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■生涯現役への準備2 [生涯現役を目指す]

[るんるん]変わってゆくことの面白さ
 本来、労働するということは、楽しい、面白いことである。これを苦しい、つまらないものにしているのは、人間の自己意識のなせる業である。
 だから、もしどうしても今の会社、ただいまの職業から労働の喜びを見いだせないのならば、自分の性分に合った会社や職業に出合うまで、何度でも変えてみることである。
 元来、人間というものは、生まれてから死ぬまで同じ人間でありながら、生まれ子の時から百歳、百二十歳になって死んでゆくまで、みな違った状態にある。その人の一歳の時と十歳の時、二十歳、三十歳、四十歳、五十歳と十年ぐらいを一期間として考えてみると、同じ人が大変違った存在をなしている。変わらずに変わっており、変わって変わらず。これが変不変の原理、易不易の原理である。
 こうして変わってゆくところに面白さもあり、飽きずに次へ次へと方針、理想を変えてゆくこともできる。一生涯一つの仕事を守ってゆくことも面白いだろう。一方、時々に自分の職務、職業を変えて、この広くて自由な知恵と働きを発揮してみるのも、愉快ではないか。
 豊臣秀吉のように、あれ程変化の多い人生も人の一生である。
 どうせやるなら、でっかいことをやれ。何でもやってみよう。人のやらないことをやってみよう。こうして思い切ったことばかりやっていくうちに、どんな素晴らしいことに出合うかもしれない。人の一生などというものは、まさに謎のようなものである。自分を変えるのは、今からでも遅くはない。八十歳からでもよい。
 松尾芭蕉は「奥の細道」の冒頭に、「月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人なり」と書いたが、天の運行は一分一秒も待ってはくれない。すべて物事は、時、処、位の上に成り立ちながら、一分一秒も休まずに流れ続け、無始から無終に向かって変化し続けてゆく。
 天には暮れも正月もない。止まっては河の水も腐る。すべては変化するからよいのである。人の生命もまた、その通りである。
 このことは個人にとっても社会にとっても、重要な事実なのであるが、世の中の人はウカウカしていて、それに気がつかない。いや、気づいても、現実に、確かに年ごとに馬齢を加えていくのをどうしようもない。
 世の中は変化するからこそ楽しい。すべての道を、よりよく向上する道だとするには、寸秒を惜しんで、またとない、この掛け替えのない一生を充実させる以外に道はない。
 そのためにも、自分はどういうことに特質、特長があるか、自分の職務、職業を変えて、自己発見をすることである。
 間違ってならないことは、職業を変えることに主眼があるのではなく、特質を発見すること、快適に働ける、労働の喜びの味わえる、充実した人生が送れることが大事なのである。
 最近の若者には、就職したら、たちまち転職したり、郷里へUターンしたりする傾向が表れている。卒業して会社に勤めても、三年後の離職率は高卒で五割近く、大卒でも三割近い。理由は働きがいの問題、仕事や待遇に対する不満、人間関係のいざこざ、都会生活への失望などさまざまであるが、適性の職場を選択するというプラス面と、腰を据えて技能と知識を吸収する機会を取り逃がすというマイナス面がある。気まぐれに職場を転々とすることは、決して本人のためにはなるまい。
 ともかく、数百に上る職業があるのだから、必ず自己に適した仕事があるはずである。もんもんとして毎日を惰性に任せて生きているのでは、何のためにこの世に生を受けたのかもったいないではないか。人々よ、生きがいのある人生を送ろう。
[るんるん]現在に自己を没し切る
 いろいろある職業には貴賎はないが、仕事を通じて知らず知らずに熟成する品性陶冶(とうや)こそ、人間の目標とする大切な点である。
 誰が何をやるかは、自分自身にしかない持ち味、性格、徳性、品位、技能、ひらめきなどを総括して決定すればいい。
 こういう便利な時代、素晴らしい時代に生まれて、自分が自分の運命を選び、進めていくということについて、しっかりとした考えを持って、この広い、自由な時代を進んでゆく。
 自分はどういう人間なのか。自分の能力はどういうものであるか。今までどういうことをやってきたか。自分にはどういう条件、特徴があるか。自己を知る。自分の人間性、内容を知る。「敵を知り己を知れば、百戦危うからず」と昔からいうが、自己というものをよく知ることも、運命を作る絶対条件の一つである。
 誰もが、現在の自己というものを一度その原点に立ち返って、しっかりと検討し直してみる必要がある。
 人にはそれぞれに特長がある。自己の特長を発見して、それを伸ばすことが大切である。己独自のパーソナリティを完全に生かし切らねば、一生を棒に振ることともなる。
 こうして正しい職業、自分にしかやれない適職を決めたなら、その時こそは石の上にも三年、せっせと学び、体に覚え込ませ、仕事に励んでおかなければ一生涯の失敗である。
 私たちが第一になすべきことは、現在の現実の生活に自己を没し切ることである。へっぴり腰で生きていたのでは、せっかくの一生を、それもきわめて短いとさえいえる一人の人間の生涯を、全く無駄に費やしてしまうことになる。
 今の私たちの生活をひたすら真摯(しんし)に、誠実に送ることから始めなければならない。
 人間の自意識は、十年先の取り越し苦労までして思い煩い、無駄な妄想をして、日々の能率を低下させる。明日の予定を立てるのは、今日の仕事であるが、遠い将来を考える必要はない。肉体には妄想も、予定もないものである。
 能力にしても、明日になれば明日の能力ができるものであるから、肉体の疲れるほどに今日を一生懸命に働くがよい。そうすれば今日の疲れが回復して、明日の力となる。これが生命作用の妙所である。この原理をもっと活用すべきである。
 すなわち、自ら適職と信じたなら、バカといわれようと、何といわれようと、根気よくコツコツと歩む。そうすると、自然に運が開けてくる。おのずと徳も備わってくる。
 人生すごろくのさいの目は、まことに気まぐれだ。丁と出るか、半と出るかは、その人の心掛け次第でもある。世に、「運鈍根」という。どこにも知だの、才だのという字は見当たらない。運命に逆らうな。生かされの身を、才もてあがくな、ということである。
 才だの知だのというのは、とかく困りものである。才子は才におぼれる。才におぼれると、おのずと人にうとんじられる。才余りて識足らずといって、才知は十分あるが、識見が足らないというのは、よく見掛ける図である。「賢去りて功あり、知を去りて明あり」といって、小賢い知識をひけらかしていると、とかく世の中が見えなくなるもの。
 人間の運勢などというものは、第一には祖先から伝承したもの。第二には、いかに宇宙の「気」を充電させるかである。
 すべて、人間の運命を左右するものは、「気」の働きだということを、世間の人は知らなすぎる。
 ひたすら肉体に「気」を充満させて、根気よく適職に励み、徳を積むべきである。「徳は孤ならず、必ず隣あり」で、おのずと行路が開けてくる。これこそ人生の妙諦なのである。




■生涯現役への準備3 [生涯現役を目指す]

[家]職業を通じて幸福を得る
 また、己の職業を天職と確信し、迷わず努力してゆけば、徳が備わってくるばかりではない。必ずや仕事がよくわかるようになってきて、上手になる。上手になれば、この仕事は自分に適していると思うようになり、面白くなってくる。そうなれば、もはやその仕事は苦労ではなくなり、道楽に変わるというものである。職業の道楽化は人生の最大幸福である、ともいえる。
 「よし、やろう」と決意した仕事が見事に完成した時の、あの素晴らしい楽しさは、誰にも体験があるだろう。汗水たらしての艱難辛苦の後に、ついに険しい頂上を極めた時の感激はどうか。「万歳」と叫ばずにはおれないだろう。
 最近では、働きがい、生きがいということが問題になってきてはいる。確かに、オートメーション化によって無味乾燥な単調労働が増えているが、人間は働くことを通じ、誇りと喜びが高まっていく。昔、人々は生きるために知恵を絞り、汗を流した。娯楽を求めるにしてもそうだった。苦労して得たものほど価値があり、喜びを感じることは、昔も今も変わりはないだろう。
 人生のコツはここにある。持っている力を出さず、何もしないで怠惰に一日を空費したのでは、夜は決して快適な眠りを与えてはくれない。人間がよりよく睡眠をとるためには、ある程度の疲労が必要条件である。
 ただ、その疲れは何でもよいというわけにはいかない。望ましい疲れは、例えばスポーツの後のさわやかな疲れを思い浮かべれば、誰でも思い当たるであろう。このさわやかな疲れは、昼間、それぞれの職分において、快適に働いた後に得られるものである。精いっぱい、自己を完全燃焼させて残る疲労であり、それによって自らを高め得た疲れである。
 こういう価値ある疲れこそ、夜、眠りによって自己を充実させる源泉になるものだから、職業の選択もおろそかにしてはなるまい。
 三十歳から六十歳の働き盛りには、選択した適職において、本当に「気」を入れて働けば、働くことがどれほど楽しいか、面白いかわからない。朝は夜明けとともに働き出す。そういう人生に病気はない。悩み、苦しみはない。経済的な不足だの、欠陥だのがあるはずがない。大いに社会的に働くがよい。その道その道のベテラン、専門家になること請け合いである。
 早寝、早起き、腹八分を守り、元気で働くことである。働くということが、どれほどの生産をするか、運命を進展させるかわからない。
 働いて食物を取ればおいしいし、働けば働きが夜、蓄積されて新たなエネルギーとなり、知恵となり、力となる。働きということが、いかに人間を立派にするか、幸福にするか、幸運にするかということである。働きというものがなければ、幸運、幸福、金もうけなどというものがあるはずがない。
 金がもうかる、運がよくなる、幸福になるということは、得をして、楽をして成功する方法である。楽をしてということは、遊んでいてということではない。運に乗ずれば、楽しく生きながら、幸運を獲得することができるということである。そしてまた、さらに新しい希望が湧く。
[家]自己を磨いて飛躍する法
 私が長年にわたって説き続けているように、人間の肉体には、誰にでも宇宙根源の真理力という「気」エネルギーが潜在している。それは、肉体一色の命懸けの熱心さで仕事に励む時、はじめて力として、またヒント、アイデアとして、さまざまの工夫として表れるものである。
 事をなすに安易な道はないということは確かなのだが、人間は楽をしてうまくやろうと考えがちである。世の中が文化に恵まれて、人の作った幸せが多くなると、人間が我がまま、ぜいたくになって、いろいろの遊びを考え出し、射幸心を当て込んだ賭け事に誘われ、うまいものを食べ、働きを怠り、仕事を怠けて給料や休日ばかり欲しがってしまう。
 中学、高校を卒業するのは当たり前、若者の多くが大学まで進学するようになった現代の風潮は、自分の仕事に地道に努力し命を懸けるといった態度は、やぼであり損だといって、軽蔑する傾向がある。楽をして過ごすのが格好いいという。
 だが、命を懸けるくらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度というものが、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫ということも、次々に生まれてくる。命が生きて働いてくれるからだ。
 かくして、そこから私たち人間が繁栄していく方法というものが、無限に湧き出してくるのである。この無限に潜んでいるものを一つひとつ探し求めていくのが、人間の営みであり、私たちお互いの、人間としての務めだ。「もうこれでよい、これで終わりだ」という考えは、人間の務めに反した考えだといわなくてはならないのである。
 人が命を懸けて仕事に励めば、命が働いてくれて、無限の知恵が出る。それまで隠されていた真理が現れて、素晴らしい働きをしてくれる。それは、命、すなわち人間の体、肉体が汲めども尽きない力と知恵を発揮してくれる、という意味である。
 加えて、独り肉体の働きによる経験だけでなく、読書などで頭の訓練もうんとやるべきだ。ことに吸収力の強い青年時代は、何でも広く取り込んでおくのがよい。乱読で少々雑学に流れても、いろいろ色彩豊かに吸収しておくがよい。要は読む習慣をつけることが大切で、それが自己啓発につながると、必ず役に立つ時がくる。大きく伸びるためにはぜひ必要である。
 壮年にとっても、決して枯れることがない知識欲を満たす読書、それによる感銘などは、確実に大脳の若さを保つ原動力になる。本に夢中になりすぎて、悪い姿勢を続け、体調を崩すのは感心しないが、余裕があるならせめて一日に一~二時間ぐらい、心の糧となるような書をひもとく時間を持ちたいものである。
[家]余暇に新しい仕事を研究する
 読書などに振り向ける時間を作るために、最近、夜型人間から朝型人間へ、生活パターンを切り替える人も少なくないと聞く。
 早目に起床するのも習慣になってしまえば苦にならないし、いったん切り替えた人は、決して夜型の生活に戻そうと思わないはずである。早起きすることにより、一日にリズムと張りが生まれ、しかも快適だからである。
 もちろん、自分の時間が持てる。朝の時間は無駄が少ない。同じ一時間であっても深夜の場合は、案外無駄にダラダラと過ごしていることが多いものである。
 現代の働く人にとって、朝早く起きて自分の時間を作り、その時間をどう有効に使うかは、十分検討する価値のあるテーマだと思う。
 例えば、四時半から五時までにはきちんと起き出して、朝の仕事にかかろうか。七時か七時半頃に朝食を取るまでの二時間ないし三時間は、全くの個人ただ一人である。サラリーマンやOLなら仕事の準備か、専門の研究や勉強をすればよい。
 大抵のサラリーマンは、生活できさえすれば、それで能事たれりとしている。サラリーマンがサラリーマンで生活できたら、その余暇を有効に活用することを考えればよいのである。毎朝の二、三時間ずつを、生涯現役のための新しい仕事、専門の研究に打ち込むなら、人生五十歳までの数十年余、会社に勤めたとしたら、その間に立派な専門家、誰にも負けぬベテランとなることもでき、自己の人生が後半になってから、本当の道に入ることにもなる。
 そういうことは誰にもできるのである。人間に、自由に研究、開発、発明、発見をさせてゆくならば、その能力はどれほど増大するものかわからない。
 実践すればわかることだが、早朝ほど集中力が継続し、勉強などの成果が上がる時はまずない。朝二~三時間早く活動し始めると一日が凝縮され、充実したものになる。自分にとって無駄な時間がなくなるのである。仕事のための勉強に限らずとも、健康のためのスポーツ、趣味や教養のためのサークル活動に活用してもいい。とにかく、そういう生活が可能かどうか考えてみるべきだろう。
 仕事の関係でどうしても朝時間がとれない人は、早く出勤して早く仕事を終えるという方法もある。通勤ラッシュ前に電車に乗り、ゆったり読書するのもなかなかいいものである。
 今やエレクトロニクス技術の発達で、パソコンやビデオなどが一般に普及している時代である。どうしても見たい夜間のテレビ番組などはビデオに録画して、暇な時間に見るのも無駄がなく便利である。ハイテク機器は有効に使うべきで、眠いのを我慢して、深夜までテレビに付き合う必要はない。
 また、大都市のホテルやカルチャースクールでも、午前七時頃から八時三十分までというように、ビジネスマンを対象としたさまざまな講座を実施している。何か一つ自分の目的を持ち、朝の自由時間を意義あるものにしてほしい。早起きは、何物にも替えがたい時間と健康を同時に満たしてくれるのである。




■生涯現役への準備4 [生涯現役を目指す]

[イベント]退職後に向けたネットワーク作り
 私が人の集まる朝の講座への参加を勧める理由の一つは、日本のサラリーマンが一般的に公私の使い分けが下手だといわれるからでもある。就職した後は、自分の職場の人、あるいは取引先の人との付き合いしかないという人も少なくない。日本人にとって、そういう生活パターンは、外国人が考えるほど苦痛でも不合理なものでもない。むしろ、公私の使い分けの必要性など感じていない場合が多い。
 そこに心地よく、楽にわかり合える人間関係があるからだ。自分と同じ価値観を持った人間が、職場の愚痴、不満にうなずいてくれる、日本ならではの暗黙の世界がある。以心伝心、いちいち細かなコミュニケーションがなくても、理解し合えるということは非常に楽で便利である。同一民族、島国日本のある意味でのメリットだと思う。
 しかし、国際化時代、ボーダレス時代といわれる今日、このような文化特性が世界に通用しないことは、いうまでもないだろう。海外に赴任してまで、日本人同士でばかり付き合って、現地社会に溶け込もうとしない習性が批判を受けている折でもある。
 また、家族とのかかわりを除けば、すべて仕事の延長線上の付き合いでは、いろいろな意味で人間の幅を狭めてしまう。ビジネス上の付き合いは、ビジネスが成立しなければ消滅する。これからのサラリーマンは、仕事以外の人間関係をいかに多く作るかということが大切になる。その意味で、異業種交流の場を持てる講座や、趣味やレジャーなどによるサークル、グループに参加することを勧めるのである。自分と違う分野の人と付き合うということは、人間としての幅を広げることにつながる。
 現在の仕事の面においても、自分とは違う異業種の土俵を知れば、新しい発見や考え方もできることにつながる。職場を中心とした小さな世界だけで生きていると、マンネリ化した常識的な物の見方、考え方に偏ってしまう。外からの情報や知識などの刺激は、新鮮でプラスになるものが含まれていることが多い。
 ただし、異業種の人と知り合った当初から役立つことも少ないだろうが、次第に付き合いが深くなり、これが将来は大きな情報源に育ってもいくのである。自分が職場を退いた後も持続できる、個人的な人脈ネットワークを作ることも大切なのである。
[イベント]将来の基礎となる自己の確立
 さて、ここまで、その過ごし方を述べてきた青壮年期は、大いに働く時期に相当する。上り坂で、苦しいに決まっている。だから、運命を進展させるべく前向きに対するか、苦しいからと逃げ出すかによって、その頂上はひとりでに決まってしまう。
 自分の努力、精進や懈怠(けたい)によって、位するところが決定する。自分の登りつめた頂点が海抜五百メートルか、三千メートルかは己が決めることで、はたからはどうしてやりようもない。
 青少年期は苦学生でも、壮年期の実践活動のいかんによって、秋冬の取り入れ、実りが必然的に決まってくる。思う存分、自らに後悔のないように、与えられた天職に体ごとぶっつけ、人格を高めて、険しい山の登り坂を登りつめて楽を得よう。成否は自分の掌中にある。
 人間というものは、己の欲する理想像を常に心に描き、その姿を目標として日々努力、精進を怠らなければ、やがて人生の秋冬になって、理想の人間像にまで到達することもできるのである。
 また、楽、楽しみということも、人生の最後にたどり着いてこそ、値打ちがある。喜怒哀楽というのは、江戸時代の劇作者が劇を組み立てる順序だったそうである。喜び、平穏な生活の中に、やがて争いが起こり、悲しみ、苦しみの果てに、最後は平和がよみがえり、楽でラクになるというわけだ。一カ月の芝居が終わる日を楽というし、大相撲の千秋楽というのも、そのあたりに由来があるのだろう。
 漢詩でいう起承転結の結は、最後の結びだが、楽ということも、人生の最後にたどり着く結びといった意味に、昔の人は使っていたということだと思う。人生の中途半端な時に楽があると、かえって後で苦しんだり、悲しんだりする。人生行路の途中で、あまり楽におぼれていると、後から、とんでもない苦労が起きてくる。泣かなくてはならないことになる。
 苦中の苦を受けざれば、人の上の人たること難しで、苦労をなめ尽くした人でないと、とても人の上には立てない。苦労人という言葉は、なかなか味わいが深い。楽しい環境にあって感じる楽しみは、本当の楽しみではない。苦しい経験の中で楽しみを得てこそ、人ははじめて、精神的にも、行動の面でも、本当の働きを見いだすことができるというものだ。
 苦労を楽しみに変えて、仕事に忠実、勤勉の毎日を積めば、将来の生活の基礎となる自己というものも確立するであろう。
 財政的にいうと、人生には病気や旅行など不時に必要な費用があるから、貯蓄は計画生活、すなわち保証される安心感のもと。もちろん、貯金はより有効に使うための前提、準備である。お足、お宝は、有効に使う人のところに集まり、無駄に使うところから流れ出す。徳もなく、強引に他人の所有を侵しても、天は水の流れのように必ず平均化してやまないものであることを忘れないようにしたい。
 自らの風貌については、四十歳以後は本人自身の後天的な責任にある。もはや、親がどうの、女房や隣人がどうのといって、責任転嫁をしてお茶を濁せる年齢ではない。また、厄年とか更年期など、心身ともにようやく壮老の峠にかかる。三十年の生活がでたらめだと、四十代の前半にゆがみがきて、場合によっては死を招く。
 金も、地位も、名誉も、学力も、力相応について、ぐんぐんと頭角を現すか、平凡に沈潜するか、または脱落する。
 性も衰える。特に、女性は更年期の障害に直面し、肉体と精神のアンバランスに悩むが、生活が正しく、楽しい日々を送っていれば、「気」と肉体が調和し、ギラギラした夏の日照りではなく、日本晴れのさわやかな小春日和の毎日となる。
 そして、孔子が「四十歳を不惑、五十歳を知命(天命を知ること)」といったように、五十歳ともなれば、人生の頂上が見えてくる。もはや無理もできないが、何のために生まれてきたのか、何を世の中に奉仕すべきか、わかってくるだろう。
 人生の目的とその決算、個人の限界も、自他ともに結論づけられると、急に、今までの無反省だった前半生のがむしゃら流に引き換えて、自分を客観反省し、厳しく自己審判もする。人柄も急に一変し、四囲を驚かす。
 もちろん、五十代はまだ老境ではない。しかし、すでに老いの坂は目前に迫っている。だが、「いまさら」などとあきらめるべきではない。今こそ第二の人生、生涯現役の仕事や趣味、真の人間開発に全余生を惜しみなく投入すべき最後の山場である。
 人間の幸不幸は、晩年にかかる。前半生はいかに華やかでも、最後の実りの収穫を取りこぼしては、もったいない。後の祭りと悔いないように、まだまだ間に合う。
 天の定めでは、六十歳以後も過去の人生体験が自然に働き、物をいって、いたずらに肉体を働かせなくても結構仕事はある。老人でなくてはできぬこと、わからぬ仕事はたくさんある。
 誰もがまず、百歳を目標にして働くことである。休むなら百歳からである。
 百二十歳までを、生きては神、仏というような理想的な生活設計を立てねばならない。あくまでも個人と宇宙天地大世界という根本を認識し、宇宙性という真理に立脚して存在する自己の確立に努めるべきである。




■生涯現役を過ごす気構え1 [生涯現役を目指す]

[ビル]定年後を生きる人生ビル造り
 私にいわせれば、人間は定年退職して、はじめて解放された新しい自分を発見し、人間完成を目指す時期に到達するといえるのである。
 人間生命の基礎、根本が守られていれば、六十歳で定年になり、さらに社会に貢献しようという時には、家庭は一人前の城となっている、子供も立派に成人しているというような生活にしたいものである。六十歳にして悠々自適の人生を折り返す、これが人生の理想である。
 実は、この六十歳からが、生涯現役の社会人としての、素晴らしい働きの始まる時代となるのである。政治によし、社会的組織によし、協会とか団体の役員になることも自由。あるいは独立独歩の研究所や事業の経営をやることも結構である。自分で起こした事業で成功すれば、サラリーマン時代には得られなかった精神的充実感が持てるだろう。
 趣味に合わせての、よい稽古事もある。「八十の手習い」というが、新しく習い事を始めると、新しい「気」が動き出すもの。誰もが六十歳になった時から、新しいものを始められる闘争心と、気力と、体力を持てる人間になれれば素晴らしいではないか。
 いずれにしても、人生六十年の経験、体験を持つ人は、人類にとって貴重な存在となるであろう。
 誰もが六十歳という年齢から先は、人間個人の完成を遂げながら、立派に有終の美をなしてゆく時代であるから、いい加減にもうろくなどしてしまってはいけない。人生の秋、九十歳までは、刈り入れの盛んな時、働いたもの、蓄積してきたものがいよいよ実って、自分の幸福に寄与する時代である。
 さらに、その収穫をもって、百歳、百二十歳まで豊かに生き抜く人生の冬。この時代は、全く精神一色、肉体は若干衰えをきたしても、精神、心、生命の内容はいよいよさえ、「人こそ神」という最高の理想像にも達することができる時である。
 日進月歩どころか日進日歩で、一日一日、新しい年輪を広げてゆき、大きくしていって、一年間に三百六十五輪、成長しているのである。
 こういう人間の一生を人生ビルに例えてみれば、一年に三百六十五室、そこにいろいろな人生体験が蓄えられる。そして、人生百年ともなれば、百階建ての立派な人生ビルが完成するであろう。
 機械や建物などには設計書がある。取り扱い説明書がある。これに比べて、人生ビルには設計書がない。筋書きも完成されていない。不完全な人生の脚本は、昔からいろいろと著述されているが、主観や迷信のたぐいが多くて、安心して一生を託し得るような人生ビルの設計書はないようである。
 これを造り上げることは、最上の楽しみである。人間の運命は自ら開き、その境遇は自由に選び取ることができるものである。この理に早く気づいた人が、人生の真の勝利者となれるのである。
 一日一日、厚みのあるよき体験、経験を積み上げてゆく人の人生には、どれほど大きな価値が与えられていくことであろうか。人生は時の計画である。時の上にしっかりと人生を積み上げ、自己を積み上げてゆく。宇宙の計画通り、人生の春夏秋冬を立派に生き抜く。
 楽しい、楽しいと楽しさで生かされる。楽に生きれば生きるほど、味わい深く、喜びが増すように、人間は創られているのであるし、そうでなくては、この人生というものが何のためにあるのかわからない。簡単で楽しい中から、よき生き方が作り出されてくる、また与えられてはじめて、人間は生きがいや希望を感じられる。
[ビル]六十歳からの値打ちについて
 昔は四十歳を男の厄年といって、そろそろ老境を知る境目で、何となく体が弱って、人生の転機となる人が多かった。現代では一般に寿命が延びて、老いてますます体力、気力の若々しい人が多くなっているから、六十歳を「役年」というべきであろう。
 これは、お役目につく役年であり、重役になる年なのである。そうして、九十歳までの三十年間が重役時代である。
 今までは定年制などといって、人間を五十五歳から六十歳くらいで一応片づけてしまったが、それは世の中の人たちが五十歳をすぎ、六十歳ともなれば気の抜けた老人になって、つまらない老後を迎えていたからであって、真の人生、本当の人間としての値打ちが発揮されるのは、実は六十歳からである。
 各人の体に積み上げられた能力がたくさんの人を使って、何十倍、何百倍もの価値を発揮する六十歳からの人生というものは、素晴らしい収穫の時代なのである。
 それゆえ、定年というのは会社をやめ、職業を捨てるということであってはならない。肉体労働は若いうちのこと、才覚、知識、知恵、体験など、すべて精神活動のさえてくる時に、定年だのといって人生の価値に頓挫(とんざ)を感ぜしめてはいけない。
 人間に本来与えられた人生は、陽の六十年と陰の六十年、この先が百二十歳まで六十年ある。定年といっても、その前と後で大きな差があるわけではなく、急激に変化が起きるわけのものでもない。定年を老化の始まる年などと勘違いしてはならぬ。
 人間の天寿は百二十歳。ゼロ歳から百歳、百二十歳まで百年、百二十年間、一年ごとに春夏秋冬の年輪を積み、毎日にあっては朝昼夕夜の日輪を重ねている。そして、その真ん中の六十歳が若年と老年の境界で、第二の人生の始まる年齢である。
 人間の定年百二十歳説を鼓吹し、六十からの人生を奨励しよう。私の九十五歳も、ちょっとぐらい疲れを感ずることがある。若い時とは違う。しかしながら、疲れ直しの法もある。気分転換の法もある。私ならではの道もある。
 誰もが六十年かかって仕込んだ蓄積を、後の六十年で、自己のために完全な自己を作り上げたり、社会、世界のために働く糧とせねばならない。まさに塾年時代、第二の人生設計は、まず百歳を目標にして働くことである。
 前にも述べた通り、年金で生活するなど社会に頼るのも便利でよいかもしれないが、本質的には、自分が若い時に力の限り働いて、老後の設計をしておくことが大切である。人間の生涯は、前半の六十年間に国家、社会のために働き、家を造り、子をなし、老後の備えをなす。後半の六十年間は、人生の四季でいえば秋と冬であるから、春と夏の間の努力と蓄積によって、日々を迎え、送る。
 そこでまず、人間は誰もが六十歳に達したら、これを節とし境として、今までの人生を振り返ってみる必要がある。過去がわかれば未来もわかる。過去は死、未来は生。生死一如とは、過去と現在と未来が一続きであって、どこにも切れ目のないことをいう。
 天寿を全うすれば、六十歳の定年の倍の百二十歳までも生きられるはず。天寿を全うする秘訣は、必ず百二十歳まで生きると固く決意し、無意識的自己暗示を通して潜在性意識、無意識、空意識に、その信念、イメージをしっかり焼きつけることである。
 この天寿百二十歳の人間にとっては、定年はやっと折り返し点という一区切り。天地の摂理で、以後の老年時代が面白くなる。六十歳の定年となったら、ここでしっかりと心定めをせねばならぬ。定年とは年の上での心定め、自覚すべき時なのである。これからが真の人生、誰もが六十歳からスタートする老境の時代こそ、平等自由、差別即絶対の輝かしい人生の舞台であることを知らなければならない。
[ビル]高齢者も自主独立の精神を
 日本人の平均寿命は世界一になったが、長生きの原因は何といっても、食生活の改善にあるようだ。昔は、栄養失調で結核になり、若い人がどんどん死ぬ。あるいは、生まれた子供が生きられないで、自然淘汰された。そういうようなことで、平均寿命は非常に短かったわけである。今でも東南アジア方面へゆけば、四十歳代というのが実情である。
 日本では、食生活の改善によって、栄養失調で死ぬという人は、今や珍しい。また、医学の進歩、薬学の発達によって、寿命が延びた。健康保険制度の普及、生活保護法などによって、一銭の金のない人でも、脳外科手術も、心臓手術も全部、たとえ一月に百万、百五十万かかっても国家が見てくれる。
 老人の医療無料化ができて、今や老人病院は花盛りである。高齢者の治療には、一般人の平均四倍の医療費がかかっている。そのため高齢者の数が増えれば、その四倍ずつ医療費も増大していくのである。平成二年の国民医療費二十兆円が、人口構造の変化で十年後に五十兆円に膨れ上がるといわれる。このため、日本の医療制度そのものを考え直す時期にきているのである。
 日本では、本格的な高齢化社会を前にして、高齢者対策の主眼は、介護設備と介護者の整った住居だ。民間では医療施設の完備した老人用マンションが、ぼつぼつ建てられているようだが、高価で一般にはとても手が出ない。
 長寿社会へ向かっての大きな課題の介護をどうするか、その対策を政治がきっちり立てねばならないところにきている。
 六十五歳以上の高齢者は、増加の一途である。厚生省の推計では、三十年後に全人口の四分の一を占めることになると予想されている。今は五人の働き手が一人の老人を支えているが、二〇四〇年には二人で一人を支えねばならない、という事態がくる。これを現在の年金制度でカバーするとなると、実際、大変なことになるだろう。
 従って、年金の方法も全く変えなければならない。十五年、二十年たてば、年功序列型賃金というのは支給できなくなる。退職金制度は廃止しなければやっていけない、という予測もある。なぜかといったら、そのような厚い階層の人たちがずっと生き続けるわけだから、その人たちを小さな人口で面倒見ることは大変なことである。
 医療の問題についても、健康作りと予防医学、特に成人病対策を進めなければ、医療制度そのものがパンクしてしまう。
 高齢化が進んでいる時、老人病に対する医学も遅れている。老人の病をただ後から追いかけて、薬だ、介護だというのでは、まことに貧しい医療ではないのか。精神安定剤や降圧剤、抗うつ剤は、しばしばボケの症状を悪化させるともいう。正しい食生活の指導も必要だし、時には、真理的なおおらかな性生活も必要だと説く学者もいる。
 だからこそ、自分の健康は自分で守る、自分の暮らしは自分で守る、というような原理原則を、もういっぺん考え直して、全部年金とか社会保障によって安楽な生活を望むという、物の考え方は改めていかなくてはいけない。




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