■自分を押し出す強気 [強気と勝気と弱気]
強気の人間、勝気の人間、弱気の人間
最初に、人間の性格を扱う時、子供時代に作られる性格、すなわち狭義の性格、または気性を重要視し、これを気の強い「強気」、負けん気の強い「勝気」、気の弱い「弱気」に分類する心理学上の立場があるので、それぞれの性格特性を示してみる。
ただし、強気、勝気、弱気の三タイプの類型に分けるといっても、実は人間誰しも多かれ少なかれ、このすべての要素を持っている。だから、とりわけ強気の要素の多い者を強気、勝気の傾向の強い者を勝気、弱気に傾く者を弱気と称するのだ。
強気の人間の特徴は、大要、次のようになる。
1.はなはだ強気で、他人に負けていない。虚勢を張るわけではない。
2.他人との付き合いはするが、なかなか人を信用せず、疑いやすい。気軽に交際できる友人も少なく、敬遠されがちである。
3.気分の朗らかな時に限らず、常に「自分は偉い」とか、「自分は価値ある人間だ」などと思う傾向がある。
4.将来のことを強気に考え、固い信念を持つ。
5.自分に都合のいいように物事を考えやすく、身勝手な解釈をしやすい。
6.気分に無関係に、常に活動的で、積極的に物事に取り組む。仕事も手早いので、人に頼まず自らやってしまうことが多い。
7.「自分はこう思う」、「自分がやる」というように、自分を持ち出す傾向がある。
8.利己的で欲が深い。
9.自分なりの考えを持っていて、簡単に他人のいうなりにならない。「こちらが正しく、相手が間違っている」と判断すると、徹底的に相手をやっつける。
10.神経質とか潔癖というわけではないが、その考え方は非常に硬い。
勝気の人間の特徴は、大要、次のようになる。
1.我がままで、自分本位の考え方をする。
2.勝気で、悔しがり屋で、非常に負けず嫌い。
3.自分を実際以上に見せようとする傾向がある。
4.派手好みで、「華やかで社交的な人」という印象を他人に与える。
5.うそつきの傾向がある。
6.芝居じみた態度で、表情や話が大げさになりがちで、体の調子の悪いことなどを誇張して話してしまう。
7.人に暗示されやすく、他人にいわれるとすぐその気になる。他人の意見に左右されやすいのだ。
8.気に入らないことがあると、すぐに乱暴をしたり、泣きわめいたりする。嫌なことがあったり、嫌な物を見たりすると、気持ちが悪くなる傾きがある。
9.人の好き嫌いが激しい一方、他人を当てにして、寄り掛かろうとする気分が強い。
10.おしゃべりではあるが、感情は冷たい。自分が皆にもてはやされないと面白くなく友人や知人の成功をねたましく思う。
弱気の人間の特徴は、あらまし、次のようになる。
1.体に対して、ことさら神経を使い、病気を気にする。不愉快なことがあったり、神経を使うことがあった際には、おなかの具合が悪くなったりする。
2.弱気で、物事を悲観的に考えやすく、「人より劣っている」という気持ちがある。
3.事をする時、何事にもあれこれと迷って、なかなか決心がつかない。
4.考えたくないことが頭にこびりつく。
5.つまらない物事、例えば、とがった物、広い場所、顔が赤くなることなどを怖がる。食べ物にゴミがついていたり、他人が触れたりすると、食べられない。
6.他人に対して自分のやった行為や、他人からいわれたことを気にしやすく、いつまでも気に掛ける。
7.何かで失敗した時には、その原因が自分にあるように思ってしまうし、何をやっても「十分にやれた」という感じがしない。
8.うまくゆかなかったことを、いつまでも愚痴っぽくこぼし、くよくよする。
9.意志が弱くて、少し難しいことにぶつかるとへこたれてしまい、長続きしない。
10.他人が自分のことをどう考えているかを気にし、また、他人の気受けを気にしてしまって、当然いうべきことも、いいそびれてしまう。
強気の人間は自信満々で自分を押し出す
まずは、強気の人間についての解説である。
この強気の特徴は、自我の強さだ。自信満々で、すべての点で自分を押し出す。強気の人間のうちには、絶対に敗北を認めようとせずに闘争を続ける闘争型のタイプがあり、あくまでも理想を追求してゆく理想型のタイプもある。
概して、強気の人間は危機的状況に当面しても、簡単にくじけてしまうことがない。固い信念と満々たる自信が彼の行動を支えているため、逆境に陥り、苦境に立っても、積極的に乗り越えようと奮い立ち、「いつか何とかなる」と信じて頑張り抜く。
こんな彼の頭に一つの考えが一度定着すると、周囲が改めさせるのはかなり困難である。「自分は正しいのだ」、「自分の今までやってきたことに誤りはなかったし、これからやろうとすることも間違いがないのだ」という強い考えを中心に、彼の生活は回転している。
従って、他人にあることを全面的に任せるということができず、何でも自分でやろうとする。物事がうまくゆかぬ場合には、「自分が無力なためではなく、他人が妨害したのだ」と解釈するだろう。
強気の人間は、自我が強いから、出しゃばりである。「おれが、おれが」と他人を押しのけ、自分の考えを押しつけようとする。
創業期にある企業のリーダーとか、小企業のワンマン社長などによく見受けられるタイプであり、この型の人間が知能に恵まれていれば、部下は安んじてついていくことができる。
不機嫌な時には取りつく島がないように見えても、判断は迅速で、果断で勇気があり、「信じていれば間違いない、頼もしい人物」という信頼感を皆に与えている。
実際、強気型の人間は、部下に相談したり、意見を聞いたりはしない。会議を開いたとしても、社員の衆知を集めて評議する場ではなく、単に上意下達の機会にすぎない。すべては、中心人物である彼の思う通りに決定されていく。
それでも、強気な彼の頭がさえ、判断力が鈍っていなければ、強い統率力のもとに運営されて企業経営はスムーズに進行するが、識見もなく、知能も低い強気型の人物が上に立っては、好ましくない面ばかりが浮き上がってきてしまう。
身勝手、強引、専制的、高圧的、人間不信、向こう見ず、横柄、高慢といった一連の特性が彼の中に見られ、「徳望のない、気ばかり強い人物」という印象しか与えず、部下からも敬遠されることになる。
一般的にいって、強気の人間は、あまり人に愛されない。家族からも孤立しがちで、友人、知人からも敬遠されやすい。デリケートな感覚とは無縁で、人の気持ちをくみ取るということも下手であり、人に対する態度や会話の内容にも上品な感じ、洗練された雰囲気は期待できない。
この型の人物が能力的に優れていたり、権力を持っていたりすると、そのために追従し、時には迎合する者がいても、彼自身に人間的魅力を覚える人はまれであろう。
強気の人間はまた、抗争的で攻撃的である。「自分のほうが正しく、相手が間違っている」と思っても、それを主張するのを遠慮するということも処世術の一つだが、強気の人物には望めない。自分の正しさが認められないとなれば、躍起になって正当性を主張しないと、彼の気がすまない。
そして、強気の人間には、他人に対する嫉妬(しっと)心、愛情、憎悪などを激しく持ち続ける傾向が認められる。「あの人は自分に好意的だ」などと一度、自分に都合のいいように思い込むと、考え直すのは非常に困難なために、大変な迷惑を被る人も出てくるということになる。
同じ強気の人間であっても、その強気の要素の多少によって違いも見られるところだ。
例えば、純粋の強気の人間は、劣等感など持たない。自信満々であって、優越感を抱き、自分が他人に劣っているとは考えない。思うようにならない時、不快を感じ、怒りを抱き、あくまで闘争に赴こうとする。
弱気の要素も持つ強気の場合は、劣等感があるために、強気は特に激しいものとなる。あんこに塩を入れることによって、甘味が強くなるようなものであって、劣等感ゆえに攻撃性を示すことがあり、暴力に走ることもある。
恐怖や不安を与えるようなものは、強気の彼を攻撃的にする。不安に対する攻撃反応は、この性格型の人間の特徴といえる。
最初に、人間の性格を扱う時、子供時代に作られる性格、すなわち狭義の性格、または気性を重要視し、これを気の強い「強気」、負けん気の強い「勝気」、気の弱い「弱気」に分類する心理学上の立場があるので、それぞれの性格特性を示してみる。
ただし、強気、勝気、弱気の三タイプの類型に分けるといっても、実は人間誰しも多かれ少なかれ、このすべての要素を持っている。だから、とりわけ強気の要素の多い者を強気、勝気の傾向の強い者を勝気、弱気に傾く者を弱気と称するのだ。
強気の人間の特徴は、大要、次のようになる。
1.はなはだ強気で、他人に負けていない。虚勢を張るわけではない。
2.他人との付き合いはするが、なかなか人を信用せず、疑いやすい。気軽に交際できる友人も少なく、敬遠されがちである。
3.気分の朗らかな時に限らず、常に「自分は偉い」とか、「自分は価値ある人間だ」などと思う傾向がある。
4.将来のことを強気に考え、固い信念を持つ。
5.自分に都合のいいように物事を考えやすく、身勝手な解釈をしやすい。
6.気分に無関係に、常に活動的で、積極的に物事に取り組む。仕事も手早いので、人に頼まず自らやってしまうことが多い。
7.「自分はこう思う」、「自分がやる」というように、自分を持ち出す傾向がある。
8.利己的で欲が深い。
9.自分なりの考えを持っていて、簡単に他人のいうなりにならない。「こちらが正しく、相手が間違っている」と判断すると、徹底的に相手をやっつける。
10.神経質とか潔癖というわけではないが、その考え方は非常に硬い。
勝気の人間の特徴は、大要、次のようになる。
1.我がままで、自分本位の考え方をする。
2.勝気で、悔しがり屋で、非常に負けず嫌い。
3.自分を実際以上に見せようとする傾向がある。
4.派手好みで、「華やかで社交的な人」という印象を他人に与える。
5.うそつきの傾向がある。
6.芝居じみた態度で、表情や話が大げさになりがちで、体の調子の悪いことなどを誇張して話してしまう。
7.人に暗示されやすく、他人にいわれるとすぐその気になる。他人の意見に左右されやすいのだ。
8.気に入らないことがあると、すぐに乱暴をしたり、泣きわめいたりする。嫌なことがあったり、嫌な物を見たりすると、気持ちが悪くなる傾きがある。
9.人の好き嫌いが激しい一方、他人を当てにして、寄り掛かろうとする気分が強い。
10.おしゃべりではあるが、感情は冷たい。自分が皆にもてはやされないと面白くなく友人や知人の成功をねたましく思う。
弱気の人間の特徴は、あらまし、次のようになる。
1.体に対して、ことさら神経を使い、病気を気にする。不愉快なことがあったり、神経を使うことがあった際には、おなかの具合が悪くなったりする。
2.弱気で、物事を悲観的に考えやすく、「人より劣っている」という気持ちがある。
3.事をする時、何事にもあれこれと迷って、なかなか決心がつかない。
4.考えたくないことが頭にこびりつく。
5.つまらない物事、例えば、とがった物、広い場所、顔が赤くなることなどを怖がる。食べ物にゴミがついていたり、他人が触れたりすると、食べられない。
6.他人に対して自分のやった行為や、他人からいわれたことを気にしやすく、いつまでも気に掛ける。
7.何かで失敗した時には、その原因が自分にあるように思ってしまうし、何をやっても「十分にやれた」という感じがしない。
8.うまくゆかなかったことを、いつまでも愚痴っぽくこぼし、くよくよする。
9.意志が弱くて、少し難しいことにぶつかるとへこたれてしまい、長続きしない。
10.他人が自分のことをどう考えているかを気にし、また、他人の気受けを気にしてしまって、当然いうべきことも、いいそびれてしまう。
強気の人間は自信満々で自分を押し出す
まずは、強気の人間についての解説である。
この強気の特徴は、自我の強さだ。自信満々で、すべての点で自分を押し出す。強気の人間のうちには、絶対に敗北を認めようとせずに闘争を続ける闘争型のタイプがあり、あくまでも理想を追求してゆく理想型のタイプもある。
概して、強気の人間は危機的状況に当面しても、簡単にくじけてしまうことがない。固い信念と満々たる自信が彼の行動を支えているため、逆境に陥り、苦境に立っても、積極的に乗り越えようと奮い立ち、「いつか何とかなる」と信じて頑張り抜く。
こんな彼の頭に一つの考えが一度定着すると、周囲が改めさせるのはかなり困難である。「自分は正しいのだ」、「自分の今までやってきたことに誤りはなかったし、これからやろうとすることも間違いがないのだ」という強い考えを中心に、彼の生活は回転している。
従って、他人にあることを全面的に任せるということができず、何でも自分でやろうとする。物事がうまくゆかぬ場合には、「自分が無力なためではなく、他人が妨害したのだ」と解釈するだろう。
強気の人間は、自我が強いから、出しゃばりである。「おれが、おれが」と他人を押しのけ、自分の考えを押しつけようとする。
創業期にある企業のリーダーとか、小企業のワンマン社長などによく見受けられるタイプであり、この型の人間が知能に恵まれていれば、部下は安んじてついていくことができる。
不機嫌な時には取りつく島がないように見えても、判断は迅速で、果断で勇気があり、「信じていれば間違いない、頼もしい人物」という信頼感を皆に与えている。
実際、強気型の人間は、部下に相談したり、意見を聞いたりはしない。会議を開いたとしても、社員の衆知を集めて評議する場ではなく、単に上意下達の機会にすぎない。すべては、中心人物である彼の思う通りに決定されていく。
それでも、強気な彼の頭がさえ、判断力が鈍っていなければ、強い統率力のもとに運営されて企業経営はスムーズに進行するが、識見もなく、知能も低い強気型の人物が上に立っては、好ましくない面ばかりが浮き上がってきてしまう。
身勝手、強引、専制的、高圧的、人間不信、向こう見ず、横柄、高慢といった一連の特性が彼の中に見られ、「徳望のない、気ばかり強い人物」という印象しか与えず、部下からも敬遠されることになる。
一般的にいって、強気の人間は、あまり人に愛されない。家族からも孤立しがちで、友人、知人からも敬遠されやすい。デリケートな感覚とは無縁で、人の気持ちをくみ取るということも下手であり、人に対する態度や会話の内容にも上品な感じ、洗練された雰囲気は期待できない。
この型の人物が能力的に優れていたり、権力を持っていたりすると、そのために追従し、時には迎合する者がいても、彼自身に人間的魅力を覚える人はまれであろう。
強気の人間はまた、抗争的で攻撃的である。「自分のほうが正しく、相手が間違っている」と思っても、それを主張するのを遠慮するということも処世術の一つだが、強気の人物には望めない。自分の正しさが認められないとなれば、躍起になって正当性を主張しないと、彼の気がすまない。
そして、強気の人間には、他人に対する嫉妬(しっと)心、愛情、憎悪などを激しく持ち続ける傾向が認められる。「あの人は自分に好意的だ」などと一度、自分に都合のいいように思い込むと、考え直すのは非常に困難なために、大変な迷惑を被る人も出てくるということになる。
同じ強気の人間であっても、その強気の要素の多少によって違いも見られるところだ。
例えば、純粋の強気の人間は、劣等感など持たない。自信満々であって、優越感を抱き、自分が他人に劣っているとは考えない。思うようにならない時、不快を感じ、怒りを抱き、あくまで闘争に赴こうとする。
弱気の要素も持つ強気の場合は、劣等感があるために、強気は特に激しいものとなる。あんこに塩を入れることによって、甘味が強くなるようなものであって、劣等感ゆえに攻撃性を示すことがあり、暴力に走ることもある。
恐怖や不安を与えるようなものは、強気の彼を攻撃的にする。不安に対する攻撃反応は、この性格型の人間の特徴といえる。
■見えを張る勝気 [強気と勝気と弱気]
勝気の人間は派手好きで見えっ張り
次は、勝気の人間の解説に移る。
この勝気型の性格というのは、心理学においてはヒステリー性性格、または顕示性性格ともいわれているものだ。
勝気の人間は、強気の人間に似て積極的ではある。だが、我が強いだけで、真に自信があるわけではなくて、上辺をてらい、背伸びをする。自己中心的でありながら、他人に暗示されやすく、人のいうままになることも多い。
派手好きで、見えっ張りといった特徴を持つ性格であるから、控えめに振る舞うよりはパッと目立つことを望み、我慢して耐えることよりもオーバーに発散することを好む。時に何かしら華やかで、にぎやかな雰囲気も漂わせている。
その勝気型の人間が一人で黙って仕事をしている姿を想像するのより、いく人かの人々に取り囲まれ、朗らかに談笑している姿を思い浮かべることのほうがはるかに簡単である。
談笑といっても、彼がニコニコと笑って聞いているのではない。その場の中心にいて、話して聞かせているのである。そんな時の彼は、きわめて幸福そうで得意満面である。
会話はなかなか気がきいていて、教養ありげに見える。浅くても広い知識、誰かの受け売りであっても、新しい話題の一つや二つをいつも用意している。特に最近、評判になった小説や映画、あるいはスポーツなどについては、どこで仕入れたのか、専門的な批評もすれば、細かな裏話にも通じている。
その上、彼の話術は巧みである。時々、気のきいたユーモアや、流行しているテレビのコマーシャルなどの要素をさりげなく入れ、大仰なゼスチャーも身につけている。
顔の表情も豊かであり、全体として知的で利口そうに見える。周りの者が彼の話に聞きほれていればご満悦で、相づちを打ったり、彼が期待しているような質問をしてくれれば、ますます上機嫌になる。
勝気型の人物の第一印象は、ざっと以上のようなものだ。社交性も目立つ特徴であり、それに若干の虚飾が加わっている。
調子よく、幸福そうであるが、話の内容には不思議に彼自身のこと、しかもその自慢話が多い。名家の出だとか、東大の出身だとかいうことが、別に聞きたいとも思っていない人に対しても、度々、繰り返して語られる。
自分についての話題が展開していく中で、その内容には時々、うそが混入する。背伸びや誇張はしばしばであるし、大仰に感情を表現したりもする。友達の一人に聞いた話をさも自分の体験談のように、ほかの人に話すこともある。
勝気型性格者の誇張癖のある会話には、酒飲みが好機嫌で話すような無邪気で、たわいない自慢話とは違う印象を受ける。自分が苦労したこと、皆に感謝されていること、自分の才能が優れていることなどを無理にでも相手に認めさせ、敬意を払ってもらおうとする、執念のようなものすら感じられるのである。
「周囲に注目されたい。皆にほめそやされたい」という望みは誰でもが持っているが、自己顕示性を特徴とする勝気の者は、それがきわめて強いのである。
弱者にいばり、強者に迎合する性向
常に、優位に立って相手に望もうとするのが勝気の人間ではあるが、危険を感じた時、また不安に駆られる時には虚勢を張る。弱い犬がほえて強く見せようとする場合のような一種の偽態であり、弱いにもかかわらず、強いように見せることによって危険に対処する。
この性格の人間は、弱いと思う相手や目下の者には圧力を加えたり、いばりながら、強い相手や目上の人間には迎合し、恭順を示す。低姿勢の態度によって、強者の同情を求め、攻撃を避ける。誰が権力者で、何が時代の動向であるかといったことを敏感に察知し、「いつでも日の当たるところにいたい」と願う。
加えて、この型の人間は概して、人の好き嫌いが激しい。自分を受け入れ、自分を称賛してくれる、いわゆる取り巻きと、「自分の心の内側を知っているのではないか」と、不安の念を持たざるを得ないような苦手というものを区別している。
苦手の人には心の底を見通されないように用心する一方、裏に回ると盛んにその人物の悪口をいう。上司に取り入って、同僚のことを中傷するようなことを平気でいったり、したりするのである。
「多くの人から尊敬と注視を浴びたい」と思っている者にとって、最大の脅威は自分より実力のある者が身近に出現することである。けちをつける、中傷する、故意に無視するという一連の反応が、ここにおいて展開する。
彼らは一般に、自分の非を認めない。思い通りにいかない時、彼は「自分の能力が十分でなかった」、「自分のやり方が悪かった」というように、自分の側にその原因があったとは解さないで、「相手が自分に意地悪をした」、「誰かが自分を悪くいった」と思いがちである。
そして、いよいよ自分の立場が悪くなると、「風邪を引いた」、「腰が痛む」などといって、結果的には具合よく病気になってしまって、病気の中に逃避してしまう。
勝気型の性格者には、誠実さというものがない。華やかではあるが、どこか暗く、温かそうでいて意外に冷たく、にぎやかなようでいて孤独である。
彼を利用する者、彼にへつらう者はいても、心の通い合う友人はいない。他人の中にある自分の評判を気にし、真の自分自身を見詰められない、むなしさと焦りとがある。
一見、社交的で、親切そうにも思える。時には、実際に面倒も見てくれる。しかし、こんな時にも、彼らは親切にしてやったことを忘れない。「自分はあの人に情けを掛けてやったのだ」、としゃべりまくる。素朴な人のよさとか誠実さというものと、彼らは最も無縁である。
さて、先の強気の場合と同様に、同じ勝気の人間においても、その勝気の要素の多少によって、性格の違いも認められるところだ。
純粋の勝気の場合は、外向的で、行動的であって、不安を感ずることがない。火事など騒がしいことが街で起こっているという時、極端に勝気の人間は、つまずくことを恐れずに飛び出す。このような性格の者は、劣等感を持つことがない。
弱気の混入した勝気の場合は、弱気があるため、かえって勝気の持つ虚栄心はいちじるしくなる。自分を実際より強く、また、よく見せようとする自己誇示的な傾向が強まって、劣等感を補おうとする。
逆に、強い者には自分を弱く見せたり、甘えたりして、その擁護のもとで危険を避け、安心を得ようとするため、劣等感を持つ子は親に甘え、成長してからは夫や妻に特別の愛着を持ち、先輩や教師にも甘えることがある。
結局のところ、勝気の人間というのは、大人になり切れない、未成熟な性格の持ち主といえるだろう。
次は、勝気の人間の解説に移る。
この勝気型の性格というのは、心理学においてはヒステリー性性格、または顕示性性格ともいわれているものだ。
勝気の人間は、強気の人間に似て積極的ではある。だが、我が強いだけで、真に自信があるわけではなくて、上辺をてらい、背伸びをする。自己中心的でありながら、他人に暗示されやすく、人のいうままになることも多い。
派手好きで、見えっ張りといった特徴を持つ性格であるから、控えめに振る舞うよりはパッと目立つことを望み、我慢して耐えることよりもオーバーに発散することを好む。時に何かしら華やかで、にぎやかな雰囲気も漂わせている。
その勝気型の人間が一人で黙って仕事をしている姿を想像するのより、いく人かの人々に取り囲まれ、朗らかに談笑している姿を思い浮かべることのほうがはるかに簡単である。
談笑といっても、彼がニコニコと笑って聞いているのではない。その場の中心にいて、話して聞かせているのである。そんな時の彼は、きわめて幸福そうで得意満面である。
会話はなかなか気がきいていて、教養ありげに見える。浅くても広い知識、誰かの受け売りであっても、新しい話題の一つや二つをいつも用意している。特に最近、評判になった小説や映画、あるいはスポーツなどについては、どこで仕入れたのか、専門的な批評もすれば、細かな裏話にも通じている。
その上、彼の話術は巧みである。時々、気のきいたユーモアや、流行しているテレビのコマーシャルなどの要素をさりげなく入れ、大仰なゼスチャーも身につけている。
顔の表情も豊かであり、全体として知的で利口そうに見える。周りの者が彼の話に聞きほれていればご満悦で、相づちを打ったり、彼が期待しているような質問をしてくれれば、ますます上機嫌になる。
勝気型の人物の第一印象は、ざっと以上のようなものだ。社交性も目立つ特徴であり、それに若干の虚飾が加わっている。
調子よく、幸福そうであるが、話の内容には不思議に彼自身のこと、しかもその自慢話が多い。名家の出だとか、東大の出身だとかいうことが、別に聞きたいとも思っていない人に対しても、度々、繰り返して語られる。
自分についての話題が展開していく中で、その内容には時々、うそが混入する。背伸びや誇張はしばしばであるし、大仰に感情を表現したりもする。友達の一人に聞いた話をさも自分の体験談のように、ほかの人に話すこともある。
勝気型性格者の誇張癖のある会話には、酒飲みが好機嫌で話すような無邪気で、たわいない自慢話とは違う印象を受ける。自分が苦労したこと、皆に感謝されていること、自分の才能が優れていることなどを無理にでも相手に認めさせ、敬意を払ってもらおうとする、執念のようなものすら感じられるのである。
「周囲に注目されたい。皆にほめそやされたい」という望みは誰でもが持っているが、自己顕示性を特徴とする勝気の者は、それがきわめて強いのである。
弱者にいばり、強者に迎合する性向
常に、優位に立って相手に望もうとするのが勝気の人間ではあるが、危険を感じた時、また不安に駆られる時には虚勢を張る。弱い犬がほえて強く見せようとする場合のような一種の偽態であり、弱いにもかかわらず、強いように見せることによって危険に対処する。
この性格の人間は、弱いと思う相手や目下の者には圧力を加えたり、いばりながら、強い相手や目上の人間には迎合し、恭順を示す。低姿勢の態度によって、強者の同情を求め、攻撃を避ける。誰が権力者で、何が時代の動向であるかといったことを敏感に察知し、「いつでも日の当たるところにいたい」と願う。
加えて、この型の人間は概して、人の好き嫌いが激しい。自分を受け入れ、自分を称賛してくれる、いわゆる取り巻きと、「自分の心の内側を知っているのではないか」と、不安の念を持たざるを得ないような苦手というものを区別している。
苦手の人には心の底を見通されないように用心する一方、裏に回ると盛んにその人物の悪口をいう。上司に取り入って、同僚のことを中傷するようなことを平気でいったり、したりするのである。
「多くの人から尊敬と注視を浴びたい」と思っている者にとって、最大の脅威は自分より実力のある者が身近に出現することである。けちをつける、中傷する、故意に無視するという一連の反応が、ここにおいて展開する。
彼らは一般に、自分の非を認めない。思い通りにいかない時、彼は「自分の能力が十分でなかった」、「自分のやり方が悪かった」というように、自分の側にその原因があったとは解さないで、「相手が自分に意地悪をした」、「誰かが自分を悪くいった」と思いがちである。
そして、いよいよ自分の立場が悪くなると、「風邪を引いた」、「腰が痛む」などといって、結果的には具合よく病気になってしまって、病気の中に逃避してしまう。
勝気型の性格者には、誠実さというものがない。華やかではあるが、どこか暗く、温かそうでいて意外に冷たく、にぎやかなようでいて孤独である。
彼を利用する者、彼にへつらう者はいても、心の通い合う友人はいない。他人の中にある自分の評判を気にし、真の自分自身を見詰められない、むなしさと焦りとがある。
一見、社交的で、親切そうにも思える。時には、実際に面倒も見てくれる。しかし、こんな時にも、彼らは親切にしてやったことを忘れない。「自分はあの人に情けを掛けてやったのだ」、としゃべりまくる。素朴な人のよさとか誠実さというものと、彼らは最も無縁である。
さて、先の強気の場合と同様に、同じ勝気の人間においても、その勝気の要素の多少によって、性格の違いも認められるところだ。
純粋の勝気の場合は、外向的で、行動的であって、不安を感ずることがない。火事など騒がしいことが街で起こっているという時、極端に勝気の人間は、つまずくことを恐れずに飛び出す。このような性格の者は、劣等感を持つことがない。
弱気の混入した勝気の場合は、弱気があるため、かえって勝気の持つ虚栄心はいちじるしくなる。自分を実際より強く、また、よく見せようとする自己誇示的な傾向が強まって、劣等感を補おうとする。
逆に、強い者には自分を弱く見せたり、甘えたりして、その擁護のもとで危険を避け、安心を得ようとするため、劣等感を持つ子は親に甘え、成長してからは夫や妻に特別の愛着を持ち、先輩や教師にも甘えることがある。
結局のところ、勝気の人間というのは、大人になり切れない、未成熟な性格の持ち主といえるだろう。
■感受性が強い弱気 [強気と勝気と弱気]
弱気の人間は敏感で消極的態度を示す
続いて、弱気に分類される人間について説明する。
概して、弱気の人間は、敏感で、物事に対して警戒しやすい。不安を持ちやすく、恐怖もしやすいので、積極的に事をするのが恐ろしく、すべてに対して消極的態度を示す。生命の危険、社会生活での危険など、自分が脅かされることに対しては、しりごみをし、逃避しようとする。不安に対して逃避反応を起こしやすいのである。
こうした性格特徴を有する弱気というのは、いわゆる神経質な性格のことになる。
神経質という言葉は、本体のはっきりしない多義的なものではあるが、日常の生活でもよく用いられている。「神経質な人」といえば、太っ腹とか豪放とかという感じとは正反対のものであり、どことなく線の細い、やせた体格、血色のよくない顔色、沈みがちな表情、おどおどと落ち着かない視線などが連想される。
その人間の容姿はほぼ共通のものが認識されるにしろ、どんな条件がそろった時に、彼の性格的特徴を神経質というかということは、あまりはっきりしていない。
食べ物のことに必要以上に気を使い、その意味で神経質な人が、対人関係では鈍感で粗暴に振る舞うこともある。また、他人の気持ちばかり気にしている人が、どこででもよく眠り、少しぐらい不衛生なことに平気であるということもある。
かように考えてくると、一口に神経質、あるいは弱気といっても、その特徴はさまざまで共通するものは何もないように見える。だが、よく考えてみると、中心になるいくつかの核のような特徴があって、そこから多くの特徴が派生しているように見ることができる。
弱気の人間の中核になる特徴の第一は、最初にも述べたように、敏感で、感受性が鋭いということ。自分の外側や内側の変化を、敏感に感じ取ってしまうのである。
視力のいい人には、悪い人には見えないような微細なものまで見えてしまう。見ようと思わなくても、見えてしまうのだ。それと同様に、感受性の鋭い人は、ほかの人が気がつかないようなことまで知覚してしまうのである。
「弱気だ。神経質だ」といわれる人には、あまり頭の悪い人はおらず、むしろ優れている場合が多いのは、この感じ取るという心の自然な働きは知能と関連があるからだ。
第二の大きな特徴は、内省過剰だということ。内省とは、自分の心を省みる働きである。失敗したり、うまくいかなかった時に、すぐに他人を非難したり、攻撃したりする傾向を持つ強気や勝気と違って、「落ち度が自分にあったのではないか」と考えてみることが、弱気の人間には多いのである。
そのために、取り越し苦労をしてしまったり、自分の体の調子などを普通の人以上に心配してしまう。あるいは、何かいいたいと思っても、「これをいうと相手は自分のことをどう考えるか」と気にしてしまって、つい、いいそびれてしまうということになりがちなのである。
第三の特徴は、不安を持ちやすいことの当然の結果として、心が不安定になりやすいということ。余裕、平然、泰然、落ち着きといったことの反対で、心のバランスが失われたり、乱されやすくて、動揺しやすいのである。鋭い感受性によって感じ取ったことのために、自分自身が傷ついてしまうのだ。
彼は他人が何気なくいったことを聞き流したり、無関心でいることができずに、いつまでも心を奪われてしまい、悩んだり、苦しんだりするのである。過敏で、考えすぎ、しかも心が不安定になりやすいこと、これが弱気といわれる人間の心理的特徴となる。
従って、弱気の人間は、自分にとって慣れた場所でなら平気でできることも、はじめての場所ではあがってしまったり、初対面の人には気後れがしてしまって、実力が出し切れなかったり、大切な時に失敗をしてしまう性向を持つ。
自分に関心が集中しやすいが、もともとが不安定になりやすいので、結果として弱気になりやすく、「自分は他人より劣っているのではないか」という劣等感にもとりつかれやすい。
強気型の人間が積極的に、強気に行動するのと対照的に、弱気型の人間は万事につけて消極的で、弱気に対処することが多いのである。
万事に消極的だが頼りがいのある人物
世間においては、弱気や神経質というと、あまりよい特徴と考えないだろう。男性の場合は自分でも気にするし、虚勢を張ったりして隠そうとすることもある。「勇気があって活発で、行動力がある」というのを男性的な性格とすると、弱気の人はあまり男らしい性質を備えていないということになる。
しかしながら、人間の性質というのは、かなり生まれつきのもので、特に敏感な感受性という特徴はそうである。確かに、弱気で神経質な人は弱々しい感じがするし、そのことを自分自身でも悩むことが多い。だからといって、自分の性質というものを深刻なまでに否定する必要はなく、矯正しなければならない理由もないだろう。
今、ペンを走らせている私にしてからが、「大弱気」を自称している人間なのだ。むしろ、弱気な人間は、豊かな感受性、デリケートな感覚、良心的で慎重な生活態度など、なかなか得がたい利点をたくさん持っている。
仮に弱気で神経質な人を敵としても、少しも恐ろしくない。彼らは、攻撃的になることがないからである。
一方、彼らを自分の友人、知人とすると、これは実に頼りがいのある、信頼の持てる人物である。親身になって相談に乗ってくれるし、しかもめったに出すぎたことをしないのである。
強気や勝気がいくつかのタイプに分けられたように、弱気もさらに、無力型、強迫型、敏感型の三種のサブ・グループに分ける心理学上の立場もある。
聞けば、無力型の弱気は、純粋の弱気であり、鈍感に傾き、反応も鈍くて、積極的に外部に働き掛けようとしない。また、自分を「精神的に不十分だ」と思い、記憶力とか、注意力についての不全感を持つ。体についての不快をしばしば覚え、「疲れる。眠れない。頭が思い。心臓が苦しい」といったことを訴える者もある。
次の強迫型の弱気は、自信がないために劣等感に捕らえられ、自分の心の中を絶えず探る。不安を起こすようなことが、頭の中に出てきて、抑えつけようがない。良心的で、潔癖な人が多く、ささいなことにこだわるし、しゃくし定規のところがある。表面は利他的であるが、心の奥底には自己中心的なものを秘めることも少なくない。
敏感型の弱気は、感受性が強いのに、これを発散できず、感情のよどみを生じ、心の中に、しこりによる緊張を作るが、抑圧してしまわず、いつまでもくよくよと反復して考える。弱気なので他人との衝突を避けようとするし、人間関係にトゲがないが傷つきやすく、失敗の感じ、罪の感じを持つ。他人に気を使い、控えめな人間でありながら、自尊心もあり、野心もあり、頑固な面もある。
このタイプの代表的人物は、知的で、繊細で、デリケートな感受性を持つ。それでいながら、気骨のある人間で、道徳的で、一生、のんびり暮らすことができない。
常に、「これでよいかどうか」と自分自身を内省し、自己批判をしているからである。強迫型のように、ささいのことに、こだわることがないし、自分の中に引きこもりながら親しみやすい点があるのと、野心を持っているために社会的に成功している者がある。
このように弱気は三種のサブ・グループに分けられるが、これらは近接したものであり、重なり合っている。例えば、無力型に属する「体について神経を使う」という性質と、強迫型に属する「不安が頭にこびりつく」といった性質は、違っているようでありながら、ほかのいかなる性質よりも近く、同一人がその両方の性質を持つ傾向がある。
続いて、弱気に分類される人間について説明する。
概して、弱気の人間は、敏感で、物事に対して警戒しやすい。不安を持ちやすく、恐怖もしやすいので、積極的に事をするのが恐ろしく、すべてに対して消極的態度を示す。生命の危険、社会生活での危険など、自分が脅かされることに対しては、しりごみをし、逃避しようとする。不安に対して逃避反応を起こしやすいのである。
こうした性格特徴を有する弱気というのは、いわゆる神経質な性格のことになる。
神経質という言葉は、本体のはっきりしない多義的なものではあるが、日常の生活でもよく用いられている。「神経質な人」といえば、太っ腹とか豪放とかという感じとは正反対のものであり、どことなく線の細い、やせた体格、血色のよくない顔色、沈みがちな表情、おどおどと落ち着かない視線などが連想される。
その人間の容姿はほぼ共通のものが認識されるにしろ、どんな条件がそろった時に、彼の性格的特徴を神経質というかということは、あまりはっきりしていない。
食べ物のことに必要以上に気を使い、その意味で神経質な人が、対人関係では鈍感で粗暴に振る舞うこともある。また、他人の気持ちばかり気にしている人が、どこででもよく眠り、少しぐらい不衛生なことに平気であるということもある。
かように考えてくると、一口に神経質、あるいは弱気といっても、その特徴はさまざまで共通するものは何もないように見える。だが、よく考えてみると、中心になるいくつかの核のような特徴があって、そこから多くの特徴が派生しているように見ることができる。
弱気の人間の中核になる特徴の第一は、最初にも述べたように、敏感で、感受性が鋭いということ。自分の外側や内側の変化を、敏感に感じ取ってしまうのである。
視力のいい人には、悪い人には見えないような微細なものまで見えてしまう。見ようと思わなくても、見えてしまうのだ。それと同様に、感受性の鋭い人は、ほかの人が気がつかないようなことまで知覚してしまうのである。
「弱気だ。神経質だ」といわれる人には、あまり頭の悪い人はおらず、むしろ優れている場合が多いのは、この感じ取るという心の自然な働きは知能と関連があるからだ。
第二の大きな特徴は、内省過剰だということ。内省とは、自分の心を省みる働きである。失敗したり、うまくいかなかった時に、すぐに他人を非難したり、攻撃したりする傾向を持つ強気や勝気と違って、「落ち度が自分にあったのではないか」と考えてみることが、弱気の人間には多いのである。
そのために、取り越し苦労をしてしまったり、自分の体の調子などを普通の人以上に心配してしまう。あるいは、何かいいたいと思っても、「これをいうと相手は自分のことをどう考えるか」と気にしてしまって、つい、いいそびれてしまうということになりがちなのである。
第三の特徴は、不安を持ちやすいことの当然の結果として、心が不安定になりやすいということ。余裕、平然、泰然、落ち着きといったことの反対で、心のバランスが失われたり、乱されやすくて、動揺しやすいのである。鋭い感受性によって感じ取ったことのために、自分自身が傷ついてしまうのだ。
彼は他人が何気なくいったことを聞き流したり、無関心でいることができずに、いつまでも心を奪われてしまい、悩んだり、苦しんだりするのである。過敏で、考えすぎ、しかも心が不安定になりやすいこと、これが弱気といわれる人間の心理的特徴となる。
従って、弱気の人間は、自分にとって慣れた場所でなら平気でできることも、はじめての場所ではあがってしまったり、初対面の人には気後れがしてしまって、実力が出し切れなかったり、大切な時に失敗をしてしまう性向を持つ。
自分に関心が集中しやすいが、もともとが不安定になりやすいので、結果として弱気になりやすく、「自分は他人より劣っているのではないか」という劣等感にもとりつかれやすい。
強気型の人間が積極的に、強気に行動するのと対照的に、弱気型の人間は万事につけて消極的で、弱気に対処することが多いのである。
万事に消極的だが頼りがいのある人物
世間においては、弱気や神経質というと、あまりよい特徴と考えないだろう。男性の場合は自分でも気にするし、虚勢を張ったりして隠そうとすることもある。「勇気があって活発で、行動力がある」というのを男性的な性格とすると、弱気の人はあまり男らしい性質を備えていないということになる。
しかしながら、人間の性質というのは、かなり生まれつきのもので、特に敏感な感受性という特徴はそうである。確かに、弱気で神経質な人は弱々しい感じがするし、そのことを自分自身でも悩むことが多い。だからといって、自分の性質というものを深刻なまでに否定する必要はなく、矯正しなければならない理由もないだろう。
今、ペンを走らせている私にしてからが、「大弱気」を自称している人間なのだ。むしろ、弱気な人間は、豊かな感受性、デリケートな感覚、良心的で慎重な生活態度など、なかなか得がたい利点をたくさん持っている。
仮に弱気で神経質な人を敵としても、少しも恐ろしくない。彼らは、攻撃的になることがないからである。
一方、彼らを自分の友人、知人とすると、これは実に頼りがいのある、信頼の持てる人物である。親身になって相談に乗ってくれるし、しかもめったに出すぎたことをしないのである。
強気や勝気がいくつかのタイプに分けられたように、弱気もさらに、無力型、強迫型、敏感型の三種のサブ・グループに分ける心理学上の立場もある。
聞けば、無力型の弱気は、純粋の弱気であり、鈍感に傾き、反応も鈍くて、積極的に外部に働き掛けようとしない。また、自分を「精神的に不十分だ」と思い、記憶力とか、注意力についての不全感を持つ。体についての不快をしばしば覚え、「疲れる。眠れない。頭が思い。心臓が苦しい」といったことを訴える者もある。
次の強迫型の弱気は、自信がないために劣等感に捕らえられ、自分の心の中を絶えず探る。不安を起こすようなことが、頭の中に出てきて、抑えつけようがない。良心的で、潔癖な人が多く、ささいなことにこだわるし、しゃくし定規のところがある。表面は利他的であるが、心の奥底には自己中心的なものを秘めることも少なくない。
敏感型の弱気は、感受性が強いのに、これを発散できず、感情のよどみを生じ、心の中に、しこりによる緊張を作るが、抑圧してしまわず、いつまでもくよくよと反復して考える。弱気なので他人との衝突を避けようとするし、人間関係にトゲがないが傷つきやすく、失敗の感じ、罪の感じを持つ。他人に気を使い、控えめな人間でありながら、自尊心もあり、野心もあり、頑固な面もある。
このタイプの代表的人物は、知的で、繊細で、デリケートな感受性を持つ。それでいながら、気骨のある人間で、道徳的で、一生、のんびり暮らすことができない。
常に、「これでよいかどうか」と自分自身を内省し、自己批判をしているからである。強迫型のように、ささいのことに、こだわることがないし、自分の中に引きこもりながら親しみやすい点があるのと、野心を持っているために社会的に成功している者がある。
このように弱気は三種のサブ・グループに分けられるが、これらは近接したものであり、重なり合っている。例えば、無力型に属する「体について神経を使う」という性質と、強迫型に属する「不安が頭にこびりつく」といった性質は、違っているようでありながら、ほかのいかなる性質よりも近く、同一人がその両方の性質を持つ傾向がある。