■器量を磨く秘訣1 [器量を磨く秘訣]
器量を磨く日々の心掛け
●器量を磨くとは自己を育成すること
真の器量人、真の器量よしを目指す男女は、自己の心身を磨いて、「気」の入る器を大きく、「気」の流れる量を豊かにすることである。
普通の個人であろうと、男性は怠りなく自己を磨けば、誰でも器量人に近づける。女性も美人であろうとなかろうと、勇気を持って自己啓発を続ければ、次第に内面の美しさがにじみ出る器量よしに近づける。
そこで、日々の生活の中で自己を磨き、人間を大きくする心掛けについて、改めて述べてみたい。
ここでいう器量を磨く、自己を磨くとは、文字通り我をつくる、人間形成のことである。我をつくるとは、その人にとって、一生を懸けての大仕事である。一番大切なことである。
自己自身が完全者たり得ず、愚かなことばかりしていたのでは、器量人や器量よしになれないばかりか、いつになっても幸福な人たり得ない。
いかなる人々、いかなる時代にも通用し、基本となるべき自己育成の原理は、宇宙の原理、真理、法則による以外はない。宇宙の根源的な力により教えられ、育てられる。ここに、最高の自己育成法がある。抽象的な理想論ではない。宇宙の真理以外に、本当の、正しい道はないのである。
宇宙の真理を知る、天地の万物を知る、大自然世界の現実、原理を知るということによって、人間はいくらでも利口になれる、立派になれる、真実を知ることができる。自然から教えられるということは、広く大きい。
人間は死ぬまで成長し続ける。宇宙天地的に真っすぐ伸びて、向上、発展を続けねばならない。縦横バランスのとれた、しっかりとした人間にならねばならない。死ぬまで縦に伸びることを忘れてはいけない。
縦の力とは、宇宙と我、天地と我、大自然世界と我、あるいは先祖と我、両親と我、師匠と我、先輩と我というような強い力である。
縦に伸びる力というのは、内容的なものであり、縦に伸びない人は哀れである。人は、縦に伸びよう伸びようと、心掛けねばならない。横に伸びる力というのは、意識的なものである。横に横にと横着になると、成長は止まってしまう。
縦の宇宙と人間という、平等世界の平等の原理は、縦と横との問題が縦に始まって横に広がるという、この順序によるものである。天地と人間、人間同士、人間社会、人間世界というすべてのものは、縦の関係であることを忘れなければ、横の関係もまた整然たるものである。縦と横の秩序、真理原則である。
そもそも、この宇宙というものは、巨大なエネルギーの場である。そのエネルギーが森羅万象となり、万事万物となって、この大自然世界に存在し、生存する。人間も、そのうちの一つである。
宇宙に絶対と相対があるごとく、平等と差別があるごとく、人間もまた、これらの特質を忠実に備えている。人間自身の中にもあるが、人間と人間の関係の上にもある。
一人の人間と他の人間とを比べてみれば、そこには必ず差別がある。差別は優劣となって表れる。人間ほど優劣の開きの大きな生物は、ほかにはないかもしれない。
優劣があるからには、競争が起こる。人間と人間の競争は、その生涯と生涯の競争である。いかに生きるか、いかに生きたか。そうして、人間として成就、完成への道をどこまで行き着くことができたか。
個人の人生のうちの一日一日の生活の中にも、優劣の差は表れる。その一日一日の積み重ねは、その人の生涯を左右する。ある人は有名になり、富裕になり、ある人々はその反対の境遇になる。
誰しもが、生まれる時は何も持たず、文字通り素裸で生まれた。そして、何も知らず、ただ無心に出発したはずのものが、先へゆくほど差が開き、優劣の度が大きくなる。途中で、不運にも姿を消す者もいる。
●完成された人間になるのが何よりの財産
人間には宿命とか、運命とかいうものがあって、みな同じように素裸に見えた出生の時から、すなわち最初の出発点において、すでに差別があるのである。後になってそれがわかる場合もあり、最後の最後までわからぬ場合もある。
人間にはまた天命とか、天性とかいうものがある。これは、人間である以上は誰にも平等に与えられている。これに気づき、これを利用し活用すれば、優劣の逆転も不可能ではない。気づくのは、人生のどの地点であってもよい。
天命とか、天性とかいう言葉を使ったが、この偉大な力というのは、要するに宇宙エネルギーたる「気」のことである。人間を創造した宇宙の巨大な「気」エネルギーを人間が我が身に吸収し、蓄積し、活用する。
平等の中の差別を、それはそれで受容しながら、差別の中に誰にでも平等に与えられているはずの宇宙エネルギーにより、己の人生を開拓しつつ前進するのが、人間成就、完成へ近づくための最良の方法である。
多くの人間は、ただ社会的にどうあればよいかというぐらいにしか考えていない。これは、生活上の一形式にすぎない。人間には、一人に一人ずつの掛け替えのない人間完成がある。
その人間が、どのくらいの価値をなすか、どの職業、どの道で、どの方法で価値を表現するかということは、社会的な力の発揮の仕方による。しかし、一人一人が人間的に、自己の価値を高めるためには、人間としての自覚の上に立って、その持っている能力を完全に発現しなければならないし、それが人間として生まれてきた目的でなくてはならないだろう。
多くの場合、人間は真の自覚の上に立つことなしに、人がやるから、そのまねをして生きている者が多い。
本当に自己が真の自覚、最高の自覚の上に立って、生き抜いているといえる人は、ほとんどいないだろう。真の自覚の上に立って、自己をつくり上げてみようという人も、ほとんどいないだろう。
人間は、どんな職業に携わっていようとも、あくまでも人間である。職業は生きるための手段、方法であって、自己の価値を発揮する一方法でしかないのに、それに捕らわれて、職業的にのみ終始するために、人間性を高め進化、発展させることを忘れてしまっている。
問題はそこにある。人間自身をしっかりつくり、その人間性のよさをもってはじめて、意義ある、役立つ仕事をしていくこともできるのだ。
人間何が財産であり、何が幸福であるかといえば、それは立派な人間になることである。完成された人間、人格者となることである。
●今日という日の大切さを知って、今を生きる
今日一日という日の重要性を知って、時間を有効に使うことも勧めたい一つである。
その理由は、宇宙天地大自然から人間に与えられた時間というものが、実に貴重なものだからこそである。
老若男女、貧富貴賤(きせん)の別なく、最も公平に万人に与えられた一日二十四時間は、明日の時間を今日使うことができないし、昨日の時間が再び戻ってくる道理もない。
ただ今日という日の二十四時間をいかに有効に使うかに、万事の成否がかかっているのみだ。
世の中には、この貴重な二十四時間を二十時間相当にしか使っていない人がいるかと思うと、二十五時間ぶんにも二十六時間ぶんにも活用している人がいる。人によって、一日の三分の一に当たる八時間労働においても、こなす量や質に差が出る。
時間は蓄えておくことができず、それが人間に与えられた時だけ、今日のこの時間、この瞬間という現在を用いることができるだけである。
もし、今日という日を役立てないまま、無為に過ごしてしまえば、それは永久に失われてしまう。今日という日は、昨日あれほどいろいろなことをしようと待ち構えていたあの明日なのだ、ということをよく覚えておくことだ。
そして、この貴重な今日という日もまた、やがて永遠の時のかなたに去ってしまうのだ、ということを忘れてはならぬ。
私たちが生きることができるのは、現在だけであって、過去はすでになくなっており、未来はまだ到達していないのである。
誰でも、今日一日という同じ量の時間を持って、毎日、毎朝新しく、出発を開始するのである。私たちの一日は、この上なく貴重な人生の中身である二十四時間で、不思議にも満たされている。
それだけではなく、宇宙天地大自然は、時計の針を誰にとっても一律に、同じスピードで回るように創っているのである。
この一日一日が集積した人間の一生というものは、長いようで短い。きわめて短いとさえ言い得る。長い短いは、何に比べればという比較の問題だが、いずれにしても、私たちにとっては一生涯も限られた時間の一こまである。
具体的には、一こまの時間とはおおよそ七十五年から百年という年数を意味する。この百年あまりも当然、現在ただいまの今という一瞬が時々刻々、切れ目なく継続することにより保たれる。過去はみな、この今に集約され、未来もまた、この今がなければ存立し得ない。
このような解釈からしても、人間の一生は、今そのものであるといえることが理解できよう。
従って、人間が器量人を目指す方法はただ一つしかない。まさしく、今与えられた時間を大切にし、今を完全に生き抜くことである。現在の生き方を無視して、いかに将来の幸福を願っても、それは空虚な白昼夢に終わるばかりである。
●器量を磨くとは自己を育成すること
真の器量人、真の器量よしを目指す男女は、自己の心身を磨いて、「気」の入る器を大きく、「気」の流れる量を豊かにすることである。
普通の個人であろうと、男性は怠りなく自己を磨けば、誰でも器量人に近づける。女性も美人であろうとなかろうと、勇気を持って自己啓発を続ければ、次第に内面の美しさがにじみ出る器量よしに近づける。
そこで、日々の生活の中で自己を磨き、人間を大きくする心掛けについて、改めて述べてみたい。
ここでいう器量を磨く、自己を磨くとは、文字通り我をつくる、人間形成のことである。我をつくるとは、その人にとって、一生を懸けての大仕事である。一番大切なことである。
自己自身が完全者たり得ず、愚かなことばかりしていたのでは、器量人や器量よしになれないばかりか、いつになっても幸福な人たり得ない。
いかなる人々、いかなる時代にも通用し、基本となるべき自己育成の原理は、宇宙の原理、真理、法則による以外はない。宇宙の根源的な力により教えられ、育てられる。ここに、最高の自己育成法がある。抽象的な理想論ではない。宇宙の真理以外に、本当の、正しい道はないのである。
宇宙の真理を知る、天地の万物を知る、大自然世界の現実、原理を知るということによって、人間はいくらでも利口になれる、立派になれる、真実を知ることができる。自然から教えられるということは、広く大きい。
人間は死ぬまで成長し続ける。宇宙天地的に真っすぐ伸びて、向上、発展を続けねばならない。縦横バランスのとれた、しっかりとした人間にならねばならない。死ぬまで縦に伸びることを忘れてはいけない。
縦の力とは、宇宙と我、天地と我、大自然世界と我、あるいは先祖と我、両親と我、師匠と我、先輩と我というような強い力である。
縦に伸びる力というのは、内容的なものであり、縦に伸びない人は哀れである。人は、縦に伸びよう伸びようと、心掛けねばならない。横に伸びる力というのは、意識的なものである。横に横にと横着になると、成長は止まってしまう。
縦の宇宙と人間という、平等世界の平等の原理は、縦と横との問題が縦に始まって横に広がるという、この順序によるものである。天地と人間、人間同士、人間社会、人間世界というすべてのものは、縦の関係であることを忘れなければ、横の関係もまた整然たるものである。縦と横の秩序、真理原則である。
そもそも、この宇宙というものは、巨大なエネルギーの場である。そのエネルギーが森羅万象となり、万事万物となって、この大自然世界に存在し、生存する。人間も、そのうちの一つである。
宇宙に絶対と相対があるごとく、平等と差別があるごとく、人間もまた、これらの特質を忠実に備えている。人間自身の中にもあるが、人間と人間の関係の上にもある。
一人の人間と他の人間とを比べてみれば、そこには必ず差別がある。差別は優劣となって表れる。人間ほど優劣の開きの大きな生物は、ほかにはないかもしれない。
優劣があるからには、競争が起こる。人間と人間の競争は、その生涯と生涯の競争である。いかに生きるか、いかに生きたか。そうして、人間として成就、完成への道をどこまで行き着くことができたか。
個人の人生のうちの一日一日の生活の中にも、優劣の差は表れる。その一日一日の積み重ねは、その人の生涯を左右する。ある人は有名になり、富裕になり、ある人々はその反対の境遇になる。
誰しもが、生まれる時は何も持たず、文字通り素裸で生まれた。そして、何も知らず、ただ無心に出発したはずのものが、先へゆくほど差が開き、優劣の度が大きくなる。途中で、不運にも姿を消す者もいる。
●完成された人間になるのが何よりの財産
人間には宿命とか、運命とかいうものがあって、みな同じように素裸に見えた出生の時から、すなわち最初の出発点において、すでに差別があるのである。後になってそれがわかる場合もあり、最後の最後までわからぬ場合もある。
人間にはまた天命とか、天性とかいうものがある。これは、人間である以上は誰にも平等に与えられている。これに気づき、これを利用し活用すれば、優劣の逆転も不可能ではない。気づくのは、人生のどの地点であってもよい。
天命とか、天性とかいう言葉を使ったが、この偉大な力というのは、要するに宇宙エネルギーたる「気」のことである。人間を創造した宇宙の巨大な「気」エネルギーを人間が我が身に吸収し、蓄積し、活用する。
平等の中の差別を、それはそれで受容しながら、差別の中に誰にでも平等に与えられているはずの宇宙エネルギーにより、己の人生を開拓しつつ前進するのが、人間成就、完成へ近づくための最良の方法である。
多くの人間は、ただ社会的にどうあればよいかというぐらいにしか考えていない。これは、生活上の一形式にすぎない。人間には、一人に一人ずつの掛け替えのない人間完成がある。
その人間が、どのくらいの価値をなすか、どの職業、どの道で、どの方法で価値を表現するかということは、社会的な力の発揮の仕方による。しかし、一人一人が人間的に、自己の価値を高めるためには、人間としての自覚の上に立って、その持っている能力を完全に発現しなければならないし、それが人間として生まれてきた目的でなくてはならないだろう。
多くの場合、人間は真の自覚の上に立つことなしに、人がやるから、そのまねをして生きている者が多い。
本当に自己が真の自覚、最高の自覚の上に立って、生き抜いているといえる人は、ほとんどいないだろう。真の自覚の上に立って、自己をつくり上げてみようという人も、ほとんどいないだろう。
人間は、どんな職業に携わっていようとも、あくまでも人間である。職業は生きるための手段、方法であって、自己の価値を発揮する一方法でしかないのに、それに捕らわれて、職業的にのみ終始するために、人間性を高め進化、発展させることを忘れてしまっている。
問題はそこにある。人間自身をしっかりつくり、その人間性のよさをもってはじめて、意義ある、役立つ仕事をしていくこともできるのだ。
人間何が財産であり、何が幸福であるかといえば、それは立派な人間になることである。完成された人間、人格者となることである。
●今日という日の大切さを知って、今を生きる
今日一日という日の重要性を知って、時間を有効に使うことも勧めたい一つである。
その理由は、宇宙天地大自然から人間に与えられた時間というものが、実に貴重なものだからこそである。
老若男女、貧富貴賤(きせん)の別なく、最も公平に万人に与えられた一日二十四時間は、明日の時間を今日使うことができないし、昨日の時間が再び戻ってくる道理もない。
ただ今日という日の二十四時間をいかに有効に使うかに、万事の成否がかかっているのみだ。
世の中には、この貴重な二十四時間を二十時間相当にしか使っていない人がいるかと思うと、二十五時間ぶんにも二十六時間ぶんにも活用している人がいる。人によって、一日の三分の一に当たる八時間労働においても、こなす量や質に差が出る。
時間は蓄えておくことができず、それが人間に与えられた時だけ、今日のこの時間、この瞬間という現在を用いることができるだけである。
もし、今日という日を役立てないまま、無為に過ごしてしまえば、それは永久に失われてしまう。今日という日は、昨日あれほどいろいろなことをしようと待ち構えていたあの明日なのだ、ということをよく覚えておくことだ。
そして、この貴重な今日という日もまた、やがて永遠の時のかなたに去ってしまうのだ、ということを忘れてはならぬ。
私たちが生きることができるのは、現在だけであって、過去はすでになくなっており、未来はまだ到達していないのである。
誰でも、今日一日という同じ量の時間を持って、毎日、毎朝新しく、出発を開始するのである。私たちの一日は、この上なく貴重な人生の中身である二十四時間で、不思議にも満たされている。
それだけではなく、宇宙天地大自然は、時計の針を誰にとっても一律に、同じスピードで回るように創っているのである。
この一日一日が集積した人間の一生というものは、長いようで短い。きわめて短いとさえ言い得る。長い短いは、何に比べればという比較の問題だが、いずれにしても、私たちにとっては一生涯も限られた時間の一こまである。
具体的には、一こまの時間とはおおよそ七十五年から百年という年数を意味する。この百年あまりも当然、現在ただいまの今という一瞬が時々刻々、切れ目なく継続することにより保たれる。過去はみな、この今に集約され、未来もまた、この今がなければ存立し得ない。
このような解釈からしても、人間の一生は、今そのものであるといえることが理解できよう。
従って、人間が器量人を目指す方法はただ一つしかない。まさしく、今与えられた時間を大切にし、今を完全に生き抜くことである。現在の生き方を無視して、いかに将来の幸福を願っても、それは空虚な白昼夢に終わるばかりである。
■器量を磨く秘訣2 [器量を磨く秘訣]
人生を左右する日々の生活
●日々の生活の積み重ねが人生を左右する
人間とは幸福になることを夢見ている存在であるが、夢はつかの間に覚める。時間というものは、今しかない。
今を充実して、一日一日を積み上げていく自分をつくらねばならないだろう。明日を思い悩まず、他人をいたずらにうらやましがらず、今日一日にて足れりの精神で、その日その日を濃密な時間で満たす。
そうすれば、疲れて熟睡してしまうから、夢は見ることができないが、人生で大きな夢を見ることができる。
その今を完全に生き抜くために、人間がなすべきことは、現在の現実の生活に自己を没し切ること。へっぴり腰で今を生きていたのでは、せっかくの一生を、それもきわめて短いとさえいえる一人の人間の生涯を、全く無駄に費やしてしまうことになる。
手っ取り早くいえば、時間を活用し器量人を目指すためには、今の私たちの生活をひたすら真摯(しんし)に、誠実に送ることから始めなければならない。
人間の時間と人生の運び方は、自分自身で決めることである。運命が天か降ってくるものでも、地から湧いてくるものでもないからである。
誰もが自分の意思で、時間の活用法、人生の生き方、運命を好転させる手段を考えねばならない。
人の刻々、日々というものは、新しい創造の刻々であり日々だ。人間の歴史は、創造の歴史といってよい。創造とは、絵を描くとか、小説を書くとかの芸術だけではない。日々の仕事、労働、人間の働き、すべてが創造である。
すべての創造は、すなわち選択である。考えてみれば、人生は選択の連続なのである。
創造と選択は不可分であり、盾の両面である。選択も創造も、人間一人ひとり、天の道に従って人間性を磨き上げ、いかに時間を過ごすか、いかに生きるかの立場が基本となる。
いかに生きるか、いかに生きたか、そうして人間として成就、完成への道をどこまで行き着くことができたかが、人間の運命を決めていくのである。
人生のうちの一日一日の生活の積み重ねが、その人の生涯を左右する。ある人々は器量人に、器量よしになり、ある人々はその反対の境遇になる。
運命を進展させるべく一日一日を前向きに対するか、苦しいからと逃げ出すかによって、その頂上はひとりでに決まってしまうわけである。
そもそも人間の体は、働きそのものである。前向きに、仕事や勉強に忠実、勤勉の毎日を積む人は、将来の生活の基礎となる自己というものが確立するのである。
●全力投球で養う将来の成長のための潜在力
一日一日、前向きな毎日を積み重ねれば自己が確立するといっても、私たち人間の能力は、決して、一直線で伸びるものではないことは心得ておかねばならない。
世の中には、子供の頃は神童と呼ばれていたのに、社会に出て行き詰まる人間もいれば、若いうちは凡才と評されていたのに、人生の後半で伸び、懐の深い大人物といわれるようになった人間もいる。
ところが、一般の人たちは現代の日本を学歴社会だと思い込んでいて、一流大学に入学した時点で、あるいは大企業に入社した時点で、その人の長い人生が決まったという見方をする傾向があるようだ。
編集子が思うには、学歴社会というのは大学の先生や、官僚組織の一部においてのみいえることにすぎない。その他の分野では、全く錯覚にすぎない。ほとんどすべてが実力の世界であるし、今後はさらにその傾向が強まる。
だから、今まで目立たなかった人間が、ある時から急に才能を発揮して伸び出し、注目を集めるということがよくあるのだ。
明らかな実力の世界であるスポーツ界と、サラリーマンなどの世界とを比較してみれば、さまざまな面で著しい差があるにしても、芽の出ない状態の時やスランプの時に逃げ出さず、体当たりの猛烈な努力の積み重ねがあったかどうかが、その後の伸び方の決め手になっていることだけは共通しているようだ。
例えば、大相撲の力士やプロ野球の投手がある日突然、実力が伸びたように見えた場合でも、実際には、彼らが負けながらも、打たれながらも研究心を燃やし、肉体に力をつける厳しい練習を続けてきた結果なのである。
努力で次第に実力がつき、ある日たまたまその一端が現れ、勝負に勝つと自信を持ち、その後は自信が実力をフルに発揮させるようになったのだろう。
いつくるかは誰にもわからないが、努力さえしていればいつかは、その日が必ずくるということの好例である。
スポーツ界は結果が数字に表れるので、伸びたことが特にわかりやすいといえど、ビジネスの世界や学業でも、同様に、ある日を境に突然力がつく、伸びるといったケースはよくあるもの。
昔流にいうと、「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」とか、「苦労それ自身に価値がある」ということである。
そういう意味では、自らを窮地に追い込み、あがきながら最後まで手段を尽くし、全力投球するということが、自己を育成し、器を大きくする上で大いに役立つものである。
こうした努力からは、たとえ上司が期待した水準の成果は出なかった場合にも、本人の持てる力からすれば、十二分のものが生まれているのである。その上、将来の飛躍のための潜在力が育成されるのであるから、本人にとってはかなりの成果が得られたといってよい。
最初から与えられた仕事を避けた人に比べて、その後の人生において大きく伸びるチャンスをつかんだことにもなる。与えられた仕事をどんなことでも、一生懸命やる人間のほうが頼もしい。
反対に、現在の困難を避ける人は、将来の伸びるチャンスを自ら放棄しているのだといっても過言ではないだろう。
「こんな仕事、目立たないから嫌だ」などと、要領よく仕事を手抜きする人間は飛躍しない。器が大きくなりようがない。
●一生懸命に働くことは自分のためである
そういう人に留意してもらいたいのは、日本のような集団性の強い社会では、サラリーマン生活が長くなればなるほど、個性の弱い人はいわゆるサラリーマン根性というものが自分に巣くってしまい、矮小(わいしょう)化した人間になってしまうことである。
また、枠にはめられた仕事を何十年もしている間に、自分を伸ばさなかった人は、結局はつまらない人生を送らざるを得なくなる。
だから、一生懸命働くことは、会社や組織のためではなくて自分のためであるということを、常に意識しておくことが大切になる。懸命に仕事をし、それを通じて自己を磨く。そうして、絶えず向上しようと心掛けるべきだ。
その仕事のために必要な知識や能力について勉強すれば、面白く、興味も湧いてくるだろう。労働するということは、本来楽しい、面白いことである。これを苦しい、つまらないものにしているのは、人間の自己意識のなせる業にすぎない。
例えば、己の職業を天職と確信し、迷わず努力する一日一日を積み上げてゆけば、必ず仕事がよくわかるようになってきて上手になる。上手になれば、この仕事は自分に適していると思うようになり、面白くなってくる。
そうなれば、もはやその仕事は苦労ではなくなり、道楽に変わるというものである。
誰にも、「よし、やろう」と決意した仕事などが見事に完成した時の、素晴らしく、楽しく、幸せな感激体験があることだろう。
自己の才能を伸ばすコツも、器を大きくするコツもここにある。持っている力を出さず、何もしないで怠惰に一日を空費したのでは、夜は決して快適な眠りを与えてはくれない。
人間がよりよく睡眠を取るためには、ある程度の疲労が必要条件である。望ましい疲れは、スポーツの後のさわやかな疲れを思い浮かべれば、誰でも思い当たるであろう。
このさわやかな疲れは、昼間、それぞれの職分において、快適に働いた後に得られるものである。精いっぱい、自己を完全燃焼させて残る疲れであり、それによって自らを高め得た疲れである。
こういう価値ある疲れこそ、夜、眠りによって自己を充実させる源泉になるものだから、職業の選択もおろそかにしてはなるまい。
その日一日の仕事に全精力を使い切るという心掛けの人は、性格も素直で明るく、健康で賢明で、社会的に成功者が多い。
もちろん、肉体は疲れる。へとへとに疲れ切るだろうが、そういう人の肉体は、一晩ぐっすり寝ると疲労そのものが明日のエネルギーに変換しており、前日楽をして疲労しなかった人よりも元気で、精力的に働けるはずである。
肉体の巧妙さは、「気」エネルギーを出せば出すほど、使えば使うほど多く出るようになるという点にある。働けば働くほど、肉体から知恵はいくらでも湧くのである。
人間の肉体には、誰にでも宇宙根源の真理力という「気」エネルギーが潜在している。それは、肉体一色の命懸けの熱心さで仕事に励む時、はじめて力として、またヒント、アイデアとして、さまざまの工夫として現れるもの。
当然、命を懸けるくらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度というものが、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫ということも次々に生まれてくる。命が生きて働いてくれるからだ。
かくして、そこから私たち人間が繁栄していく方法というものが、無限に湧き出してくるのである。この無限に潜んでいるものを一つひとつ探し求めていくのが、人間の営為であり、私たちお互いの、人間としての務めだ。
「もうこれでよい、これで終わりだ」という考えは、人間の務めに反した考えだといわなくてはならないのである。
人が命を懸けて仕事に励めば、命が働いてくれて、無限の知恵が出る。それまで隠されていた真理が現れて、素晴らしい働きをしてくれる。
それは、命、すなわち人間の体、肉体が、汲めども尽きない力と知恵を発揮してくれる、という意味である。
●自分の仕事の価値や役割の重要性を知ろう
人間が仕事を通じて自己を育成し、器を大きくしていくためには、自らの実務能力を高め、限られた執務時間の中で能率的に事をなす努力も続けなければならない。
そのためには、自分の仕事の重要性を認識して、取り組む心構えが欠かせないだろう。
「書類を作成するなんて、つまらない仕事だ」と否定的に考えていれば、取り掛かる時も気力が充実し、意欲が出るどころではないし、ダラダラと仕事をして、単純なミスを繰り返したりする。こんなことでは、いつまでたっても、自己を高められるわけはない。
そもそも、人間の心理というものは、つまらないこと、簡単にできるやさしいことを前にしては、いくらやる気を出したつもりでも、意欲が高まらないのが普通である。
逆に、「今作るこの書類一枚がなければ、会社の仕事は動かないし、私が少しでもミスをすれば、会社や取引先に迷惑をかけることにもなる」と、自分の仕事が重要で、価値あるものと認めれば、自然に書類を作成するのにも積極的になり、能率もアップするものである。
同じように、人間は心理的に、先行きの予測が立たないことについては強い不安感を抱くもので、それが行動意欲の減退につながることが多い。
だから、自分が取り組もうとしている課題の全体像を把握し、結果をある程度予測することが大切となる。
一つの仕事に取り組む場合でも、全体の見通しが立つ条件と見通しが立たない条件とでは、仕事の結果に大きな差が出るものだ。
まだ体験したことのない仕事をする際には、その仕事を経験した人の話を聞くなり、自分で調べたりして、情報を少しでも多く集め、自分が新たに挑戦する課題の全体の見通しを持つようにすればいい。
自分の仕事の全体像をイメージできない例として、「大企業病」という言葉がある。企業が巨大になりすぎると、社員たちが大きすぎる組織の中で、自分の役割分担を見失ってしまうのが、病気の最大の原因である。
無論、やるべきことは上司から指示されてわかってはいても、自分の仕事が組織の中でどのくらい重要性を持つのか、見当がつかなくなってしまう。
こうなると人間は、与えられたことを与えられた時間以内にこなす以外、興味をなくしてしまう。仕事に創造的な喜びを見いだせず、いわゆるルーチンワークを消化するだけの人間になってしまう。
自分の取り組んでいることに何の意義も感じず、自分の達成したことがどの程度、会社や社会の役に立っているのかがわからなくては、仕事に意欲を出して頑張ろうとしても、向上意欲が湧かないのは当然だ。
反対に、自分の仕事が必要とされているのだとわかれば、大いにやる気も湧き、次第に実務能力も高められていく。
中小企業の中に多いが、社員一人ひとりが組織の中での自分の役割をつかみ、「自分がやらなければ」という気持ちで働いている会社は発展する。
自分の仕事が確かに役に立っている。自分が製品を作ることで喜んでくれる人がいる。こうした意識を持てるかどうかは、仕事の張り合いにも大きくかかわってくる。張り合いややりがいは、人から与えられるのを待っていてもしょうがない。
どのような仕事にしても、要は自分の見方、考え方次第である。何もあえて自ら自分の仕事をつまらなく考える必要はないから、会社の製品を喜んで使ってくれている消費者の姿を想像する。自分が仕事をしなければ、会社の中で支障をきたしたり、迷惑をかけたりする部署が必ずあることを考えてみる。
こうしたことをイメージしてみるだけでも、組織の中の一員としての、自分の仕事の重要性を意識できるであろう。
以上で述べた工夫で、自分の役割の重要性、価値を認識しながら仕事に臨めば、意欲的に、楽しく業務を遂行できることだろう。たとえ単調な仕事であっても、「気」を入れて能率よく働けば、知恵が身につく。
ここにも、業務に習熟し、自らの能力を高め、仕事を楽しみ多いものにするコツがある。
誰もが「しなければならないからやる」という態度でするのではなく、価値ある仕事への努力に対する満足感、完成した場合の快感のためにやるように、心の持ち方を変えてみることである。
スポーツは、自分の満足のためにやっているからこそ楽しい。もし、これが強制的に課せられた労働だったら、必ずしも楽しいものではなくなるだろう。
同じことが仕事にも当てはまる。喜びとして、また自分の創造力の表現として見ることによって、仕事は楽しみとすることができ、そこから人生と仕事に対するゆとりが生まれてくる。
●日々の生活の積み重ねが人生を左右する
人間とは幸福になることを夢見ている存在であるが、夢はつかの間に覚める。時間というものは、今しかない。
今を充実して、一日一日を積み上げていく自分をつくらねばならないだろう。明日を思い悩まず、他人をいたずらにうらやましがらず、今日一日にて足れりの精神で、その日その日を濃密な時間で満たす。
そうすれば、疲れて熟睡してしまうから、夢は見ることができないが、人生で大きな夢を見ることができる。
その今を完全に生き抜くために、人間がなすべきことは、現在の現実の生活に自己を没し切ること。へっぴり腰で今を生きていたのでは、せっかくの一生を、それもきわめて短いとさえいえる一人の人間の生涯を、全く無駄に費やしてしまうことになる。
手っ取り早くいえば、時間を活用し器量人を目指すためには、今の私たちの生活をひたすら真摯(しんし)に、誠実に送ることから始めなければならない。
人間の時間と人生の運び方は、自分自身で決めることである。運命が天か降ってくるものでも、地から湧いてくるものでもないからである。
誰もが自分の意思で、時間の活用法、人生の生き方、運命を好転させる手段を考えねばならない。
人の刻々、日々というものは、新しい創造の刻々であり日々だ。人間の歴史は、創造の歴史といってよい。創造とは、絵を描くとか、小説を書くとかの芸術だけではない。日々の仕事、労働、人間の働き、すべてが創造である。
すべての創造は、すなわち選択である。考えてみれば、人生は選択の連続なのである。
創造と選択は不可分であり、盾の両面である。選択も創造も、人間一人ひとり、天の道に従って人間性を磨き上げ、いかに時間を過ごすか、いかに生きるかの立場が基本となる。
いかに生きるか、いかに生きたか、そうして人間として成就、完成への道をどこまで行き着くことができたかが、人間の運命を決めていくのである。
人生のうちの一日一日の生活の積み重ねが、その人の生涯を左右する。ある人々は器量人に、器量よしになり、ある人々はその反対の境遇になる。
運命を進展させるべく一日一日を前向きに対するか、苦しいからと逃げ出すかによって、その頂上はひとりでに決まってしまうわけである。
そもそも人間の体は、働きそのものである。前向きに、仕事や勉強に忠実、勤勉の毎日を積む人は、将来の生活の基礎となる自己というものが確立するのである。
●全力投球で養う将来の成長のための潜在力
一日一日、前向きな毎日を積み重ねれば自己が確立するといっても、私たち人間の能力は、決して、一直線で伸びるものではないことは心得ておかねばならない。
世の中には、子供の頃は神童と呼ばれていたのに、社会に出て行き詰まる人間もいれば、若いうちは凡才と評されていたのに、人生の後半で伸び、懐の深い大人物といわれるようになった人間もいる。
ところが、一般の人たちは現代の日本を学歴社会だと思い込んでいて、一流大学に入学した時点で、あるいは大企業に入社した時点で、その人の長い人生が決まったという見方をする傾向があるようだ。
編集子が思うには、学歴社会というのは大学の先生や、官僚組織の一部においてのみいえることにすぎない。その他の分野では、全く錯覚にすぎない。ほとんどすべてが実力の世界であるし、今後はさらにその傾向が強まる。
だから、今まで目立たなかった人間が、ある時から急に才能を発揮して伸び出し、注目を集めるということがよくあるのだ。
明らかな実力の世界であるスポーツ界と、サラリーマンなどの世界とを比較してみれば、さまざまな面で著しい差があるにしても、芽の出ない状態の時やスランプの時に逃げ出さず、体当たりの猛烈な努力の積み重ねがあったかどうかが、その後の伸び方の決め手になっていることだけは共通しているようだ。
例えば、大相撲の力士やプロ野球の投手がある日突然、実力が伸びたように見えた場合でも、実際には、彼らが負けながらも、打たれながらも研究心を燃やし、肉体に力をつける厳しい練習を続けてきた結果なのである。
努力で次第に実力がつき、ある日たまたまその一端が現れ、勝負に勝つと自信を持ち、その後は自信が実力をフルに発揮させるようになったのだろう。
いつくるかは誰にもわからないが、努力さえしていればいつかは、その日が必ずくるということの好例である。
スポーツ界は結果が数字に表れるので、伸びたことが特にわかりやすいといえど、ビジネスの世界や学業でも、同様に、ある日を境に突然力がつく、伸びるといったケースはよくあるもの。
昔流にいうと、「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」とか、「苦労それ自身に価値がある」ということである。
そういう意味では、自らを窮地に追い込み、あがきながら最後まで手段を尽くし、全力投球するということが、自己を育成し、器を大きくする上で大いに役立つものである。
こうした努力からは、たとえ上司が期待した水準の成果は出なかった場合にも、本人の持てる力からすれば、十二分のものが生まれているのである。その上、将来の飛躍のための潜在力が育成されるのであるから、本人にとってはかなりの成果が得られたといってよい。
最初から与えられた仕事を避けた人に比べて、その後の人生において大きく伸びるチャンスをつかんだことにもなる。与えられた仕事をどんなことでも、一生懸命やる人間のほうが頼もしい。
反対に、現在の困難を避ける人は、将来の伸びるチャンスを自ら放棄しているのだといっても過言ではないだろう。
「こんな仕事、目立たないから嫌だ」などと、要領よく仕事を手抜きする人間は飛躍しない。器が大きくなりようがない。
●一生懸命に働くことは自分のためである
そういう人に留意してもらいたいのは、日本のような集団性の強い社会では、サラリーマン生活が長くなればなるほど、個性の弱い人はいわゆるサラリーマン根性というものが自分に巣くってしまい、矮小(わいしょう)化した人間になってしまうことである。
また、枠にはめられた仕事を何十年もしている間に、自分を伸ばさなかった人は、結局はつまらない人生を送らざるを得なくなる。
だから、一生懸命働くことは、会社や組織のためではなくて自分のためであるということを、常に意識しておくことが大切になる。懸命に仕事をし、それを通じて自己を磨く。そうして、絶えず向上しようと心掛けるべきだ。
その仕事のために必要な知識や能力について勉強すれば、面白く、興味も湧いてくるだろう。労働するということは、本来楽しい、面白いことである。これを苦しい、つまらないものにしているのは、人間の自己意識のなせる業にすぎない。
例えば、己の職業を天職と確信し、迷わず努力する一日一日を積み上げてゆけば、必ず仕事がよくわかるようになってきて上手になる。上手になれば、この仕事は自分に適していると思うようになり、面白くなってくる。
そうなれば、もはやその仕事は苦労ではなくなり、道楽に変わるというものである。
誰にも、「よし、やろう」と決意した仕事などが見事に完成した時の、素晴らしく、楽しく、幸せな感激体験があることだろう。
自己の才能を伸ばすコツも、器を大きくするコツもここにある。持っている力を出さず、何もしないで怠惰に一日を空費したのでは、夜は決して快適な眠りを与えてはくれない。
人間がよりよく睡眠を取るためには、ある程度の疲労が必要条件である。望ましい疲れは、スポーツの後のさわやかな疲れを思い浮かべれば、誰でも思い当たるであろう。
このさわやかな疲れは、昼間、それぞれの職分において、快適に働いた後に得られるものである。精いっぱい、自己を完全燃焼させて残る疲れであり、それによって自らを高め得た疲れである。
こういう価値ある疲れこそ、夜、眠りによって自己を充実させる源泉になるものだから、職業の選択もおろそかにしてはなるまい。
その日一日の仕事に全精力を使い切るという心掛けの人は、性格も素直で明るく、健康で賢明で、社会的に成功者が多い。
もちろん、肉体は疲れる。へとへとに疲れ切るだろうが、そういう人の肉体は、一晩ぐっすり寝ると疲労そのものが明日のエネルギーに変換しており、前日楽をして疲労しなかった人よりも元気で、精力的に働けるはずである。
肉体の巧妙さは、「気」エネルギーを出せば出すほど、使えば使うほど多く出るようになるという点にある。働けば働くほど、肉体から知恵はいくらでも湧くのである。
人間の肉体には、誰にでも宇宙根源の真理力という「気」エネルギーが潜在している。それは、肉体一色の命懸けの熱心さで仕事に励む時、はじめて力として、またヒント、アイデアとして、さまざまの工夫として現れるもの。
当然、命を懸けるくらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度というものが、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫ということも次々に生まれてくる。命が生きて働いてくれるからだ。
かくして、そこから私たち人間が繁栄していく方法というものが、無限に湧き出してくるのである。この無限に潜んでいるものを一つひとつ探し求めていくのが、人間の営為であり、私たちお互いの、人間としての務めだ。
「もうこれでよい、これで終わりだ」という考えは、人間の務めに反した考えだといわなくてはならないのである。
人が命を懸けて仕事に励めば、命が働いてくれて、無限の知恵が出る。それまで隠されていた真理が現れて、素晴らしい働きをしてくれる。
それは、命、すなわち人間の体、肉体が、汲めども尽きない力と知恵を発揮してくれる、という意味である。
●自分の仕事の価値や役割の重要性を知ろう
人間が仕事を通じて自己を育成し、器を大きくしていくためには、自らの実務能力を高め、限られた執務時間の中で能率的に事をなす努力も続けなければならない。
そのためには、自分の仕事の重要性を認識して、取り組む心構えが欠かせないだろう。
「書類を作成するなんて、つまらない仕事だ」と否定的に考えていれば、取り掛かる時も気力が充実し、意欲が出るどころではないし、ダラダラと仕事をして、単純なミスを繰り返したりする。こんなことでは、いつまでたっても、自己を高められるわけはない。
そもそも、人間の心理というものは、つまらないこと、簡単にできるやさしいことを前にしては、いくらやる気を出したつもりでも、意欲が高まらないのが普通である。
逆に、「今作るこの書類一枚がなければ、会社の仕事は動かないし、私が少しでもミスをすれば、会社や取引先に迷惑をかけることにもなる」と、自分の仕事が重要で、価値あるものと認めれば、自然に書類を作成するのにも積極的になり、能率もアップするものである。
同じように、人間は心理的に、先行きの予測が立たないことについては強い不安感を抱くもので、それが行動意欲の減退につながることが多い。
だから、自分が取り組もうとしている課題の全体像を把握し、結果をある程度予測することが大切となる。
一つの仕事に取り組む場合でも、全体の見通しが立つ条件と見通しが立たない条件とでは、仕事の結果に大きな差が出るものだ。
まだ体験したことのない仕事をする際には、その仕事を経験した人の話を聞くなり、自分で調べたりして、情報を少しでも多く集め、自分が新たに挑戦する課題の全体の見通しを持つようにすればいい。
自分の仕事の全体像をイメージできない例として、「大企業病」という言葉がある。企業が巨大になりすぎると、社員たちが大きすぎる組織の中で、自分の役割分担を見失ってしまうのが、病気の最大の原因である。
無論、やるべきことは上司から指示されてわかってはいても、自分の仕事が組織の中でどのくらい重要性を持つのか、見当がつかなくなってしまう。
こうなると人間は、与えられたことを与えられた時間以内にこなす以外、興味をなくしてしまう。仕事に創造的な喜びを見いだせず、いわゆるルーチンワークを消化するだけの人間になってしまう。
自分の取り組んでいることに何の意義も感じず、自分の達成したことがどの程度、会社や社会の役に立っているのかがわからなくては、仕事に意欲を出して頑張ろうとしても、向上意欲が湧かないのは当然だ。
反対に、自分の仕事が必要とされているのだとわかれば、大いにやる気も湧き、次第に実務能力も高められていく。
中小企業の中に多いが、社員一人ひとりが組織の中での自分の役割をつかみ、「自分がやらなければ」という気持ちで働いている会社は発展する。
自分の仕事が確かに役に立っている。自分が製品を作ることで喜んでくれる人がいる。こうした意識を持てるかどうかは、仕事の張り合いにも大きくかかわってくる。張り合いややりがいは、人から与えられるのを待っていてもしょうがない。
どのような仕事にしても、要は自分の見方、考え方次第である。何もあえて自ら自分の仕事をつまらなく考える必要はないから、会社の製品を喜んで使ってくれている消費者の姿を想像する。自分が仕事をしなければ、会社の中で支障をきたしたり、迷惑をかけたりする部署が必ずあることを考えてみる。
こうしたことをイメージしてみるだけでも、組織の中の一員としての、自分の仕事の重要性を意識できるであろう。
以上で述べた工夫で、自分の役割の重要性、価値を認識しながら仕事に臨めば、意欲的に、楽しく業務を遂行できることだろう。たとえ単調な仕事であっても、「気」を入れて能率よく働けば、知恵が身につく。
ここにも、業務に習熟し、自らの能力を高め、仕事を楽しみ多いものにするコツがある。
誰もが「しなければならないからやる」という態度でするのではなく、価値ある仕事への努力に対する満足感、完成した場合の快感のためにやるように、心の持ち方を変えてみることである。
スポーツは、自分の満足のためにやっているからこそ楽しい。もし、これが強制的に課せられた労働だったら、必ずしも楽しいものではなくなるだろう。
同じことが仕事にも当てはまる。喜びとして、また自分の創造力の表現として見ることによって、仕事は楽しみとすることができ、そこから人生と仕事に対するゆとりが生まれてくる。
■器量を磨く秘訣3 [器量を磨く秘訣]
器を大きくするための人生目標
●将来展望から今日一日やるべきことを考える
このようにして、人間が仕事、あるいは勉強などに、楽しみながら意欲を燃やし、能力を高めるための工夫をしながら、忠実、勤勉の毎日を積めば、将来へつながる自己育成ができるはずである。
その点、一日一日を大切にすると同様に、自らの将来のことでも、会社の仕事や経営のことでも、自分の家庭のことでも、先の先を読み取ること、壮大でかつ綿密な先見性という能力を身につけることも大切となる。
長い単位としては二十年後、中期では五年から十年後、短期では一年から二年先までの状態を見つめる。
二十年先にはどうなっているか、どうすべきかと考える。そのためには十年後にはどうなっていなければならないか。その十年後の自分や家庭や会社の理想の状態を可能にするには、一年後にはどう進展していなければならないか。
さらに、そのためには明日、そして今日やるべきことは何かを考える。二十年後という大きな展望から、自分が今日やるべきことまでを考えるのである。
実際、二十年後の状態というのは、まだ、ぼんやりとしか見渡せないだろう。それを十年後、五年後、一年後といったように細分化してゆくと、今日やるべきことにたどり着く。
つまり、今日一日の実行すべきことというのは、一見見えないようであっても、実は二十年後にちゃんとつながっていくのである。
こういう将来展望という大目標、今日一日やるべきことという小目標は、人間にとって非常に大事である。人間は目的に向かってこそ、努力をしたり、苦労をしたりできる。それこそ雲をつかむような漠然とした状態では、意欲を高めようもない。
だからといって、あまりにも現実離れした高い目標を掲げてしまうと、私たち人間はその能力を発揮できないものである。
目標が適度だった場合には、人間は「よし、やってやろう」という気になる。それが夢物語のように大きすぎたり、高すぎたり、漠然としたものでは、気持ちがついていかない。
成功した人の話を聞いてみると、大目標と小目標の使い分けがうまい人が多いものである。
「絶対社長になろう。会社を十倍にしてみせる」などと、十年後、二十年先の大目標はもちろん抱くのであるが、「目の前にある仕事を成功させるのだ」、「今度の商談は絶対にまとめてみせる」と、はっきりした小目標も同時に持っている。
つかみやすい単純な目標は、人間に力を与える。「頑張れば達成できそうだ」と思えれば、人間は気持ちが前向きになるのである。
誰もが「どうしてもこれをしなければならない」と没頭し、成功した体験の一つや二つはあるはずであり、目標が明確であったから成し遂げられたのである。
成功したいという決心、それに向かっての情熱、意欲が人生における成功のカギであるが、目標を明確にすることによって、それに向かって能力を磨けるし、目標があってはじめて生きがいも生まれるのである。
●人間の器を大きくする壮大な人生目標
生きがいとなる大目標についていえば、例えば金持ちになりたいという望みは、人間みなにあるはずだし、努力もしているだろう。しかし、ここから先、アプローチの仕方が重要である。
企業内で出世することによって高収入を達成するのか。今の企業を抜け出して、他の企業に新天地を求めるのか。事業を起こして金持ちになるのか。あるいは、プロのスポーツ選手や音楽家などを目指して実現しようとするのか。
方法は多様であり、どれを選択するのかをまず決めることからスタートしよう。その上で、実業家を目指す人であれば、何年先に自社所有のビルを持つのか、持つとすれば何階建てにするのか、場所はどこにするのかなどと、できるだけ具体的にしていくのである。
今の日本のように急速に転職が自由になった時代にあっては、会社や職種を変えることを選択するのもよいだろう。
入社三年目までの社員の転職が、大手の会社でも十パーセント以上になり、サラリーマンの六十五パーセントは、納得できる会社があれば移る意思を持っている、という調査結果もある。
転職はやはり危険負担を伴うが、望み通りの仕事や収入を獲得する目的があるならば、大いにけっこうなことだと思う。
いろいろな職種の会社に在籍して、経験を積み重ねた人の中には、広く、多様な知識が得られ、新しい会社に入るごとに革命的といってよいほど、自分が豊かに変わったというような人もいる。これだけは、本を読んで知識をつけるのとは雲泥の違いである。
転職は自分を高める絶好の機会だが、最終的には、自分の天職と思えるところに早めに軟着陸すべきである。
ところで、人生における目標は一つでなければいけない、ということではない。それどころか、仕事や学業における目標、家庭生活における目標、さらにはトータルなライフスタイルでの目標と、異なる方面ごとに目標を掲げ、それぞれの達成に向けて積極的に挑戦し、情熱を傾けることを勧めたい。
また、人生における目標は、大きければ大きいほどいい。先にも述べたように、あまりにも現実離れした目標であってはならぬが、自分の能力以上と思われる大きなテーマを目標として、「やってみよう」と決断し、全力で取り組むことが、人間の器を大きくするためにも大変大切なことである。
器量人と呼ばれて成功している人はすべて、その道を通ってきている。
逆に、小さな人生目標を設定し、それすら達成できなければ、計り知れないほどのダメージを受け、立ち直るのに時間がかかる。
大きな目標を掲げた場合は当然のことながら、自分の能力との食い違いを埋める努力を続けなくてはならないし、挫折感を味わうことにもなろう。それを繰り返してこそ能力、才能というものは磨かれていくのである。
その上、人間は目標を突破するたびに、自信がついてくるはず。目標を一つ越えるたびに、積極的で、たくましい人間、以前より器の大きくなった人間に変身していくのである。
別の言葉でいえば、大きな目標に向かうということは、苦難の連続でもあるわけだが、切り抜けることによって信念がより強固になり、そうなれば、自分でも気づかなかった潜在能力が次々と開花し、文字通り奇跡をも起こすことが可能になってくるのである。
胸に抱く夢の大きさが、その人の将来の大きさを決定する、といってもよい。
「大きな目標を達成することができるだろうか」と恐れていては、いい結果は生まれない。楽観的、かつ積極的に、「必ず成功する」と確信して取り組むところに、宇宙天地大自然、すなわち創造主から創造的で無限の供給を得て事をなし得るのである。
宇宙に創られた我々人間というものは、自分も知らない大きな、潜在的エネルギーを持っている。それなのに、「自分はつまらない存在だ」とか、「自分の能力は大したことはない」と決めつけてしまうと、もう自分の潜在的なエネルギーは出てこなくなってしまう。
「自分は相当なものだ」、「伸ばせばいくらでも伸びる」と自らを信頼し、尊敬していれば、潜在していたものがどんどん出てくる。このような構造になっている。
●自分に対しての投資を惜しんではならない
人間というものは、人生の目標達成に向かって努力しながら、自己の能力、才能、人格を磨くための自己投資をうんとやるべきだろう。
資本主義の先兵である企業に勤めているから、企業の投資活動の重要性は十分理解しているにもかかわらず、サラリーマンは自分に投資するという観念がない。
企業はいつ本業が駄目になるかもしれないから、常に多角化と将来の新製品、新技術、新事業のための研究、努力を怠らない。だからこそ、競争社会で生き残っていけるようになる。
サラリーマン本人にとっても同じことがいえるはずであるが、会社のためには持てる力を振り絞っても、自分のためには少しも考えないというのが、日本のサラリーマン像である。
「今の会社で働き続けていれば、将来はよいことがあるはずだ」、と本能的に思い込んでいる。だが、高度経済成長に終止符が打たれた後は、企業の減量経営で出向社員になったり、リストラという名の人員整理の対象にされたりと、ベテラン社員になってもよいことがあるとは限らない状況になっているではないか。
従って、保険をかけるのと同じように、自分に対して投資をしておくことが重要である。では、何に投資するのかというと、高い専門能力と広い知識で自分の幅を広げることと、もう一つは人脈である。
自分の幅を広げるために、特に勧めたいのは読書。読書の対象を専門分野に限るのもよいが、対象を広く持つことはもっとよい。
あれもこれもと、あらゆる分野の本に手を広げてみると、よほど性に合わないものでない限り、興味が湧き、知識が深まり、さまざまなヒント、発想も得られるはずだ。
日頃から幅広く、あるいは突き詰めて本を読んでおくと、思わぬ時に、思わぬ形で、目先の障壁を突破する視座を与えられるものでもある。
要は読む習慣をつけることが大切なのであり、それが自己啓発につながると、必ず将来役に立つ時がくる。大きく伸びるためにはぜひ必要である。
とはいっても、時間に比較的余裕がある学生などと違って、社会人や主婦などの中には、読書に振り向ける時間がないという人も多いだろう。
しかし、社会人の場合は、どうしてもある程度は本を読む必要がある。今日のように日本経済を動かす要因や企業成長の要因が複雑で、それを理解するには膨大な知識や情報が必要な時には、何としても本を読む時間を見いださなくてはならないだろう。
「忙しいので時間がない」というのは言い訳であって、読書の意欲さえあれば自然に時間を発見できるもの。
そこで、確実に本が読めるように、日常生活の中で必ず行うことの中に、読書を組み込むことはできないだろうか。可能ならば、必ず読書の習慣が身につくはずである。要するに、習慣化する工夫が必要なのだ。
●確実に読書を習慣化する日常の工夫
毎朝、早起きをして、社会人なら出勤する前、主婦なら家事をする前に三十分でも、一時間でも読書をすることが最もお勧めだが、通勤時間を活用して本を読む時間を生み出すのもよい方法である。
今、大都市を中心に通勤に使われる時間は、年々長くなっている。片道一時間半は、もはや普通のこととなっている。往復三時間、一日の八分の一もが、毎日の行き帰りに費やされているわけだ。
このように相当の時間を通勤にとられざるを得ないとすると、問題は当然、その時間をどのように有効に活用するかにかかってくるだろう。
電車やバスの中で本や新聞や雑誌を読むことを、すでに実行している人はかなりいるはずで、工夫次第で、もっと徹底した通勤時間の読書活用法も考えられる。
まず、朝早く起きる習慣をつけて、一時間ぐらい自主的に出勤時間を早めて自宅を出ると、新聞さえ広げられないラッシュ前のすいた電車やバスに乗れるから、座席に座ってゆったり読書できる時間を中心に、一日のスケジュールを組み替えることができる。
今やエレクトロニクス技術の発達で、ワープロやパソコンやビデオなどが一般に普及している時代である。どうしても見たい夜間のテレビ番組などはビデオに録画して、暇な時間に見るのが無駄がなく便利だろう。
ハイテク機器は有効に使うべきで、眠いのを我慢して、深夜までテレビに付き合う必要はないから、やる気があるなら早起きはできるだろう。
次に、このようにして朝の電車やバスの座席を確保できたら、貴重な通勤時間の利用法を前もって決めておくのである。この時間こそ、自分だけのために使える時間。思い切り自分の好きなことをすればいい。
読書に意欲がある人なら、往復二、三時間の通勤電車内を動く書斎にして、せっせと励めるはずである。すいた車内で、座席を確保できるから、本の欄外に所感などを書いておくこともできる。
どうしても机に向かわないと読書意欲が湧かないという人や、車中の他人の存在が気になって読書に集中できないという人は、ともかく一日五分頑張ってみる。そして、十五分、三十分、一時間と徐々に目標を伸ばしていく。
それが、電車やバスの中で、自然に読書に集中できる道である。通勤電車などが落ち着ける空間になったら、しめたものである。ゆっくり本を読めるようになれば、通勤電車の書斎化に成功したことになる。
毎朝、電車やバスに乗る際は、読みたい本の一、二冊は持っていくことを習慣にすればいい。もちろん、読書ばかりでなく、仕事中心の人ならば、電車内で今日の計画を立案したり、明日の計画を考えるのもよい。アイデア開発に興味のある人ならば、カード片手にアイデアや創造性開発を研究するのもよい。
また、英会話など語学の勉強に専心するのもいい。今は小型のカセットテープレコーダーがあるから、超満員の電車では、手を動かさなくてすむ会話の学習に最適だろう。
このように通勤時間を利用して、人にはまねのできない大きな仕事をしている人はたくさんいる。彼らは、通勤の時間をただぼんやりしていたり、スポーツ新聞や漫画を読むことなどに費やさないで、電車やバスの中を自分専用の移動書斎、移動研究室にして、もっと有意義なことに計画的に活用しているのである。
●将来展望から今日一日やるべきことを考える
このようにして、人間が仕事、あるいは勉強などに、楽しみながら意欲を燃やし、能力を高めるための工夫をしながら、忠実、勤勉の毎日を積めば、将来へつながる自己育成ができるはずである。
その点、一日一日を大切にすると同様に、自らの将来のことでも、会社の仕事や経営のことでも、自分の家庭のことでも、先の先を読み取ること、壮大でかつ綿密な先見性という能力を身につけることも大切となる。
長い単位としては二十年後、中期では五年から十年後、短期では一年から二年先までの状態を見つめる。
二十年先にはどうなっているか、どうすべきかと考える。そのためには十年後にはどうなっていなければならないか。その十年後の自分や家庭や会社の理想の状態を可能にするには、一年後にはどう進展していなければならないか。
さらに、そのためには明日、そして今日やるべきことは何かを考える。二十年後という大きな展望から、自分が今日やるべきことまでを考えるのである。
実際、二十年後の状態というのは、まだ、ぼんやりとしか見渡せないだろう。それを十年後、五年後、一年後といったように細分化してゆくと、今日やるべきことにたどり着く。
つまり、今日一日の実行すべきことというのは、一見見えないようであっても、実は二十年後にちゃんとつながっていくのである。
こういう将来展望という大目標、今日一日やるべきことという小目標は、人間にとって非常に大事である。人間は目的に向かってこそ、努力をしたり、苦労をしたりできる。それこそ雲をつかむような漠然とした状態では、意欲を高めようもない。
だからといって、あまりにも現実離れした高い目標を掲げてしまうと、私たち人間はその能力を発揮できないものである。
目標が適度だった場合には、人間は「よし、やってやろう」という気になる。それが夢物語のように大きすぎたり、高すぎたり、漠然としたものでは、気持ちがついていかない。
成功した人の話を聞いてみると、大目標と小目標の使い分けがうまい人が多いものである。
「絶対社長になろう。会社を十倍にしてみせる」などと、十年後、二十年先の大目標はもちろん抱くのであるが、「目の前にある仕事を成功させるのだ」、「今度の商談は絶対にまとめてみせる」と、はっきりした小目標も同時に持っている。
つかみやすい単純な目標は、人間に力を与える。「頑張れば達成できそうだ」と思えれば、人間は気持ちが前向きになるのである。
誰もが「どうしてもこれをしなければならない」と没頭し、成功した体験の一つや二つはあるはずであり、目標が明確であったから成し遂げられたのである。
成功したいという決心、それに向かっての情熱、意欲が人生における成功のカギであるが、目標を明確にすることによって、それに向かって能力を磨けるし、目標があってはじめて生きがいも生まれるのである。
●人間の器を大きくする壮大な人生目標
生きがいとなる大目標についていえば、例えば金持ちになりたいという望みは、人間みなにあるはずだし、努力もしているだろう。しかし、ここから先、アプローチの仕方が重要である。
企業内で出世することによって高収入を達成するのか。今の企業を抜け出して、他の企業に新天地を求めるのか。事業を起こして金持ちになるのか。あるいは、プロのスポーツ選手や音楽家などを目指して実現しようとするのか。
方法は多様であり、どれを選択するのかをまず決めることからスタートしよう。その上で、実業家を目指す人であれば、何年先に自社所有のビルを持つのか、持つとすれば何階建てにするのか、場所はどこにするのかなどと、できるだけ具体的にしていくのである。
今の日本のように急速に転職が自由になった時代にあっては、会社や職種を変えることを選択するのもよいだろう。
入社三年目までの社員の転職が、大手の会社でも十パーセント以上になり、サラリーマンの六十五パーセントは、納得できる会社があれば移る意思を持っている、という調査結果もある。
転職はやはり危険負担を伴うが、望み通りの仕事や収入を獲得する目的があるならば、大いにけっこうなことだと思う。
いろいろな職種の会社に在籍して、経験を積み重ねた人の中には、広く、多様な知識が得られ、新しい会社に入るごとに革命的といってよいほど、自分が豊かに変わったというような人もいる。これだけは、本を読んで知識をつけるのとは雲泥の違いである。
転職は自分を高める絶好の機会だが、最終的には、自分の天職と思えるところに早めに軟着陸すべきである。
ところで、人生における目標は一つでなければいけない、ということではない。それどころか、仕事や学業における目標、家庭生活における目標、さらにはトータルなライフスタイルでの目標と、異なる方面ごとに目標を掲げ、それぞれの達成に向けて積極的に挑戦し、情熱を傾けることを勧めたい。
また、人生における目標は、大きければ大きいほどいい。先にも述べたように、あまりにも現実離れした目標であってはならぬが、自分の能力以上と思われる大きなテーマを目標として、「やってみよう」と決断し、全力で取り組むことが、人間の器を大きくするためにも大変大切なことである。
器量人と呼ばれて成功している人はすべて、その道を通ってきている。
逆に、小さな人生目標を設定し、それすら達成できなければ、計り知れないほどのダメージを受け、立ち直るのに時間がかかる。
大きな目標を掲げた場合は当然のことながら、自分の能力との食い違いを埋める努力を続けなくてはならないし、挫折感を味わうことにもなろう。それを繰り返してこそ能力、才能というものは磨かれていくのである。
その上、人間は目標を突破するたびに、自信がついてくるはず。目標を一つ越えるたびに、積極的で、たくましい人間、以前より器の大きくなった人間に変身していくのである。
別の言葉でいえば、大きな目標に向かうということは、苦難の連続でもあるわけだが、切り抜けることによって信念がより強固になり、そうなれば、自分でも気づかなかった潜在能力が次々と開花し、文字通り奇跡をも起こすことが可能になってくるのである。
胸に抱く夢の大きさが、その人の将来の大きさを決定する、といってもよい。
「大きな目標を達成することができるだろうか」と恐れていては、いい結果は生まれない。楽観的、かつ積極的に、「必ず成功する」と確信して取り組むところに、宇宙天地大自然、すなわち創造主から創造的で無限の供給を得て事をなし得るのである。
宇宙に創られた我々人間というものは、自分も知らない大きな、潜在的エネルギーを持っている。それなのに、「自分はつまらない存在だ」とか、「自分の能力は大したことはない」と決めつけてしまうと、もう自分の潜在的なエネルギーは出てこなくなってしまう。
「自分は相当なものだ」、「伸ばせばいくらでも伸びる」と自らを信頼し、尊敬していれば、潜在していたものがどんどん出てくる。このような構造になっている。
●自分に対しての投資を惜しんではならない
人間というものは、人生の目標達成に向かって努力しながら、自己の能力、才能、人格を磨くための自己投資をうんとやるべきだろう。
資本主義の先兵である企業に勤めているから、企業の投資活動の重要性は十分理解しているにもかかわらず、サラリーマンは自分に投資するという観念がない。
企業はいつ本業が駄目になるかもしれないから、常に多角化と将来の新製品、新技術、新事業のための研究、努力を怠らない。だからこそ、競争社会で生き残っていけるようになる。
サラリーマン本人にとっても同じことがいえるはずであるが、会社のためには持てる力を振り絞っても、自分のためには少しも考えないというのが、日本のサラリーマン像である。
「今の会社で働き続けていれば、将来はよいことがあるはずだ」、と本能的に思い込んでいる。だが、高度経済成長に終止符が打たれた後は、企業の減量経営で出向社員になったり、リストラという名の人員整理の対象にされたりと、ベテラン社員になってもよいことがあるとは限らない状況になっているではないか。
従って、保険をかけるのと同じように、自分に対して投資をしておくことが重要である。では、何に投資するのかというと、高い専門能力と広い知識で自分の幅を広げることと、もう一つは人脈である。
自分の幅を広げるために、特に勧めたいのは読書。読書の対象を専門分野に限るのもよいが、対象を広く持つことはもっとよい。
あれもこれもと、あらゆる分野の本に手を広げてみると、よほど性に合わないものでない限り、興味が湧き、知識が深まり、さまざまなヒント、発想も得られるはずだ。
日頃から幅広く、あるいは突き詰めて本を読んでおくと、思わぬ時に、思わぬ形で、目先の障壁を突破する視座を与えられるものでもある。
要は読む習慣をつけることが大切なのであり、それが自己啓発につながると、必ず将来役に立つ時がくる。大きく伸びるためにはぜひ必要である。
とはいっても、時間に比較的余裕がある学生などと違って、社会人や主婦などの中には、読書に振り向ける時間がないという人も多いだろう。
しかし、社会人の場合は、どうしてもある程度は本を読む必要がある。今日のように日本経済を動かす要因や企業成長の要因が複雑で、それを理解するには膨大な知識や情報が必要な時には、何としても本を読む時間を見いださなくてはならないだろう。
「忙しいので時間がない」というのは言い訳であって、読書の意欲さえあれば自然に時間を発見できるもの。
そこで、確実に本が読めるように、日常生活の中で必ず行うことの中に、読書を組み込むことはできないだろうか。可能ならば、必ず読書の習慣が身につくはずである。要するに、習慣化する工夫が必要なのだ。
●確実に読書を習慣化する日常の工夫
毎朝、早起きをして、社会人なら出勤する前、主婦なら家事をする前に三十分でも、一時間でも読書をすることが最もお勧めだが、通勤時間を活用して本を読む時間を生み出すのもよい方法である。
今、大都市を中心に通勤に使われる時間は、年々長くなっている。片道一時間半は、もはや普通のこととなっている。往復三時間、一日の八分の一もが、毎日の行き帰りに費やされているわけだ。
このように相当の時間を通勤にとられざるを得ないとすると、問題は当然、その時間をどのように有効に活用するかにかかってくるだろう。
電車やバスの中で本や新聞や雑誌を読むことを、すでに実行している人はかなりいるはずで、工夫次第で、もっと徹底した通勤時間の読書活用法も考えられる。
まず、朝早く起きる習慣をつけて、一時間ぐらい自主的に出勤時間を早めて自宅を出ると、新聞さえ広げられないラッシュ前のすいた電車やバスに乗れるから、座席に座ってゆったり読書できる時間を中心に、一日のスケジュールを組み替えることができる。
今やエレクトロニクス技術の発達で、ワープロやパソコンやビデオなどが一般に普及している時代である。どうしても見たい夜間のテレビ番組などはビデオに録画して、暇な時間に見るのが無駄がなく便利だろう。
ハイテク機器は有効に使うべきで、眠いのを我慢して、深夜までテレビに付き合う必要はないから、やる気があるなら早起きはできるだろう。
次に、このようにして朝の電車やバスの座席を確保できたら、貴重な通勤時間の利用法を前もって決めておくのである。この時間こそ、自分だけのために使える時間。思い切り自分の好きなことをすればいい。
読書に意欲がある人なら、往復二、三時間の通勤電車内を動く書斎にして、せっせと励めるはずである。すいた車内で、座席を確保できるから、本の欄外に所感などを書いておくこともできる。
どうしても机に向かわないと読書意欲が湧かないという人や、車中の他人の存在が気になって読書に集中できないという人は、ともかく一日五分頑張ってみる。そして、十五分、三十分、一時間と徐々に目標を伸ばしていく。
それが、電車やバスの中で、自然に読書に集中できる道である。通勤電車などが落ち着ける空間になったら、しめたものである。ゆっくり本を読めるようになれば、通勤電車の書斎化に成功したことになる。
毎朝、電車やバスに乗る際は、読みたい本の一、二冊は持っていくことを習慣にすればいい。もちろん、読書ばかりでなく、仕事中心の人ならば、電車内で今日の計画を立案したり、明日の計画を考えるのもよい。アイデア開発に興味のある人ならば、カード片手にアイデアや創造性開発を研究するのもよい。
また、英会話など語学の勉強に専心するのもいい。今は小型のカセットテープレコーダーがあるから、超満員の電車では、手を動かさなくてすむ会話の学習に最適だろう。
このように通勤時間を利用して、人にはまねのできない大きな仕事をしている人はたくさんいる。彼らは、通勤の時間をただぼんやりしていたり、スポーツ新聞や漫画を読むことなどに費やさないで、電車やバスの中を自分専用の移動書斎、移動研究室にして、もっと有意義なことに計画的に活用しているのである。
■器量を磨く秘訣4 [器量を磨く秘訣]
周囲と調和できる人格をつくる
●人脈を広げるには自分を高める必要がある
読書とともに、サラリーマンなどが投資しておくべきことは、自分を高めてくれる人脈作りである。
人脈がなぜ大切かというと、よい人と付き合えば、自分の器量を大きくしてくれるし、自分の能力を何倍かに高めてくれるからである。
人間一人の能力は限られている。人脈を広げて、いろいろな人とつながりを結んでいれば情報は入るし、その人のコネクションでいろいろな人も紹介してもらえる。問題解決のための知恵も貸してくれる。人脈をどれだけ持っているかは、その人の能力でもあるわけだ。
ただ、編集子のいう人脈とは単に、友人や知己が多いというのとは違う。その友人や知己がどれだけ自分にとって啓発的であり、自分に力を貸してくれる人たちであるかということである。
会社に長く勤めている人なら、社内や取引先にたくさんの仲間や友人ができる。ところが、ポストが換わったり、転職したり、退職してしまうと、この社内人脈はあらかた消滅する運命にある。だから、会社関係の人脈ははかないことを承知しておくべきだろう。遊び仲間というのも、遊び以外は役に立たない場合が多い。
一方、長い人生の範囲で考え、会社の軸とは関係ない人脈を作っておけば、そのネットワークは自分個人に帰属するから、転職しようと、退職しようと永続する。
学生時代の親友などは、苦楽をともにした過去を共有しているので心が結び合っているのに比べて、学校を卒業すると、なかなか純粋な友を作る機会がないものだ。社会に出てからは、特に意識的に努力して、そういう友人、知己を作っていくことが大切になる。
そこで、社会人が人脈を広げるためには、自分を高めることが必要となる。人間というものは大概、横並びに集まるもので、同じ程度の相互扶助能力のある人が集まる。
従って、自分の人間の幅が大きくなったぶん、それなりの人と付き合うことができるようになるというものだ。
あなたの人柄がよく、相互扶助能力があれば、黙っていても人はあなたの評判を聞いて近づいてくる。また、いろいろな人が喜んで、他の人を紹介してくれるものだ。
結局、人脈を広げようとする人間は、周囲と調和できる人格を持っていなければならないことになる。周りから信頼もされず、反感を持たれている人物には、誰も近づいてくるものではないだろう。
人間というものは、周囲と調和できるのが自然で、調和できないのは自意識が強すぎ、我が強すぎるからだ。本当に自己を生かす者は、我が強くては駄目である。
我の強い者は依怙地(いこじ)である。他と調和するには、我に執着しすぎる。自分を生かすためには他をやっつけることを辞さない。素直になり切れない。自分さえよければいいは、実は一番自分のためにならないのだが、今の時代では、引っ込んでばかりいると生活ができない。どうしても、がむしゃらにならないと生きてゆけない面がある。
例えば、朝夕の満員電車に乗り込むようなもので、他人に譲ってばかりいては、自分の約束も守れない。自分の義務も果たせないということになる。どうしてもある程度は、他人を押しのけて、自分を生かす必要がある。
だから、この世に生きてゆくには、時に我の強い者が、得をするのは事実で、人がよすぎては、社会的敗残者になってしまう場合もある。他人に譲ってばかりいては生活できないから、適当な我がなければならない。
●周囲と調和できる人格を持つことについて
しかし、我が弱すぎるのも困るが、強すぎるのも困る。当人も困るが、周囲がなお困る。そして、はたから反感を持たれ、ついひねくれることになる。
何事も程度問題だが、我が強すぎて、他のことはわからないという人がある。そこまでゆかない人でも、自力ばかりを頼って、自分の世界に入り込んで、他の世界を拒絶する傾向の人がいる。
自分の自力で、何でも解決できると思う。その結果、自力以外を信ぜず、他人の他力の世界を認めなくなる。
ともかく、人間は自力だけでは救われないもので、人間が自己を救おうと思うには、他力によらなければならないのだ。
一番簡単な他力である他人の助力についてみても、他人から嫌われる人、信用されない人、愛想をつかされる人などは、幸福にはなれない。その反対に、多くの人から愛されることは幸せであり、生きる喜びを得る。
やはり、人間はともに生き、ともに生かし合うことが必要なのである。
一例を挙げれば、あの太陽が燃えているのは、太陽自体が燃えているのではなく、周囲の作用で水素の核融合反応を起こして、燃焼しているのである。宇宙に存在するすべてのものは、何一つ独立し、孤立して存在しているものではなく、互いに相関し、助け合って全宇宙の中のものとして、宇宙と一体で現象しているのである。
ここに示した宇宙の全体性原理は、そのまま世の中の動きも、互いに相関し合っているもので、その相関する力なしには、存在も現象もあり得ないものだ、ということである。
人間は各人別々、互いにバラバラに、自分と他と区別するが、区別は同時に関係ということであるから、世の中一般は、この関係を生かし、ともに生きること、互いに生かし合うことが、宇宙の原理に従うわけである。
宇宙には、何一つ同じものはなく、人間にしても決して同じ人間は二人といないのである。
人間にはすべて、長所があり、短所のあるもので、すべてが性格を異にしているが、実は、人間相互の長短と差異が、お互いに引き合う力となるのである。このことをお互いに心して、生かし合いたいものである。
「彼はエゴイストだ」、「彼女は利己主義者だ」といって他人に嫌われ、愛想をつかされたならば、自分が損するにちがいない。物質的にも、精神的にも、他人に嫌われて得をするわけはない。
しかし、そんなことを考える余裕もないほど、利欲心の強い人が存在する。そういう人が不幸になる時、自業自得といわれるのも致し方ないところである。
●楽しい気性を養ってつながる人間関係
自己性が強いと、それはみな欲になってしまう。悠々として、自然作用的な「気」を豊かにして生きていけば、好き嫌いや疎むということもない。いかなることがあっても、人と人との和を欠くようなことはない。
人間は、動物や植物に対しても、何となく気に入らぬ、気に食わぬということがある。気に入って、好きでたまらなくなることもある。
同じ人間に対しても、気に入る、何となく気に掛かる、そして気が合う、気遣うなど、人間関係のジョイントとしての「気」の効用をいう言葉を使う。反対に、はじめからどうも気が合わぬ、気が染まぬ、気兼ねするなどということもあって、出雲の神の気をもませることもある。
すべては普遍的な「気」の働きなのであって、宇宙の森羅万象とも「気」によってつながっているのである。「気」でつながるとは、肉体でこそ知り得る味で、自己意識の強い人には、この味は体得できない。
人間は生まれてから死ぬまで、「気」のお世話になっているのに、その醍醐味(だいごみ)に気づかずにいる人は不幸である。
人間は本来、おのおの「気」でつながるべきもの。「気」を働かせるコツは、相手が黙っていてもその「気」を察し、「気」を合わせて、相手の望むように振る舞うことである。
ところが、現代人は「気」でなしに物でつながる。金でつながる。権力でつながる。趣味でつながるのは、まだしも上等の部類に入れねばならない。
口先では「気が合う」などといっても、その「気」と称するものが多分に意識的な、社交辞令的なものであることも多い。何よりも「気」というものについての認識が欠如しているから、聞きかじりの言葉として使われているような気味合いもある。
人間の内なる世界と、外なる自然との統合はもとより、肉体と精神との根源的統一も、「気」が存在するからこそ可能なのである。
人間の腹には、宇宙から吸収された「気」がプールされている無意識層がある。昔から臍下丹田を気海というが、活力の源泉はすべて、そこから湧き出すものである。胸中に「気」を集めず、丹田に「気」を集めるよう心掛ければ、自然に「気」が養われてくる。
そして、この「気」の流れ、「気」の交換というものは、肉体の健康、家庭生活、社会生活の中で最も大きな価値を持っているものである。
人脈を広げようとする人間ならば、「気分のいい人」とか、「気性がいい人」だとかというように、人は天候、気候と同じように気性に支配されることが大きいから、楽しい気性を養わなくてはいけない。楽しい気性を養えば、人のよいところが見えてくる。
世に、君子に対するに、小人という言葉を使う。君子とは人のよいところのみを見る人、小人とは人の悪いところのみを見る人だともいう。やはり我々は普通、人を悪く見ることのほうが多くて、よいところというのはなかなか見えないものだから、日頃の心得、人格修養のポイントと考えてもいいのではないか。
いい人と付き合う、あるいはすべての人のいいところのみ見ていくということを、今後の指針としていく人は、おのずと人脈も広がっていくはずである。
人脈が広がり、異質の人を受け入れた場合、そのぶん失敗や回り道や空振りも多いことだろう。しかしながら、失敗とか回り道、空振りとかいうのも、長い目で見ると、案外そうでないことが多い。その時にできた友人、知己や温めた知識、経験が、後で役に立って生きてくることがあるのである。
●人脈を広げるには自分を高める必要がある
読書とともに、サラリーマンなどが投資しておくべきことは、自分を高めてくれる人脈作りである。
人脈がなぜ大切かというと、よい人と付き合えば、自分の器量を大きくしてくれるし、自分の能力を何倍かに高めてくれるからである。
人間一人の能力は限られている。人脈を広げて、いろいろな人とつながりを結んでいれば情報は入るし、その人のコネクションでいろいろな人も紹介してもらえる。問題解決のための知恵も貸してくれる。人脈をどれだけ持っているかは、その人の能力でもあるわけだ。
ただ、編集子のいう人脈とは単に、友人や知己が多いというのとは違う。その友人や知己がどれだけ自分にとって啓発的であり、自分に力を貸してくれる人たちであるかということである。
会社に長く勤めている人なら、社内や取引先にたくさんの仲間や友人ができる。ところが、ポストが換わったり、転職したり、退職してしまうと、この社内人脈はあらかた消滅する運命にある。だから、会社関係の人脈ははかないことを承知しておくべきだろう。遊び仲間というのも、遊び以外は役に立たない場合が多い。
一方、長い人生の範囲で考え、会社の軸とは関係ない人脈を作っておけば、そのネットワークは自分個人に帰属するから、転職しようと、退職しようと永続する。
学生時代の親友などは、苦楽をともにした過去を共有しているので心が結び合っているのに比べて、学校を卒業すると、なかなか純粋な友を作る機会がないものだ。社会に出てからは、特に意識的に努力して、そういう友人、知己を作っていくことが大切になる。
そこで、社会人が人脈を広げるためには、自分を高めることが必要となる。人間というものは大概、横並びに集まるもので、同じ程度の相互扶助能力のある人が集まる。
従って、自分の人間の幅が大きくなったぶん、それなりの人と付き合うことができるようになるというものだ。
あなたの人柄がよく、相互扶助能力があれば、黙っていても人はあなたの評判を聞いて近づいてくる。また、いろいろな人が喜んで、他の人を紹介してくれるものだ。
結局、人脈を広げようとする人間は、周囲と調和できる人格を持っていなければならないことになる。周りから信頼もされず、反感を持たれている人物には、誰も近づいてくるものではないだろう。
人間というものは、周囲と調和できるのが自然で、調和できないのは自意識が強すぎ、我が強すぎるからだ。本当に自己を生かす者は、我が強くては駄目である。
我の強い者は依怙地(いこじ)である。他と調和するには、我に執着しすぎる。自分を生かすためには他をやっつけることを辞さない。素直になり切れない。自分さえよければいいは、実は一番自分のためにならないのだが、今の時代では、引っ込んでばかりいると生活ができない。どうしても、がむしゃらにならないと生きてゆけない面がある。
例えば、朝夕の満員電車に乗り込むようなもので、他人に譲ってばかりいては、自分の約束も守れない。自分の義務も果たせないということになる。どうしてもある程度は、他人を押しのけて、自分を生かす必要がある。
だから、この世に生きてゆくには、時に我の強い者が、得をするのは事実で、人がよすぎては、社会的敗残者になってしまう場合もある。他人に譲ってばかりいては生活できないから、適当な我がなければならない。
●周囲と調和できる人格を持つことについて
しかし、我が弱すぎるのも困るが、強すぎるのも困る。当人も困るが、周囲がなお困る。そして、はたから反感を持たれ、ついひねくれることになる。
何事も程度問題だが、我が強すぎて、他のことはわからないという人がある。そこまでゆかない人でも、自力ばかりを頼って、自分の世界に入り込んで、他の世界を拒絶する傾向の人がいる。
自分の自力で、何でも解決できると思う。その結果、自力以外を信ぜず、他人の他力の世界を認めなくなる。
ともかく、人間は自力だけでは救われないもので、人間が自己を救おうと思うには、他力によらなければならないのだ。
一番簡単な他力である他人の助力についてみても、他人から嫌われる人、信用されない人、愛想をつかされる人などは、幸福にはなれない。その反対に、多くの人から愛されることは幸せであり、生きる喜びを得る。
やはり、人間はともに生き、ともに生かし合うことが必要なのである。
一例を挙げれば、あの太陽が燃えているのは、太陽自体が燃えているのではなく、周囲の作用で水素の核融合反応を起こして、燃焼しているのである。宇宙に存在するすべてのものは、何一つ独立し、孤立して存在しているものではなく、互いに相関し、助け合って全宇宙の中のものとして、宇宙と一体で現象しているのである。
ここに示した宇宙の全体性原理は、そのまま世の中の動きも、互いに相関し合っているもので、その相関する力なしには、存在も現象もあり得ないものだ、ということである。
人間は各人別々、互いにバラバラに、自分と他と区別するが、区別は同時に関係ということであるから、世の中一般は、この関係を生かし、ともに生きること、互いに生かし合うことが、宇宙の原理に従うわけである。
宇宙には、何一つ同じものはなく、人間にしても決して同じ人間は二人といないのである。
人間にはすべて、長所があり、短所のあるもので、すべてが性格を異にしているが、実は、人間相互の長短と差異が、お互いに引き合う力となるのである。このことをお互いに心して、生かし合いたいものである。
「彼はエゴイストだ」、「彼女は利己主義者だ」といって他人に嫌われ、愛想をつかされたならば、自分が損するにちがいない。物質的にも、精神的にも、他人に嫌われて得をするわけはない。
しかし、そんなことを考える余裕もないほど、利欲心の強い人が存在する。そういう人が不幸になる時、自業自得といわれるのも致し方ないところである。
●楽しい気性を養ってつながる人間関係
自己性が強いと、それはみな欲になってしまう。悠々として、自然作用的な「気」を豊かにして生きていけば、好き嫌いや疎むということもない。いかなることがあっても、人と人との和を欠くようなことはない。
人間は、動物や植物に対しても、何となく気に入らぬ、気に食わぬということがある。気に入って、好きでたまらなくなることもある。
同じ人間に対しても、気に入る、何となく気に掛かる、そして気が合う、気遣うなど、人間関係のジョイントとしての「気」の効用をいう言葉を使う。反対に、はじめからどうも気が合わぬ、気が染まぬ、気兼ねするなどということもあって、出雲の神の気をもませることもある。
すべては普遍的な「気」の働きなのであって、宇宙の森羅万象とも「気」によってつながっているのである。「気」でつながるとは、肉体でこそ知り得る味で、自己意識の強い人には、この味は体得できない。
人間は生まれてから死ぬまで、「気」のお世話になっているのに、その醍醐味(だいごみ)に気づかずにいる人は不幸である。
人間は本来、おのおの「気」でつながるべきもの。「気」を働かせるコツは、相手が黙っていてもその「気」を察し、「気」を合わせて、相手の望むように振る舞うことである。
ところが、現代人は「気」でなしに物でつながる。金でつながる。権力でつながる。趣味でつながるのは、まだしも上等の部類に入れねばならない。
口先では「気が合う」などといっても、その「気」と称するものが多分に意識的な、社交辞令的なものであることも多い。何よりも「気」というものについての認識が欠如しているから、聞きかじりの言葉として使われているような気味合いもある。
人間の内なる世界と、外なる自然との統合はもとより、肉体と精神との根源的統一も、「気」が存在するからこそ可能なのである。
人間の腹には、宇宙から吸収された「気」がプールされている無意識層がある。昔から臍下丹田を気海というが、活力の源泉はすべて、そこから湧き出すものである。胸中に「気」を集めず、丹田に「気」を集めるよう心掛ければ、自然に「気」が養われてくる。
そして、この「気」の流れ、「気」の交換というものは、肉体の健康、家庭生活、社会生活の中で最も大きな価値を持っているものである。
人脈を広げようとする人間ならば、「気分のいい人」とか、「気性がいい人」だとかというように、人は天候、気候と同じように気性に支配されることが大きいから、楽しい気性を養わなくてはいけない。楽しい気性を養えば、人のよいところが見えてくる。
世に、君子に対するに、小人という言葉を使う。君子とは人のよいところのみを見る人、小人とは人の悪いところのみを見る人だともいう。やはり我々は普通、人を悪く見ることのほうが多くて、よいところというのはなかなか見えないものだから、日頃の心得、人格修養のポイントと考えてもいいのではないか。
いい人と付き合う、あるいはすべての人のいいところのみ見ていくということを、今後の指針としていく人は、おのずと人脈も広がっていくはずである。
人脈が広がり、異質の人を受け入れた場合、そのぶん失敗や回り道や空振りも多いことだろう。しかしながら、失敗とか回り道、空振りとかいうのも、長い目で見ると、案外そうでないことが多い。その時にできた友人、知己や温めた知識、経験が、後で役に立って生きてくることがあるのである。