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■生涯現役を過ごす気構え2 [生涯現役を目指す]

[晴れ]百歳人の意欲と行動を見習う
 しかも、家庭が核家族化して、若者が自分たちの巣作りだけしか考えないという利己主義の傾向が強まれば、老人はいきおい自らの力で老後を生き抜く設計をしなければならない。
 総理府の世論調査では、資産は「老後の生活のために活用する」六十四パーセント、「子供たちのために残す」十八パーセントと、子供たちに頼れず自力で生きていこうとする老後への不安を、如実に表していた。
 また、国家、社会から見れば、高齢化社会が進行すると、老人を活用しなければ、社会の活動が停滞してしまうことになる。
 老人も国家の一員、家族の一員。老人でなければ気のつかぬこともある。老人は社会からの敬愛のもとに、自立と生きがいを見いださなければならない。
 活力ある高齢化社会を作るには、これを維持する壮年、青年、若年層がいかに老人をサポートするかが重要である。これから急増する福祉費用を誰が負担するかという経済的問題もさることながら、社会の一員としての老人の力をどう発揮させるか、老人の心をどう理解するかも問題であろう。
 生涯にわたって社会の一員であることは、老人自身が自覚すべきことでもある。「国家から経済援助を受けたら、それで我が老年期に悔いなし」、などと考えている老人がいるとしたら、何と哀れな老人であることか。
 人生五十年時代から、わずかの間に八十年時代に飛んでしまって、これからまだ、老齢化時代が進むと思われる。長生きするようになったのは結構だが、その反面に、大きなマイナスが出てくるだろう。
 厚生省も生活白書でその問題に触れているが、もっとよりよい生活をしたいと思う人は、受益者負担というような形で負担してもらいたいという。これはもっともなこと。老人の側も、甘えてばかりはおれない。自主独立の精神をもって進まなければならない、とつくづく感じられる。
 総理府の調査では、これから高齢期を迎える人のうち七十二パーセントが、還暦をすぎても働きたいと考えているという。大部分は、六十五歳から七十歳くらいまでは働きたいという意識を持っているようだ。意識の上だけでなく、もっとしっかり、自主独立、生きているうちは働くという思想を人間の価値、光栄として自覚せねばならない。
 「人の世話にならない」と心に決めることが、自己を死ぬまで働くという意欲に駆り立てる手段である。
 平成三年の敬老の日を迎えた百歳人は三千六百二十五人で、前年より三百二十七人増えて、最高記録を更新した。この百歳人に対する日本百歳会の生活調査アンケートを見ると、人間にとって働くことがどんなに大切であるか、ということがよくわかる。
 六十代、七十代で働くことをやめてしまう人が多い中で、八十、九十代になっても、職業および家事手伝いで、元気で働き続けたという人が予想外に多く、働くこと、体を動かしていることが健康法であるということを雄弁に物語っている。さらに、百歳の今でもなお、職業として働いている人が何人もいるのは驚きである。
 送られてきた写真によって、男ならば鍬(くわ)を振るったり竹細工をしたり、女ならば草取りをしたり縫い物をしたりしている元気な姿がうかがわれる。
 そもそも、長寿の里と呼ばれる地方は、外国でも国内でも、若い時から急斜面で畑を耕し、重い荷を担いで上り下りするような労働と、殻菜食を中心とする自然食を摂取する村に多く見られるのである。
 百歳人を見習って誰もが、自分を老人だと決めつける自意識や被害者意識みたいなものを捨てて、積極的に社会の中へ出て、何かの社会活動に参加する意欲と行動が、病気なども吹き飛ばすものではないか。
 特に老人というものを意識することが、おかしいのである。精神は年を取っても弱まるどころか、逆に年とともに磨かれ、純化される。人間の才能も、年齢とともに熟成する。才と歳とは年とともに成長して長老になる。健と幸とは自分のこと、献と功とは国や社会に対するもの、六十歳をすぎれば自己をささげて国家、社会に尽くす。これが人間の価値である。
[晴れ]新しい「気」が動き出す時
 人間は、健康で働く仕事を持ち、その仕事に打ち込めるならば幸福である。若い頃だけでなく、老後でも生涯現役として、元気な限りは何かできるのである。
 人間はいくら年を取っても、適当に働き続けていなくてはいけない。コーカサスやフンザなどという世界の長寿地帯では、百歳をとうに超えた老人たちが元気で、野良仕事に精を出している。意識は棚上げにして、せいぜい体を使うことが長寿の秘訣であることがわかる。
 日本でも、今では、対象をシルバー世代に絞った求人情報紙が発行されているから、定年を迎えた人は再就職口を見つけやすくなっただろう。
 老人になっても、楽しみながら毎日の仕事をしていると、人間も向上するし、自分の生命そのものにも張りが出て、常に若々しく新しい道を求めてゆくことができる。若者のように、新しい芽を吹かせることもできるのである。
 現役で会社を経営したり、勤めている人は、バリバリやればいい。新しく商売を始めるシルバー企業家を目指すのもいい。かつての豊かな経験や一芸を生かせる人は、技術コンサルタント、経営コンサルタント、趣味教室の講師などを務めてはどうだろうか。
 また、ゴルフやテニスや山登りなどのスポーツで、体を鍛え直すのもいいだろう。改めて万巻の読書に取り組むのもいい。語学を勉強して、年に一回は世界を見て歩くのも結構だ。墨絵、粘土細工、男の料理などの稽古事、釣り、囲碁将棋、古典や植物の研究、何でもよい。学習することも立派な労働である。
 アメリカでは、六十五歳でタイプを習い、七十七歳から自動車の運転を始め、八十八歳の時にアマゾン川探険に出掛け、九十九歳で農地の開拓を始めたというスーパー・オールド・レディもいる。世の中には、老いてなお、新しいことを始める情熱を燃やし続けている人々も少なくはないのである。
 人間は、年を取っても絶えず成長、発展を続けている。いくつになってからでも、物事を習えば上達する。何事によらず、新しく稽古事を始めると、新しい「気」というものが動き出すものである。
 そういう力は年を取ってからかえって豊かになるものであるから、若い者にはできないようなことを見事にやってのけたりする。本人としても、若い頃にはできなかったようなことができるようになる。
 誰もが年寄りになったら、何か好きなことを選んで、新しく物事を習い始めるのがよい。それは老後の大きな慰めになるし、老化を防ぐためにもよい方法となる。それを、長年の習性のままに同じような生活をしていたのでは、死に至るまで、いかにもその人らしい、その人だけの実りをなさずに終わってしまう。
 年を取って、もう力も出ない、何に対しても興味が湧かないという人は、とにかく何か変わったことをやってみることだ。生きる上に楽しく、新しい意欲を生み出すために役立つということにもなり得る。それによって、生きようという心や気力を盛んならしめるだけでも、大したものではないか。
 カルチャーセンターや教養講座は、今や社会に定着した感があるから、ここで学習意欲を燃やすのもいいだろう。知識は、商品のように金で買うことはできない。だからこそ、学びの日々、自己啓発の日々の中に人間の価値、喜び、楽しさ、幸福というものが実現されてくるのである。物事を知るということは楽しい。勉強は面白いものである。
 「八十の手習い」などというし、孔子は「朝(あした)に道を聞けば夕べに死すとも可なり」といっているではないか。学ぶに年齢の制限はないのである。
 今日覚えたことは、今日の楽しさとなる。明日もまた、何かを覚えよう。明後日もまた、新しい知識を得、能力を進めて楽しく生きよう。
 こうした毎日を生きれば、人間百歳まで踊りを忘れずで、年を取ってボケたとか、衰えたということはないはずである。
[晴れ]進んで社会生活に参加する
 あるいは、自然に触れて、自然の芸術を大いに味わうこともよい。盆栽いじりや、美術品、骨董品を味わって暮らすのもよいであろう。ボランティア活動などで、体に蓄積された体験、経験をもって、世の中にお返しをするのもよい。
 ボランティア活動についていえば、昭和五十五年、八十歳を超す二人の日本女性が、タイで緑化運動に奉仕したことがあった。「苗木一本の国際協力」を呼びかけたアジア太平洋緑化運動に賛同し、若者とともに植林作業をしたのである。一人はタイで青春時代を過ごした、当時現役の産婦人科医、もう一人は元市会議員のおばあちゃん。二人とも職業婦人として活躍を続けた、立派な経歴を持っていた。
 それにしても、このシルバー・パワーの心意気には、その当時八十三歳で大いに奮闘努力していた私も、頭が下がったものである。八十歳の老人というと、世間並みには過去に生きる人と思いがちだが、本当に体を鍛えてある人間は、八十歳になっても、心身ともに若者なのである。
 シルバー・パワー部隊が、各自の人生経験を生かして明日の社会造りを真剣に考えたなら、世の中もずいぶんと住みよくなるのではないか。頑迷固陋(ころう)などと疎んじられている老人は、心身の鍛錬が不足しているのである。
 高齢者になる、年を取るということと、「老い」とは違うはずだ。四十歳で老け込む人だっている。
 老いとは自覚でしかない。そんな自覚は捨て去るべきだし、周囲が敬老などと、お客さんに祭り上げて老いに追いやるのは、もってのほかだ。まして、「それが死への前段階だ」などと考えて落ち込むことは、自らを愚かにするもの。「今こそ人生の花盛りだ」といった、おおらかな意識を持つがいい。百歳でタバコ屋の看板娘を気取っている、元気なおばあちゃんもいるのである。
 自分を老人だと決め込む自意識や被害者意識みたいなものを捨てて、積極的に社会の中へ出て、寝たきり老人の話し相手のボランティア活動など、何かの社会活動に参加する意欲と行動が、病気など吹き飛ばすものではないか。
 現在では、テレビや映画のわきを支えるエキストラの世界に、定年退職者が急増しているというから、ある時は戦国時代の武将、ある時は大会社の社長を演じてみるのもよいだろう。
 老化しないためには、こうした場をどんどん利用して、積極的に生きることである。つまり、何かに挑戦するとか、新しい人と接するとか、前向きに考えることが大切になるのである。しかも、自分のやっていることが、人のためになっているという実感があるほど若々しくなる。だから、持てる生命力を、人のためにフルに使えるようなものをつかむことが、高齢化社会を生き抜く秘訣ではないだろうか。
 また、老齢になっても社会生活に参加していれば、知的発達があり、進歩するもので、隠居などすると脳の退化が早い。
 老人は進んで社会生活に参加せよ。頭を働かせろ。中年時代に新しい経験を積んだ人は、老人になっても頭が切れるものだ。
 とりわけ、今や六十五歳以上の人口の一割を超す独居老人には、進んで社会生活に参加することによって、高齢社会という言葉を明るいイメージに転化してもらいたいもの。これは、社会の活性化のためにぜひとも必要なことである。




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■生涯現役を過ごす気構え3 [生涯現役を目指す]

[家]生涯現役の生きがいを探究する
 そういう社会参加活動や生涯現役の労働の中に、あなたの生きがい、幸福が見つかるのである。恍惚の人にならないためには、生きがいを持つことである。精神にたるみがあり、心に妄想や思い惑う憂いがあれば、肉体は自然に酸性に傾いて、自ら寿命を縮めることにもなる。
 シモーヌ・ド・ボーヴォワール女史は、「老い」という著書の中で、「老いがそれまでの人生の哀れなパロディーでないようにするためのたった一つの方法は、人生に意義を与えるような目的を追求し続けるしかない」といっている。
 自分自身の目的、生きがいがわかれば、老後こそ最後の仕上げと、自己の晩年に磨きがかかる。気合いが入る。
 誰もが生きがいを追求して、生きているうちは働くという思想を、もっとしっかり人間の価値、光栄として自覚せねばならない。
 人生の再スタートを切る六十歳からの老境時代、それは一般のサラリーマンであれば、定年後もう一度人生があるようなものである。老後をいかに充実したものにするかということは、これからの高齢化社会ではますます重要になる。
 数年前、定年より一足早く退職し、第二の人生を切り開こうという人が相次いで、マスコミをにぎわした。法務省の官房長が五十七歳で退職して福祉の仕事を目指したり、一流銀行の取締役が五十三歳で修行僧になって、第二の生きがいを探し出したという例もある。
 人間とは、生きがいなしに、目的なしには生きられないものである。趣味もなく、定年まで仕事一筋できた人は、往々にして老け込みやすい。定年後、ただ無為に毎日を過ごすばかりの生活では、人生はつまらないものになってしまう。
 人生における目的や生きがいとは、世代と環境によって変化するし、基本的には個人的にそれぞれ異なるものではある。特に人間のライフスタイルが多様化、個性化している現代である。しかし、個人的に異なるものとわかっていても、どうして、生きがいが、現代において、こうも真剣に未解決な課題として取り上げられているのであろうか。実は、そこに生きがいとは何かを解くカギがある。
 個人的生きがいを求めているにもかかわらず、無意識的に普遍的な生きがいを希求しているのである。他の生物にはない、人間だけが求めている生きがい、特に、六十歳をすぎて老境に入った生きがいこそ、人生の悼尾(とうび)を飾る指標である。
 老人になっても、生きがいとなる仕事、仕事を持たなければ趣味でもいいから、何らかの働きをせよ。遊んでいては駄目だ。何かに情熱を燃やせ。
 幸いなことに、現代社会は人それぞれ、さまざまな楽しみ方ができる時代である。自分が一生かかわることのできる目的を、仕事でも趣味でもいいから一つでも持つことができれば、その人の人生は、有意義で張りのあるものになる。芸は身も心も助けてくれるのである。
 人生の目的は、体力より技術、広さより深さを求めるものがいい。そして、何よりも自分の好きなもの、興味のあるものでなければならない。今や週休二日制が普及したから、若い時から余暇時間を利用して、定年までの期間コツコツと知識を深め、技術を磨くことができれば、その人の老後は充実したものになる。例えば、現役の社員当時から英検や不動産鑑定士、税理士、中小企業診断士など何か特殊資格を取っておくことが、定年後の人生に役立つ場合が相当多いようだ。
 一見つまらないものでも、その道を極めればエキスパートになれる。未来社会は、細分化の時代である。ニーズがあれば、もちろんビジネスとしても成立することにもなる。ただし、ビジネスを目的としたものは、ある程度市場性を考えなければ長続きしないので、状況判断が大切である。
 過去の偉大な発明、発見、そして芸術作品を見ても、その人が六十歳、七十歳で成し遂げた例も少なくない。技術や真理は、経験を積むことで味が出たり、わかったりするものである。充実した人生を送るため、現在の時間を有効に生かし、一回り大きなスケールでライフスタイルを考えることを勧めたい。
[ビル]生きる生活から、生かされる境地へ
 退職という社会的な節目は、人生そのものの転換期でもあり、「生きる」という態度から、「生かされる」という自然の生活原理に切り替える大切な節目でもある。
 人間は元来、いつでも、どこでも、何をしていても常に楽しく、幸せに暮らせるように自然に創られている。それなのに、多くの人は、自我意識から生じるさまざまな欲望に妨げられて、真に生きる喜びを知ることが少ない。しかし、誰でも年を取るに従って、こうした欲望は弱まるもので、老人はいわば尊い幸福を知る特権者なのである。福祉が老人に幸せをもたらすのではなく、「生かされ」の境地が、安心立命をもたらすことを知ってもらいたいものである。
 人間というものは、六十歳までは自力を主とし、六十歳以後は他力による生かされを主とする時代となる。六十歳を境目にして、それまでの生きるという我欲の時代から、生かされているという生活に切り替える時期に相当するものである。
 すなわち、人生の秋たる六十歳前後を転機として、また自然に返っていく。意識的な社会生活を六十年とし、六十歳の定年以後百二十歳までは、自然人としての素晴らしい人生を歩むということになる。
 なるべく意識生活を少なくして、肉体生活に切り替え、生きてゆこうという心を次第に少なくする。そして、宇宙大自然の理法によって生かされているのだという、他力の存在をよく自覚し、天地大自然と人間の関係を尊重していくように生きれば、秋晴れのような他力人生が続く。
 生きる生活から、生かされているのだという生活態度への切り替えを上手にすれば、人間は百歳以下で死ぬものではない。また、七十歳をすぎてからでも、生かされているという自然生活に任せ切ると、九十、百くらいまでは大した変化もなく、衰えもなく、平穏に生き続けられるようできているものだ。
 例えば、八十年代に国際的に定着した学説によれば、年齢に伴って脳が退化するというのは憶測にすぎず、老人のもうろくやボケは、老化よりも孤独が原因だという。
 一般に、知能は二十歳まで発達するが、それを頂点にして以降、年齢とともに低下するという、知能の古典的パターンが信じられていた。老人は脳細胞の老化から、記憶力の減退をきたし、ものを聞く場合、注意力が散漫になっていて、鮮明な印象として残像をとどめない。従って、年々忘却現象が加速度を駆って起きるのは当然で、やがて客観の世界は幅を狭めてゆくばかりで、柔軟性の乏しい老人特有の世界に閉じこもるのが落ち、というものであった。
 この考えによれば、ゆき着くところは、あたかもボケ状態が待ち受けている、といった錯覚に陥ってしまう。だが、知性は少なくとも六十歳、場合によっては七十歳頃までほとんど低下せず、逆に三十歳、四十歳以降になっても、若干上昇する傾向があるということが、明らかにされたのである。
 つまり、老齢になっても社会生活に参加していれば、八十歳になっても知的発達があり、進歩するもので、隠居などすると脳の退化が早いということだ。
 だから、老人は努めて客観の世界を風化させないよう努力する必要があり、進んで社会生活に参加せよ、新知識を求めることを怠らぬように頭を働かせろ、というわけである。
 そして、今からでもよいから、気のついた人は、生かされの生活を始めようではないか。命さえあれば、生きてさえいれば、これからでも間に合う。「まだ若い者には負けない」と、気ばかり焦っても、無理は利かない。生かされの時期に入っていることをよく理解して、自覚しなければならない。
 この生かされの生活には、自然に任せて暮らすことが大切。こうして肉体の自然機能が旺盛に働き出すと、五官もはっきりと正確になる。見るもの、聞くもの、味わうものがよくわかり、無駄やボケがなく、口数も少なくなって態度も落ち着き端正な人になるものだ。
 反対に、年を取るにつれて欲が深くなり、口ばかり達者で理屈をいうが、体がそれに伴わない人がいる。それは、まだ「生きよう、生きよう」という我欲の強い人であり、本当は六十歳をすぎると、年とともに欲が淡くなるのが自然である。なるべく意識生活を少なくして、自然に合わせて生きていくのがよい。
 自然律に従って生活し、宇宙という大自然に生かされ、この現実社会に生きているという真理が十分に理解され、実行されていれば、その人の老後は満ち足りた楽しいものになる。若い時にはわからなかった、物事の微妙な味を細かく知ることができる。その時、老人になってよかったとしみじみ実感することだろう。
[郵便局]円熟した「気」をほとばしらせる
 老後は、いうならば人生の芸術的な生き方を、毎日の生活の中で繰り広げ、その滋味をゆっくりと味わってみたいもの。この気持ちを失わないならば、次々に新しいことに興味が湧き、楽しさが増す。老境を迎えた人間として、最高の幸福がここにある。
 老境に入ったら、誰もが生命力、エネルギーの内容は限られてくるが、その限定された中から、まだまだ新しい生命力を芽吹かせることができる。健康を失いかけても、取り返すことができる。若返ることも、年を取らずに元気に生き抜くこともできる。
 そのためには、「気」から作る力、「気」というもの、つまり他力を自力にするのである。宇宙天地大自然世界から各々の肉体に到来する「気」は、他力であり、生命力であり、エネルギーであるから、これを利用することができる。意識で生きず、この他力を利用して、宇宙大自然から生かされているという生き方をすることである。
 五官が本当に働いていれば、他力は五官からも吸収できる。また、空意識、無意識というものが備わる下半身からも、いくらでも吸収できる。足がしっかりしていれば、下半身の他力が上半身に上ってきて、自力という形で生きる世界に働くのである。
 そもそも、人間は自然の「気」を受けて、それを毎日の生活の中に取り入れている。この「気」から作られる力は大変な働きをする。精神の充実も、この「気」による力によってなされる。
 この宇宙からの生かす力を体に受けることは、まことに簡単であるが、一般現代人には、生かす力に生かされているのだということが、案外理解されていない。ただ自分が勝手に生きているくらいに考え、意識過剰、感情過多などで、体に圧力をかけ、体が自然作用そのままに働かないようにしているために、他力が働かなくなっているのである。
 他力という自然の「気」が弱まると精神が衰えるから、代わって意識がはびこるようになる。肉体も衰えるが、この意識というものが追い打ちをかけるようにするため、ついには意識だけが取り残され、幅をきかせる羽目になる。まだそれほどの年齢でもないのに、体力が衰えたり、頭がボケかかったりするのは、みなこういった理由によるものである。
 だから、老人になっても気力旺盛な人がいる一方、さほどの年でもないのに、すっかり「気」が弱り、滅入って、蕪村の「牡丹切って気の衰ひし夕べかな」を、地でいっているような人もあるわけである。
 だが、六十歳をすぎた人も悲観することは決してない。ボケるというのは意識ボケであって、本来は少しもボケるはずはない。老人は恍惚の人などといわれもするが、本人の自己意識があれこれ働かないということで、人間本来の意識層は少しもボケるわけはない。体力の衰えや頭のボケを防ぐには、自然の「気」をよみがえらせ、その力に頼るのに勝ることはない。八十歳を超える高齢になっても、なお元気でいられるということは、その人が自然の「気」を多く取り入れている証拠なのである。
 人間は生涯、天の生かしてくれる力、すなわち自然の「気」という他力で生かされているものである。この力がよくわかり、この力をいつも十分に受け入れる心掛けがあると、ますます長生きすることができるものだ。
 体力的な面から見れば、高齢になれば衰えるのは当然である。しかしながら、向上性を失わなければ、精神は年を取っても衰えたり、弱まるということはない。むしろ逆に、年とともに磨かれ、純化されるものなのである。立派な老人といわれる人の精神は高く、豊かな人間性を支えており、知恵の人である。
 この精神が、老人を人間として支えてくれる。そればかりではない。高齢者にならなければ得られないような、人間としての価値を与えてくれる。過去が長いだけ、体験も、知識も多く、むしろ冷静に物事に対して判断もでき、人間としての価値は年を加えるほど増してくるものである。
 そして、青年や壮年のような体力、気力はなくとも、長い年月、全身に蓄積しておいた人生体験を必要に応じて引き出して使う。
 「含蓄の発露」といって、この長い人生体験から得られたものが、自然ににじみ出しているような老人は、魅力のあるものだ。若者にも劣らぬような、生新はつらつとした弾力性が感じられるのも、円熟した「気」がほとばしり出ているからだろう。




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■生涯現役を過ごす気構え4 [生涯現役を目指す]

[リボン]人生の味は晩年にある
 人間は年を取らないと、本当の人生の味というものがわからない。
 他力によって生かされているという本当の人生の味は、六十歳から出てくるものなのである。言葉を換えていえば、六十の坂を越さなければ、人間の味の真髄はわからないともいえるだろう。不平や不満、悲憤や絶望よりも、他力によって生かされて生きていることへの感謝、感激がわかるようになる。
 人間が年を取ってから、かえってさまざまな味が出るのは、若い人にはない働きができるからこそである。「自分にどのような仕事ができるか」とよく観察すれば、楽しい、老人らしい働きがあるものである。この楽しさと味が出るということは、老人の特権なのである。老人は、あらゆるものから、これを感ずることができる。
 「年を取ったら楽をしたい」などと考えるが、楽をすることと、楽しく生きることは違うのである。楽をするというのは、意識的に考えることで、楽しく生きるというのは、肉体的に感ずる、肉体感覚なのである。本当に、真に徹する、善に徹する、美に徹するなどということは、肉体をもってしなければできないのである。
 そういう人間の味わいに通暁した人が、次の世を背負う若者を指導し、仕立て上げるということでなければ、優れた人づくりにはならないものである。
 さらに、八十歳をすぎると我欲我執がなくなり、肉体が宇宙性を帯びてくるから、人の指導はもちろん、人に「気」を与えることができるようになるのである。人間の偉大さというものは、人生の老後にあるので、その偉大さや本当の価値は死ぬ時まで続く。
 かの親鸞は八十歳を超えてから、「教行信証」の大冊を完成した。鈴木大拙老も九十歳を超えてまで、海外行脚や日本仏教思想を紹介する英訳本を何冊もものにしている。
 百一歳で天寿を全うされた奥村土牛画伯も、年を取るとともに、日本画の充実、円熟の度を増した。高名な彫塑家であり、文化勲章を受けた平櫛田中翁のように、百七歳まで生き抜いた人もいる。まだ三十年も五十年も仕事をするほどの木材を買って、枯らしてあったという。その意気である。
 作家の野上弥生子さんも白寿を迎えた時、十二年間に渡って長編「森」を毎日二枚ずつ書き続けていたというが、気迫のこもった鋭い筆はみずみずしいものであった。
 このように、人間は老熟するごとに尊さを増す。人生の味は晩年にある。その人の成否は晩年のあり方で決まる。人間国宝は皆、六十歳をすぎてから、七十、八十と神業、名演を発揮する。誰もが、希望を捨てて生きる意欲を失ってはいけない。
 紹介した過去の人々は、それぞれの人生記録、人間完成記録を残している。現役のお二人は、今も記録を作り続けている。我ら現在に生きる人間は、先人や先輩の最高記録を目標にして、歩んでゆかなければならない。そして、その記録を破らなければならない。それが人間の生きがいである。
 また、我らの後に続く子孫のために、可能な限りの、高い人間としての成果を残しておかねばならない。その基盤の上に立って、子孫はさらに発奮して、より高い人間の文明を築き上げてくれることであろう。
 すなわち、長寿を全うして人間を完成するという、人生の真の楽しさは晩年にある。自然の四季に、それぞれ美しさ、楽しさがあるように、人生の四季にも、年齢や時期に応じた美しさ、楽しみがある。これを発見して、喜び、楽しむことが大切である。
[バースデー]「朗人」の楽しい生き方
 人間は生きているということの中に、無限の楽しさがあるのであるが、現代人は人間心の意識的な楽しさを求めて、誤りを犯している。意識的なものは、一時的で強烈であり、危険を伴い、身を滅ぼすものである。
 本当の楽しさを身につければ、健康になるし、楽しさが人間を引きずってゆき、楽しさに引かれる人生を送ることができる。楽しさの中から知恵も生まれ、運命も開けてくるのである。
 まだそれほどの年齢でもないのに、自分から老け込んでしまってはいけない。「もう年だから駄目だ」などと、ぼやきながら暮らすのは、自ら墓穴を掘るの例え通り、せっかくの寿命を縮めてしまうことになる。
 本来、人間は年を取るほど頭もさえ、感情や欲望も浄化され、美しくなるものである。八十、九十は人生のうちでも最も美しく、味のある時期なのである。最高の時期を持たずに終わってしまうのはばかげている。終わる間際になって、いくら嘆いてみても、もう取り返しはつかない。
 長寿のもとは健康である。健康を保つための生き方は、若いうちから始めるほどよいが、幾つになっても遅すぎるということはない。気がついたら、すぐ始めることである。
 老人になったからといって、必ずしも老衰したり老廃するとは限らない。老人とは「朗人」である。
 老後の生活には、風流三昧(ざんまい)、読書三昧、あるいは趣味に生きるなど、いろいろの生き方がある。さらには、人間三昧、生活三昧、毎日の「生かされて生きている」ということが非常に楽しいということになれば、真の老人となることができる。そうなれば、老人といっても、明朗の朗に徹した人という意味の朗人である。
 生涯の掉尾(とうび)を飾る最もよき時代にあることを喜び、一日一日を、一刻一刻を楽しみながら生きるならば、その心境はまさに神境。それこそ人間としての尊厳の極致である。
 すでに見るからに老衰し、また周囲からも老衰者扱いをされている人たちも、ここで自らの天寿を知り、そのための生き方を習えば、今からでも生命の延長は不可能ではない。人生は何を始めるにしても、決して遅すぎるということはない。
 老人といえばすぐに老化という言葉が返ってくる。確かに老人に老化は付き物である。しかし、老化といえば、百二十年間の毎日が老化という変化の連続であって、特にある時期からの変化が老化というわけではない。春から夏に、夏から秋に、秋から冬に。これは単なる季節の移り変わりである。老化も同じ。それが天寿のおきてである。
 子供が次第に成長し、成人となるのも一種の老化である。花が咲くのも実が生るのも、みなめでたい老化現象である。老化を老成とし、晩年を立派な老年時代たらしめねばならない。
 この点、世間で一般に使われている老化という言葉には、意味の上で誤りがある。大いに異議をいい立てたいところである。老化とは、老いてますます明晰化し、神格化されるべきもの。老化とは、極まるところ、そのような変化をいうのである。
 老人とは、このように貴重なものである。今後は日本の人口構成における高齢化が進み、老人の比率は増加する一方であるが、これはまことにめでたい、祝福すべきことである。それだけに、老人の健康管理はいよいよ重要なものとなってくる。
[電話]人間完成こそ最後の仕上げ
 天は無生物から生物を創り、ついには人間を創ることに成功した。人間は天の理想であり、目的物である。しかし、人間が人間としての完成を遂げるには、人間自身の力によるほかはない。
 人間が人間として完成する人間成就は、一人ひとりの人間にとっても理想であり、目的である。のみならず、人類全体にとっても理想であり、目的である。それは若年にしては得られない。いわゆる老成によるほかはない。そのことをいかに自覚するかが、その人、個人の価値を定める。
 中国では、古来、優秀な人間を大人といい、老師とたたえている。人間としての老成こそ、人間の生き方として最も重視されたのである。そのためには、よき若年、前半生を持ち、それに続くよき老年、生涯現役の後半生を送るよう心掛けねばならない。
 老人は健康であってこそ、その最晩年を全うすることができる。この時を目指して人生をひたすら積み上げてきたのである。これからが老成、人間としての完成を遂げるべき時。一人の人間にとっての最高、最良のページが、いま開かれようとしている。
 これまでは、あまりにも人間が人間を知らなすぎた。そのために、最も大切な老年期を軽視し、人生全体をつまらない味気のないものにしてしまった。しかし本来は、誰もが、老人になってからはじめて、最も好ましい、輝かしい時代を持つことができるのである。
 死ぬまで希望を失うな。人間は、人間の目的を知ることが大切である。生きがいを趣味や信仰に求めることもよいけれども、人間完成という大目的を極めることができると、老後こそ最後の仕上げとなる。
 人間として完成期に入ったならば、宇宙が生かしてくれるままに、宇宙に任せて、素直な態度で、楽しく生きてゆけばよいのである。これは誰にでもできる、どころではない。それが一番楽しく、気楽なのである。
 この楽しさこそが、人間が生きるに当たっての大きな推進力となるものだ。楽しさがあるために、日常の繁雑な生活も苦にならない。たとえ不快な出来事があっても、それを越えるはるかに大きな楽しさを持っていれば、よほどのことでない限り大して気にならず、すぐに忘れ去ってしまう。この楽しさは、幸福につながるものである。
 また、おおむね生きがいということは、何かに感動して生きていてよかったと感ずる生きがいと、何かの物事の達成、成就を目標として志向する生きがいとがあるが、突き詰めれば、それぞれの中に楽しさが共通していることがわかる。この楽しさは美しさを呼び、さらに善につながる。
 そういう楽しいということは、実は、天から与えられたものである。
 安心立命ということも、まず天を相手にしなければできるものではない。社会や人を相手にしていては駄目である。物質的な満足や感情的な満足などというものは、果てしがないものである。
 人間が作り出して享楽する楽しさというものには、いつも悲哀や犠牲が伴っているが、天が与えてくれる楽しさには、美しさ、心地よさがあり、善という働きがあり、真という間違いのない、誤りようもない軌道が天から敷かれている。
 ただそれに沿っていけば、天が保護してくれる。向こうが生かしてくれているのであるから、こんな力強く楽な生き方はないのである。
 こうして生かされて作り上げた知恵、知識、技術、能力を社会、世界のために教え、残してゆく。この人生の最後の仕上げというものは、実に楽しいものである。




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