわやかになってくるのである。血液の流れが速くなるので、管にたまった汚れを掃除する。血管が膨張して、若返る。しかも、刺激が強すぎることもない。
 歩くことは、基本的に無害なトレーニングであり、運動なのである。この点、運動生理学者も、トレーニングによって体を鍛えられるだけでなく、精神的なストレスも軽減できると保証している。
 紀元前四世紀の昔、医学の祖といわれるヒポクラテスが「人間の体は、使うことで開発され、使わないことで弱くなる」といっている通り、人間の肉体はよくできたもので、外界から刺激や緊張などのストレスがかかると、これをはね返そうと働き、体を鍛える。トレーニングの原点はここにある。
 運動によって、脳の中に天然の鎮痛剤であるエンドルフィンという物質が分泌される。モルヒネの数百倍とされる効き目があり、不安の痛みを鈍らせ、ストレスの影響を緩和するといわれている。
 ある程度走り込んだ長距離選手は、走って二十分ぐらいたつと、急に苦しさがなくなり、周囲の景色が美しく見える。ランナーズハイという一種の恍惚(こうこつ)感で、これも同じストレス緩和現象だ。
 走るより軽い歩行でもストレスを軽減できるし、さらに、歩くことによって下半身の筋肉の運動がなされて、腸の蠕動(ぜんどう)運動も順調になる。便秘というものは、腸の蠕動運動が鈍るために起きる現象である。
 このように、歩くという単純な運動でも、脳をも含めての内臓諸器官を調整し、強化することになるのである。このことは、とりもなおさず、一切の病苦に対する最良の防衛力を強化する手段となる。脳卒中のリハビリテーションの権威は、中高年時代に運動を続けていた人は、脳卒中で倒れた場合でも、その機能回復がスポーツゼロ族に比べ、はるかに早いと述べている。
 歩きが減量とか、体重維持に効果があることも実証されているところで、いろいろな機関の最近の医学的研究によると、一般社会人が健康状態を保つには、一日に三十分以上歩く必要があるという。一日の歩数の多い人ほど、心電図異常の発現が少ないとか、動脈硬化を助長する高脂血状態が改善されるという発表も見られる。
 やはり、私たちの体は頭と同様、上手に使うことが、その健康維持に大切なのである。頭でも足でも使わないと、だんだん委縮する。機械化、自動化、省力化が進むにつれて、人間の体力は当然落ちていく。「現代人の直立能力があやしくなってきた」、と指摘する医学関係者もいる。下半身に力のない人は、概して感情や圧力を起こしやすく、ヒステリー的である。
 なるべく下半身を鍛えるためにも、二本足で歩くという人間の自然な、根源的な行為を大切に心掛けたいものである。
 毎日の通勤、通学の際、一駅前で下車して歩く、買い物の時いつもより遠くの店へゆくなど、意識的に工夫をしたり、特別な運動プログラムを組むなどして、あなたも一日三十分以上、ないし一日一万歩を目指して努力してはいかがだろうか。
[テニス]ボケを防ぐ手のひらの鍛錬
 人間の足に続いては、手を鍛錬して頭の働きを維持する方法を述べよう。体の中で、生かされているという自然の中に深々と根差しているものは腹から腰、それから生殖器官、そして両脚、両足であるのに対して、人間の手は生きるという面に、生きるための働きをしている。
 手は自由自在に独立しているかのごとく、さまざまなことをなすことができる。生きるという自力を発揮する上で、手というものがどのくらい進歩してきたかを考えれば、人間はまだまだ、現在くらいの働きで満足していることはできないだろう。
 かの哲学者カントは人間の手を称して「脳の可視部分」といったが、大脳の半分以上が手を動かすための役割をつかさどっているともいう。足の運動をつかさどる脳の分野があるように、手の運動をつかさどる働きも、位置と占める割合こそ違うが大脳にはあるわけだ。この大脳にある手の指の運動を担当する領域は、足の運動野の十倍以上の広さを占めており、互いに連動し合って、人間の複雑な動作をも可能にしているのである。
 その手を使うあらゆる分野の名人、達人の手が、どのような、からくり、仕組みで巧妙至極に動くかは、実は心と神経に関係がある。心の充実したものが、直ちに手にくる。その間に五官も頭脳も働いているが、それらは、同時に間髪を入れずに働く。
 しかし、働いてはいるが、それほど頭も五官も使っていないように見える。腰や腹にも力を入れているようには見えないが、力が入っている。極端にいえば、肉体全身にすべての力が加わっているのである。
 そこで、頭のボケを防ぐために、誰もが自分でできることとして、手のひらを鍛錬するのも一つの効果的な方法である。
 お寺の和尚が念仏を唱える時に、数珠を手のひらでもむ。それはお経をありがたくするということだが、手のひらを鍛錬してボケを防ぐということが、その中にちゃんと入っているのだ。
 中国の気功術の手始めも、両手の手のひらをこすり合わす。そろりそろりと手のひらを離すと、両手のくぼみの間に「気」が通う。これが気功の第一課だといわれている。
 そして、両指先を動かす末端運動もボケの予防になる。なぜなら、血液の循環は心臓の鼓動による力ばかりでなく、血管、ことに毛細管の末端にある動脈系と静脈系を結びつけるグローミーというものの働きが、同時にその原動力となっているというが、末端の運動はその血液循環をよくするからである。
 よく、中国では長寿法の一つとして、クルミを両手に始終持って常に動かすという。これなども結局、手、指先を動かすのがいいということである。使えば使うほどよいのが手と頭である。手の五指ばかりではなく、末端運動の一つとして足の指も動かすのもよい。 また、手のコブシで、コメカミのあたりを軽く叩けば、頭に微震動を与えて、頭の血管やその毛細管を相当に刺激し動かすという作用もある。
[サッカー]よく噛むこともボケ予防に役立つ
 さて、誰もが毎日の食事に際して、何気なくやっている噛(か)んで食べるという行為も、実は、ボケの予防に役立つものである。時間をかけて、ゆっくり、よく噛んで食べさえすればよい。
 このよく噛むということの大切さを、現代人はどれほど知っているか。三千年ほど前にできた中国の「黄帝内経」という東洋医学の古典にも、「呼吸と咀嚼(そしゃく)が完全になされるなら、人は百年生きることができる」と書いてある。
 最近では、噛むという行為に関して、歯は感覚情報器官であり、物を噛んで食べるという咀嚼は口だけの運動ではなく、システムとして捕らえるべきだという研究が発表されている。
 これは、歯の根からの神経が、頭を支える首の筋肉群につながっていることを突き止め、脳全体への情報伝達という意味から、幼児期からよく噛むことがボケの予防にも役立つし、唇や舌などの情報は各神経系を通じて脳幹に伝えられ、適切なリズムで噛み続けられるように、咬(こう)筋などの咀嚼筋を調節するというものである。
 生理的にいえば、毎日の噛んで食べるという当たり前の行いも、実は複雑な神経系のお陰ということである。
 よく噛むことは、体の生理や神経にとって最も大切なことだし、歯槽膿漏(しそうのうろう)の予防、健全な歯並びによいだけではなく、あごの筋肉の伸縮で大脳を刺激する信号が送られ、情緒的にも安定して、無意識のうちにストレスを解消、中和させるという、人間形成上に大きな役割を果たすこともわかっているのである。
 リズミカルなあごの運動によって、パッピネス・ホルモン(ベータ・エンドルフィン)という物質も分泌される。このホルモンが多量に分泌される状態の時、ストレス解消はもちろん、ウイルスやガン細胞の増殖を抑える力まで発揮する。
 もちろん、食物の味がわかるためにも、咬筋という一群の筋肉を十分に動かして、十二分に咀嚼しなければならない。
 現代人は高級な食生活をしながら、食べ方が早すぎし、量も多すぎる。食物の味を知る人間は、人間としての味が出る、知恵も出る。腹いっぱい食べる人間には、物事の真髄がわからない。
 そういう意味で、むやみと軟らかい食べ物を選ぶのもよくない。現代の食べ物やその傾向を見ていると、ハンバーグなどに代表される練り物と、めん類が全盛で、人類の歯という歯は、ほどなく、ちょっと硬めの食べ物にも「歯が立たない」ものになってしまうに違いない。
 ある実験によると、現代食の咀嚼回数は、戦前の約半分だともいう。現に、よく噛まないせいで、あごの発達が悪くなっている子供が増えている。
 食事三昧に徹して、よく噛んで食べれば、実においしい。食べ物がおいしいということは、大変に幸せなことである。
 同時に、よく噛んで体を鍛える。噛むことで唾液の分泌が盛んになれば、食べた物が口の中で十分に消化される。咀嚼によって、食物は小さく砕かれ、表面積が大きくなれば、消化酵素などが触れる部分が大きくなるから、それだけ消化しやすくなる道理である。
 また、必要以上に食べすぎると、意識がボンヤリして、仕事や勉強をするのが面倒になるから、腹八分の自然の食べ物を口の中で、気化するほどによく咀嚼している。
 人間の咀嚼は単なる口腔の運動ではない。全身の営みであり、精神の営みなのである。




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■肉体を慣らして頭を鍛える2 [頭を鍛える]

[パンチ]あくびで頭の働きに活を入れる
 人間の上あごと下あごの間に張っていて、食べ物を噛む際に使う筋肉が咬筋という咀嚼筋であるが、これを意図的に強く引き伸ばすことで、頭をはっきりさせる方法もぜひ勧めてみたいことの一つである。
 簡単にいえば、あくびをするのである。仕事や勉強に飽きた時、やる気を取り戻したいと思ったら、あくびという吐息をする。あくびは、体内の疲れを「気」に変えて、体外に放出する自然作用だから、大いに奨励すべきものである。
 あくびの原因が前夜の睡眠不足では怠け者の象徴となるが、気分転換、心機一転の機会ごとに、着想が新しく、新しくと進んでゆくのがよい。そうすれば、意識は前向きでやる気が出る。
 事務仕事の多いビジネスマンや学生は人工的に、時々、このあくび、ないし伸びをする癖をつけておくと、習慣的に、条件反射運動的に、疲れがたまると、すぐに出るようになる。努めて、このような自然機能が発動するような体勢、体調にしておくことだ。
 頭の働きに活を入れようと思ったら、体の筋肉を引き伸ばすことが一番なのであり、人間が無意識に実行している典型的な例が、あくびや伸びなのである。
 歩きの効用を述べた際にも説明したように、筋肉が引き伸ばされた時、その中にある感覚器の筋紡錘からは、しきりに信号が出て大脳へ伝えられ、大脳は感覚器から網様体経由でくる信号が多いほどよく働き、意識は高まって、頭ははっきりするようにできている。 「血液の中の炭酸ガスを追い出すための深呼吸」だと思っている人が圧倒的だろうが、あくびは「頭をはっきりさせるための運動の一つ」でもあるのである。
 今まで眠っていた猫が目を覚まして、行動を起こそうという間際には、決まってあくびをし、ついでに背伸びをしている。我々人間も、これから起き出そうという際には、伸びをしたり、あくびをする。
 ともに筋肉を伸ばすことによって、頭をはっきりさせる効果があることは、説明した通りである。
 長い会議に出席したり、退屈な講演や授業を聞かされると、あくびが出そうになるもの。このあくびが、頭をはっきりさせて、何とか目を覚ましていようという、無意識の努力の現れだとしたら、周囲も「エチケットに反する」と腹を立てたりはできなくなる。
 あくびは自然の覚醒剤。したい時には、いつでも堂々とやりたいものである。その点、咬筋の収縮を繰り返しても、同じような効果があるので、ガムを噛むのもいいだろう。
 同じ意味で、パソコンに向かう際には、立ったままで仕事をするのもいいだろう。人間が立っている時も、意識には上らないけれども、百くらいの筋肉が働いているから、腰掛けて筋肉をダラッとさせている時より、頭はずっとさえるはずである。
 だから、学校の朝礼において、「気をつけ」と不動の姿勢をとらせての訓示は、休みの姿勢で聞くより効果的なのだ。疲れて電車に乗っても、立ったままではなかなか眠れない。それが腰掛けると眠ってしまうのも、同じような理由によるのである。
 では、腰掛けるのと座るのとは、どちらが頭の働きをよくするかというと、太股(ふともも)の筋肉がより強く引き伸ばされるようになる座り方だろう。説明してきた通り、筋紡錘からの信号は、筋肉が引き伸ばされた時に、しきりに出るものだからである。
[手(グー)]睡眠で脳細胞の疲労回復に努める
 私たち人間が頭の働きをよくしようと思ったなら、日常茶飯事の睡眠という行為をないがしろにしないで、頭や体を十分に休ませることも大切である。
 一生涯のうち三分の一は睡眠であるというほど、睡眠は大事なことであるのに、現代人は通常、誰でも夜更かしをして、若いうちから体内にある生理作用を狂わしている。眠りを軽視し続けていては、頭の働きのみか、ついには心身の健康まで駄目にしてしまうのは必然である。
 睡眠のメカニズムについては、科学的にも諸説が出され、いくつかのことが解明されているが、まだまだ未知の部分の多い領域だといえる。
 ただ、眠りとは脳と体の興奮や活動が低下した状態で、睡眠と覚醒をコントロールしているのが脳であることだけは明らかになっている。脳といっても、脳幹と呼ばれる部分が睡眠と覚醒を調節しているとされている。大脳の内部にあり、古い皮質に包まれた脳幹は「命の座」といわれ、生命を維持し、成長を促す重要なところ。自律神経系とホルモン系を調節する間脳、中脳、橋、延髄などで構成されている。
 さらに正確にいえば、その脳幹にある間脳の一部に、視床下部という手の親指ほどのところがあるが、視床下部の一部で、視神経が集まっている視交叉(さ)上核という一対の神経細胞群の中にある生物時計が、目覚めと眠りのリズムを支配しているのである。
 視床下部はちっぽけでも、支配力は絶対的なのが特徴で、睡眠の偉大なリズムは一生涯にわたって続くのである。睡眠はすべての物事の根本で、生命が培われるのも夜の眠りの中である。
 まさか人間を使って試してみるわけにはいかないが、子犬を使って眠らせない実験をすると、六日間の断眠で体温が四~五度も下がり、脳細胞は一週間もすると壊れ始める。
 つまり、脳細胞は鋭敏な代わりに、すこぶる疲れやすいものなのである。我々は、脳細胞の疲労回復のために、眠るわけである。「ああ、眠くなった」というのは、脳細胞が「もう疲れました」と、危険信号を発しているものと思っていいだろう。
 よく「眠れない、眠れない」とこぼしている人がいるが、脳細胞は疲労がぎりぎりのところまでくると、ちょうど食欲と同じように、必ず休息、睡眠を要求する。逆にいえば、眠くない人は眠る必要がないのだ、といってもよいくらいである。
 いずれにしても、脳細胞の要求は尊重したいものである。脳細胞は百五十億個もあるが、これは生まれた時から備わっていて、ほとんど増えないし、その上、一度壊れたら最後、いくら養生しても埋め合わせのきかない貴重なものだからである。
 眠りによって脳細胞を休ませる必要は、誰もが拒めない義務のようなものである。
 手や足は使わないでいるだけで、ある程度、疲れをとることができる。だが、脳は目や耳から絶えず刺激を受けていて、機能し反応し続けているのである。起きている間は、脳に休息はない。脳を休ませるには、眠るしか方法がないのである。
 一日使ったら、夜は脳を含めた肉体を疲れさせないように、軽く食事をとり、風呂に入り、肉体を温め、血液の循環をよくして、湯冷めしないうちに寝るがよい。就寝時間の最善は八時、次善は十時、限度は十二時前である。
 最近では、眠れないなどという人が増えているようだが、仏教の要義が簡単に約説してある法句経(ほっくぎょう)の中に、「眠られぬ夜は永し」とある。先哲も、内なる時間として述べている。「人間の置かれている環境次第で、楽しい時は過ぎやすく苦しい場合は長い」と。
 私にいわせれば、不眠症はぜいたく病。働きが精神労働に傾きすぎて眠れないということもまれにはあるけれど、だいたい、軽く疲れるくらい働けば、ぐっすり眠れるというのが、宇宙に創られた結晶身、自然生物、自然機械たる人間のオートメ装置である。
 たとえ横になって眠れなくとも、イライラしないで、五体を横たえてさえいれば、基礎代謝は最少ですみ、疲れはとれるものだから、気にしないこと。気にしなければ、必ず眠られるはず。
 眠れないなどというのは、意識が欲をかいている証拠でもある。一切の欲を捨てて、体一色になれば、すぐに眠れる。よく眠れる。
 かくして、早寝早起きするようになると、体の中に蓄積された疲労や病因や心労や悪癖や性分なども、夜の眠りの中で自然作用により浄化されて清浄身となる。
 そこで、本当に眠りということに徹すれば、寝ているうちに洗心され、精神修養もできるのである。
 早く寝て、十分に眠ることを毎日の習慣にしている人は、よく眠るだけで賢明かつ健康な人となり、気がつくし、気もきくという「気」の働きのある人になるから、学歴や知識などあまりなくとも、世の中にあっては皆、それぞれの職分において立派に成功することができるだろう。
[手(チョキ)]昼寝は発想を転換する特効薬
 そして、先にも述べたように、「気」働きのある人になれたなら、十分な眠りの後の朝の目覚めのひとときなどに、素晴らしい感覚から直観を起こしてひらめき、難問解決のヒントに気がついたりするのである。
 このようなひらめきを得られるなどの効用があることから、夜ばかりでなく、昼食後も体を投げ出して、そのまま二、三十分眠ることを勧めてみたい。
 二十分から三十分くらいの時間の眠りは、睡眠生理学的にいっても体まで眠る深い眠りにはならず、大脳だけを休める睡眠だから、あまり夜の睡眠のじゃまにはならない。しかも、効率よく体の疲れをとることができ、自律神経の乱れを調整していくことができるのである。
 昼寝は罪悪ではない。奇妙なことのように聞こえるかもしれないが、昔から立派な仕事をした人々は、居眠りの名人が多いようである。「昼食後の三十分の昼寝は夜間の三時間の睡眠にも匹敵する」といっている人もいるが、居眠りも気分転換の特効薬といえよう。その上、脳の疲れをとってくれる大切な行為なわけである。
 仕事をしている時は左脳を使うが、寝ている時には右脳の働きが相対的に活発になるもの。ウトウトしている状態などは、レム睡眠ではないのだが、夢と同じようなものを見る。ウトウトすると、右脳より先に左脳が休んでしまうからである。こうして右脳を使うと、直観、ひらめきが出てくることもある。
 考えあぐねて壁にぶつかった時は、意識的にウトウトして、右脳で発想の転換をするのも一つの方法である。寝た後は、いい企画が浮かびやすいから、企業はもっと仮眠室を設けるべきではないだろうか。
 果報を得んとする者は、まず体を投げ出して寝、自然に湧いてくる力の発動を待てということである。
 企業に勤める人ばかりでなく、誰もが眠気を催したら、昼間でもそこへゴロリと寝る癖をつけること。十分間、十五分間の眠りでもすっきり頭がさえ、はっきり体が澄んで元気になる。勉強中でも家事中でも、居眠りするより寝るがよい。
[手(パー)]瞑想によって開発する潜在能力
 ここまで、人間の頭脳を明晰にする各種の方法を述べてきたが、人間の潜在能力というものは、普通の人なら現在の約十倍は眠っているといわれる。最後に、ほとんどの人がその能力に気づくことなく、一生を終えてしまうこの潜在能力を開くための、呼吸法にポイントを置く瞑想(めいそう)について少し解説する。
 人間に潜在している能力が多くあるということは、自然界から最高の能力を与えられながら、雑多な意識のためにその機能を半減させているわけであるが、最も顕著なのが、約百四、五十億個あるといわれる人間の脳細胞である。
 体の中で一番エネルギーを消費していながら、平常時に機能している人間の脳細胞は、全体の十~二十パーセントにしかすぎない。しかも、酸素や血液などのエネルギー分配に関して、頭脳は非常に優位な位置を占めているのである、仮に筋肉がフルに使われたとしても、脳より二十五パーセント多く酸素を消費するだけである。
 本来、人間の肉体は、無駄がなくきわめて合理的で、しかも絶妙なバランスによって見事に構成されている。脳細胞がエネルギーを使うのは、頭脳がそれだけ重要な器官であるからである。しかし、残念ながら頭脳の使用方法を誤っているため、正常に働いていない。その原因の大部分が、意識と肉体のアンバランス、つまり「気」の拡散と力みである。 現代人の頭脳は、知識や論理を重視する習慣の影響で偏った発達をしているため、脳波を調べると複数の波が重なった不規則な波形を見ることができる。意識が拡散しているため、いろいろなインパルスが飛び交っている。
 そこで、私は瞑想を勧めるのである。瞑想とは、「心と身体を開放し、無の状態を作り、宇宙と一体になる」という精神行為である。禅僧は、自我を捨て、悟りを開くため瞑想をする。悟りの本質は、仏教の道に入らなければわかるものでないし、私も仏教やヨガを勧めているわけではない。一般の人が潜在能力を開くために、無の状態を作る瞑想を勧めるのである。
 無とは、もちろん無意識のことであり、人間が自覚できない意識のことをいう。無意識の中には、人間の隠された本質が眠っているのである。いわば瞑想は、無意識の中に潜む未知の能力を引き起こすための準備運動と考えればよい。
 瞑想を行う際には無心になり、坐禅に見られるあぐらの姿勢、または私の開発した寝禅に見られる五体を投げ出した姿勢で、力を抜く。それは、宇宙大自然と一体となるための心構えと体構えである。
 そこで、鼻から息を吸い込み、長く、ゆっくり、静かに吐く。呼吸はすべて腹式呼吸で二十分から一時間くらい続ける。瞑想中の意識は、呼吸のみに集中すること。この呼気の意識を集中し、「気」を沈める場所は、ヘソから下の腹部である臍下丹田である。
 目は閉じても開けてもいいが、開けて行う場合は半眼の状態が望ましい。どのスタイルにも共通することは、背筋を直っすぐに伸ばし、あとは全身の力を抜きリラックスすることである。とにかく、長期間続けることが大切である。
 この瞑想の効用の一つが、脳波の同調である。深い瞑想状態に入り、精神が統一された時、すべての脳波が同調され、きれいな波形を描く。しかも、それは睡眠の際に現れるアルファ波といわれる脳波である。
 アルファ波の中でも九~十二ヘルツのミッドアルファの出ている状態は、脳が集中、調和し、心身ともに最高のコンディションであるといえる。精神も肉体もリラックスし、眠っていた潜在能力が目覚め、創造力、ひらめき、勘が働いてくる。これらは、無意識下に眠る潜在〃脳力〃の働き、日常の記憶の外に追いやられた情報の再現である。脳の中では、無意識思考が自然に行われ、ひらめきとなって現れる。
 全身に精気がみなぎり、隅々まで「気」が通い、人間と自然が一体となる理想の状態である。それは、細胞に秩序が生まれ、精神と肉体が完全調和していることを意味する。瞑想こそ現代社会のストレスから自分を解放し、健全な精神と肉体を作る最善の道なのである。
 潜在能力を開きたいと思うのであれば、誰もが迷うことなく瞑想をすべきである。
 そういう習慣を持つことで、真の健康を知り、真の自分を発見することができる。自我を捨て、焦らずコツコツと瞑想を続けることである。文明社会の不自然な環境にむしばまれた精神と肉体が徐々にリフレッシュされ、やがて「気」を感じ、宇宙大自然のエネルギーにより潜在する世界へ導かれるはずである。

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