■やる気を持続する秘訣 [やる気を出す]
■人間の人生は、自分の心の持ち方一つ、やる気一つで、どのようにでも変わる。■
普通の人間、すなわち常人、凡人にとって、「心身は安心立命。人生は日々是好日」とは、なかなか容易にいかないものであろう。
佳日、吉日、よい日があるかと思えば、次の日には影も差す。「よい日が長く続くことは少なく、暗い出来事がことが多い」と感じる人も、少なからずいることだろう。
人生の途中で、あきらめや絶望感にさいなまれ、「もう駄目だ」と弱気になる人も、結構いることだろう。人生の正念場、土壇場に臨んで、「現実は厳しい。この大変なピンチを切り抜けることは、自分には無理だ」、「私には能力がない。自分は駄目な人間なんだなあ」と思って、物事を半ばで投げ出し、断念してしまう人も、世の中には少なくないことだろう。
しかし、実は「無理だ」、「駄目だ」と意識で考えるから、次々に厳しい現実の障害が目の前に現れてきて、前途を妨げ、ついには危機を突破できずに、頭で予想した通り失敗に終わってしまうのである。
もしも、そのような弱気な人間が何らかのきっかけで一念発起し、「自分の人生のために、何としてもでもこの難関を突破し、絶対に目標を達成しよう」と強く決心すると、不思議にも進路に立ちふさがっていた障害が消え、思わぬ援助が出現したりして、やがて目標を達成できるものである。
どんなに山また山が連続する絶望的状況にあろうとも、あるいは、どんなに失意の連続であろうとも、人間には人生を切り開くチャンスが残されていることを理解してもらいたい。
誰もが、やる気という積極的に物事を進めようとする目的意識を起こすこと、そして自信と信念を持って行動することによって、人生をよい方向へ向けることが可能なのである。
春、夏、秋、冬と巡る人生には、いくらでも大きな可能性が残されている。逆転のチャンスが残されている。年齢には、全く関係ない。
「だけどやってみよう」、「必ずやってみせる」という積極的な考えと、燃えるようなやる気がありさえすれば、無限の能力は発揮できる。目標達成情熱を燃やし続け、自信と信念で事に当たれば、どんな奇跡さえも実現できるのである。すべての人には、それを可能にし得る無限の能力が隠されているのである。
つまり、人間の人生は、自分の心の持ち方一つ、やる気一つで、どのようにでも変わるということである。人間には誰にも、能力があり、可能性があるのだ。ただ、「自分にはとてもできない」と頭で思ってしまうから、自らその能力、可能性を殺してしまうわけだ。
そうした能力を備えているにもかかわらず、真の能力を発揮できず、つまらない人生を送っている人々に対して、やる気を喚起し、やる気を燃やすきっかけを与えてみたいと、編集子は念願してきた。
本編は、心の持ち方一つ、積極的な目的意識を意味するやる気一つで人生は変わる、劣等感に沈んでいた人でも前向きで行動的な人間に変身すると、人生そのものが大きく変わり、飛躍、発展ができる、ということを証明するものなのである。
具体的に、仕事や勉強に取り組む場面を考えてみても、ダラダラとやった時よりも、「よし、やるぞ」と積極的に考え、うまくやる気を燃やした時のほうが、能率がグンと上がり、間違いが減ったり、要領もちゃんと覚えられるなど作業の質が違ってくることは、誰にでも体験があることだろう。
■人生そのものから仕事、勉強、スポーツ、対人関係まで、成功のカギを握っているのは、自分の心の持ち方、やる気の出し方だ、といっても過言ではない。■
仕事上の交渉や話し合いといった対人関係の大事な場面を考えてみても、やる気の出し方一つ、気合の入れ方一つで成否が分かれることが、理解できるだろう。
例えば、大事な人との商談に臨む時や、ともすれば圧倒されてしまいそうな大物と会う時なども、自分がやる気になっていたなら、相手に気を飲まれ、委縮することもないはずだ。
仕事や勉強以外の場でも、やる気の出し方次第で、得られる成果が大きく変わってくるのは、当然のこと。異性の前で好意を得たいと願う時や、スポーツの試合で活躍したいと思う時など、やる気がうまく出れば、期待以上の成果を上げることも可能である。
人生そのものから仕事、勉強、スポーツ、対人関係まで、成功のカギを握っているのは、自分の心の持ち方、やる気の出し方だ、といっても過言ではない。
すなわち、人間誰もが自分の人生を思い通りにできる方法は、自らの心構えをある一定の方向へ向け続けること、何があろうとも消極的、悲観的にならずに前を見続けること、情熱の火を消すことなく、事がなるまでやる気を失わず全力で当たること、たったこれだけのことなのである。
積極思考、やる気と情熱の持続など、気持ち、心の有り様が人生を左右し、運命を支配する、といって間違いないのである。
誰もが「必ずやってやる」、「自分にはできる」と考え方を前向きに改め、その心の変化が真なるものであり、それ相応の行動を伴うならば、文字通り運命を自在に操ることが可能となるのである。
■積極的な心構えさえ備わっていれば、必ず行く手は開かれる。やる気の持続さえあれば、やがて事を成し遂げることができる。■
人間の心の有り様、目標の達成や夢の実現に向かって情熱を燃やし続け、やる気を持続することは、人間に大変な力を発揮させるのだ。
格言にも、「一念天に通ず」、「志ある者は事ついに成る」などという。前向きに志をしっかり持ち、心を集中して思いを込めて行えば、どのような事も最後には成し遂げることができる、という意味である。
このように古今から、心の有り様がいかに人間を左右するかについて、さまざまな方向から語られ、記されてきた。そして、これらの格言やことわざは、心の有り様がしっかりと一定の方向に向いていれば、人生は自分の手によって変えていくことができるという、一つの暗示を与えてくれる。
結局、人間が夢を実現させる心の持ち方とは、「私には、できないと」いう否定的な考えを全く心の中から消し去り、「自分に志さえあれば何でも果たせる」という積極的な心構え、やる気に満ち満ちていることである。
どんなことがあろうとも、どんな絶望的状況に陥ろうとも、夢と希望を心の中から消し去ってはいけない。
「今は条件も悪いし、環境も整っていないから不可能だ」などと、あきらめるところに、夢の実現はない。「この程度でいいだろう」と、前に進むことをやめるところに、大きな成功はない。
反対に、どんな過酷な条件にあろうとも、また自分自身に欠けるところがあると感じていても、積極的な心構えさえ備わっていれば、必ず行く手は開かれる。やる気の持続さえあれば、やがて事を成し遂げることができる。
自らを幸せにする能力も、成功に導く力も、自分自身の心の中に潜んでいるのであり、夢の実現や成功の獲得は心の中で作られるということだ。その上、「もう一歩前へと、さらに前進してみよう」と、やる気を日々新たにしていく。そこから、自分の人生が再スタートするということなのである。
■やる気を持ち続けることは容易ではないし、一度失ったやる気を取り戻すのは非常に困難とわかる。■
常に積極的な心構えを保持し、やる気を持続するために努力するとともに、前へ前へと前進しさえすれば、そこに遮るものは何もなく、立ちふさがるものも姿を消す。
だが、イギリスに「言うと成すとの間には長い道がある」という格言があるように、積極的な心構え、やる気を持てば未来が開けると私が説いても、自分の心の有り様や生き方を本気で、転換させようとする人は、少ないかもしれない。夢や希望を持続させれば必ずかなうといわれても、なかなか実行に移さない人も、少なからずいるだろう。
あるいは、やる気や、やむことを知らぬ熱意が夢や希望、願望を達成させるということを理解し、すでに実行してみたものの、「一生懸命、事に当たったが失敗した」、「大変な情熱と熱意で努力したつもりだが、目的は達成されなかった」という人も、中にはいることだろう。
たぶん、彼や彼女が情熱を傾けたのは事実であろうし、熱中したというのも本当のことであろうが、残念なことに、それは持続的なものではなく、一時的なものだったのではなかろうか。
彼らは「やってみよう。やってやるぞ」と、やる気の炎を燃やしたものの、目の前に障害物や困難が出現すると、あまりにも簡単に投げ出し、情熱に水をかけてあっさりと消してしまわなかっただろうか。
実際、やる気を生むことと、やる気を持続させることを比較すると、どちらがむずかしいか。持続させるほうがむずかしいと、ほとんどの人間が考えるに違いない。
四月には、やる気をみなぎらせていたはずの新入社員が、五月には、飲み屋で会社や上司の愚痴をこぼしているといった光景を目にするにつけても、やる気を持ち続けることは容易でないし、一度失ったやる気を取り戻すのは非常に困難とわかる。
■自信こそが、やる気の炎を大きくさせ、夢や希望を簡単に捨て去ることなく、持続させる源泉の一つなのである。■
私たち人間は本来、積極的な人、やる気の人になりたい、あるいは、なれると考えているし、乗り越えるべき課題をやさしいと判断すれば、将来の可能性を大きく予想する。反対に、むずかしいと感じれば、将来の可能性を小さく予測する。
そして、やる気というものは、障害に遭遇した時に失われる。立ちはだかる障害の解決が不可能であると感じた時に、やる気を喪失してしまう。
このことを逆にいえば、やる気を維持していくために必要なことは、むずかしいと感じ、高いと判断する課題やハードルが、実は容易な課題であり、ハードルも低く感じるようになればよいということになる。
まずやるべきこと、必要なことは、どんな障害に遭遇しても、いかにして突破するかを考えることであり、「私の手には余る」と判断する前に、腰を据えて事態を分析し、自分の能力を信じること。
なぜなら、「私は、できる」といった前向きな考え方、「だから、もう一歩前進しよう」という積極的な思考や、やる気を阻害する最大のものは、自分自身に対して自信が持てなくなることだからだ。
すなわち、自信こそが、やる気の炎を大きくさせ、夢や希望を簡単に捨て去ることなく、持続させる源泉の一つなのである。
日本の格言に「攻撃は最大の防御なり」という通り、いつでも自分の価値や能力を信じて、前進する気持ちと挑戦する精神を持ち続けることが、やる気を持続させることにつながるのである。
■成功した人間の多くは、劣等感をバネにして、人生を大きく発展させている。逆境こそ、人間を成長させる糧である。■
人間は誰でも、自分自身に対して自信を持つことはできる。誰にでも、才能があるからである。
必ずしも、その才能が学問に向けられるとは限らない。スポーツや芸術、経営能力や商才、人を楽しませるエンターティーメント能力など自分に適した方面に、隠れた才能は確かにあるはずである。
その才能というのは、否定的な考えのところには現れることはなく、常に自信に満ち、積極的に考える人、やる気にあふれる人にのみ開花するといえる。
今、いかに劣等生であったとしても、あるいはコンプレックスを感じていたとしても、自分の好きな方面を伸ばすことによって、前途は開かれる。弱点、欠点には目をつぶり、自分の優れている点だけを見詰めて追求し続ければ、ハンデは障害にはならず、人生は思い通りになるのである。
そもそも、この世の中に、コンプレックスを持たない人間はいないはずだ。大切な問題は、劣等感にどう対処するかということに尽きる。
アメリカの発明王で、企業家でもあったエジソンを始めとして、成功した人間の多くは、劣等感をバネにして、人生を大きく発展させている。逆境こそ、人間を成長させる糧である。悪条件こそ、私たちを大きく前進させる推進力である。
誰もが劣等感に拘泥するのはやめにして、強いやる気と、積極的な考え方をもって事に当たれば、やがて成就しない願いはない。
世の中に、最初から自信満々な人間なども皆無。偉人と評される人であろうと、一つの小さな成功をステップに一歩一歩、一段一段、より大きな成功を手にし、それがまた大きな自信につながっていったのである。
■やる気や集中力をうまく引き出すためには、物事に対して否定的になるのではなく、肯定的に考えるようにすることが、一つの秘訣になる。■
大いなる錯覚でもよいだろう。単なる思い込みでもよいだろう。まず自分自身に対して自信を持とう。
「信じる者は救われる」ではないが、自分には能力、才能があると自己暗示し、楽観的に考えられる人間になることから、出発しよう。それが積極思考、やる気の持続への第一歩である。
私たち人間の心というものは面白いもので、「必ず成功する」という確信は持てなくとも、「頑張れば何とか芽がありそうだ」などと少しでも思うことができるならば、いかに苦しい仕事でも、それなりにやる気を出して達成してしまうものである。
反対に、失敗と挫折(ざせつ)ばかりが心の中で大きな比重を占めている人は、事に当たって成功イメージを持つことができず、「やればできる」と楽観的になれない。特に、今まで失敗を繰り返し、自信を失っている人は、何をするにも「今度も、うまくいかないのではないか」と、否定的に考えてしまう心理状態に陥っていることが多い。
成功を重ねてきた人ならば、自分に自信を持ち、何をするにも積極的、行動的に対処していこうとする。こういう肯定的な捕らえ方をする人は、物事を否定的に捕らえ、消極的な姿勢になっている人よりも、いろいろな面で成功する確率が高い。
事に当たって、やる気や集中力をうまく引き出すためには、物事に対して否定的になるのではなく、肯定的に考えるようにすることが、一つの秘訣になる。
はじめて手掛けることであっても、「やればできるだろう」と肯定的に考えることで、積極的に取り組むようになれるし、やる気もずっと出やすくなるのである。
普通の人間、すなわち常人、凡人にとって、「心身は安心立命。人生は日々是好日」とは、なかなか容易にいかないものであろう。
佳日、吉日、よい日があるかと思えば、次の日には影も差す。「よい日が長く続くことは少なく、暗い出来事がことが多い」と感じる人も、少なからずいることだろう。
人生の途中で、あきらめや絶望感にさいなまれ、「もう駄目だ」と弱気になる人も、結構いることだろう。人生の正念場、土壇場に臨んで、「現実は厳しい。この大変なピンチを切り抜けることは、自分には無理だ」、「私には能力がない。自分は駄目な人間なんだなあ」と思って、物事を半ばで投げ出し、断念してしまう人も、世の中には少なくないことだろう。
しかし、実は「無理だ」、「駄目だ」と意識で考えるから、次々に厳しい現実の障害が目の前に現れてきて、前途を妨げ、ついには危機を突破できずに、頭で予想した通り失敗に終わってしまうのである。
もしも、そのような弱気な人間が何らかのきっかけで一念発起し、「自分の人生のために、何としてもでもこの難関を突破し、絶対に目標を達成しよう」と強く決心すると、不思議にも進路に立ちふさがっていた障害が消え、思わぬ援助が出現したりして、やがて目標を達成できるものである。
どんなに山また山が連続する絶望的状況にあろうとも、あるいは、どんなに失意の連続であろうとも、人間には人生を切り開くチャンスが残されていることを理解してもらいたい。
誰もが、やる気という積極的に物事を進めようとする目的意識を起こすこと、そして自信と信念を持って行動することによって、人生をよい方向へ向けることが可能なのである。
春、夏、秋、冬と巡る人生には、いくらでも大きな可能性が残されている。逆転のチャンスが残されている。年齢には、全く関係ない。
「だけどやってみよう」、「必ずやってみせる」という積極的な考えと、燃えるようなやる気がありさえすれば、無限の能力は発揮できる。目標達成情熱を燃やし続け、自信と信念で事に当たれば、どんな奇跡さえも実現できるのである。すべての人には、それを可能にし得る無限の能力が隠されているのである。
つまり、人間の人生は、自分の心の持ち方一つ、やる気一つで、どのようにでも変わるということである。人間には誰にも、能力があり、可能性があるのだ。ただ、「自分にはとてもできない」と頭で思ってしまうから、自らその能力、可能性を殺してしまうわけだ。
そうした能力を備えているにもかかわらず、真の能力を発揮できず、つまらない人生を送っている人々に対して、やる気を喚起し、やる気を燃やすきっかけを与えてみたいと、編集子は念願してきた。
本編は、心の持ち方一つ、積極的な目的意識を意味するやる気一つで人生は変わる、劣等感に沈んでいた人でも前向きで行動的な人間に変身すると、人生そのものが大きく変わり、飛躍、発展ができる、ということを証明するものなのである。
具体的に、仕事や勉強に取り組む場面を考えてみても、ダラダラとやった時よりも、「よし、やるぞ」と積極的に考え、うまくやる気を燃やした時のほうが、能率がグンと上がり、間違いが減ったり、要領もちゃんと覚えられるなど作業の質が違ってくることは、誰にでも体験があることだろう。
■人生そのものから仕事、勉強、スポーツ、対人関係まで、成功のカギを握っているのは、自分の心の持ち方、やる気の出し方だ、といっても過言ではない。■
仕事上の交渉や話し合いといった対人関係の大事な場面を考えてみても、やる気の出し方一つ、気合の入れ方一つで成否が分かれることが、理解できるだろう。
例えば、大事な人との商談に臨む時や、ともすれば圧倒されてしまいそうな大物と会う時なども、自分がやる気になっていたなら、相手に気を飲まれ、委縮することもないはずだ。
仕事や勉強以外の場でも、やる気の出し方次第で、得られる成果が大きく変わってくるのは、当然のこと。異性の前で好意を得たいと願う時や、スポーツの試合で活躍したいと思う時など、やる気がうまく出れば、期待以上の成果を上げることも可能である。
人生そのものから仕事、勉強、スポーツ、対人関係まで、成功のカギを握っているのは、自分の心の持ち方、やる気の出し方だ、といっても過言ではない。
すなわち、人間誰もが自分の人生を思い通りにできる方法は、自らの心構えをある一定の方向へ向け続けること、何があろうとも消極的、悲観的にならずに前を見続けること、情熱の火を消すことなく、事がなるまでやる気を失わず全力で当たること、たったこれだけのことなのである。
積極思考、やる気と情熱の持続など、気持ち、心の有り様が人生を左右し、運命を支配する、といって間違いないのである。
誰もが「必ずやってやる」、「自分にはできる」と考え方を前向きに改め、その心の変化が真なるものであり、それ相応の行動を伴うならば、文字通り運命を自在に操ることが可能となるのである。
■積極的な心構えさえ備わっていれば、必ず行く手は開かれる。やる気の持続さえあれば、やがて事を成し遂げることができる。■
人間の心の有り様、目標の達成や夢の実現に向かって情熱を燃やし続け、やる気を持続することは、人間に大変な力を発揮させるのだ。
格言にも、「一念天に通ず」、「志ある者は事ついに成る」などという。前向きに志をしっかり持ち、心を集中して思いを込めて行えば、どのような事も最後には成し遂げることができる、という意味である。
このように古今から、心の有り様がいかに人間を左右するかについて、さまざまな方向から語られ、記されてきた。そして、これらの格言やことわざは、心の有り様がしっかりと一定の方向に向いていれば、人生は自分の手によって変えていくことができるという、一つの暗示を与えてくれる。
結局、人間が夢を実現させる心の持ち方とは、「私には、できないと」いう否定的な考えを全く心の中から消し去り、「自分に志さえあれば何でも果たせる」という積極的な心構え、やる気に満ち満ちていることである。
どんなことがあろうとも、どんな絶望的状況に陥ろうとも、夢と希望を心の中から消し去ってはいけない。
「今は条件も悪いし、環境も整っていないから不可能だ」などと、あきらめるところに、夢の実現はない。「この程度でいいだろう」と、前に進むことをやめるところに、大きな成功はない。
反対に、どんな過酷な条件にあろうとも、また自分自身に欠けるところがあると感じていても、積極的な心構えさえ備わっていれば、必ず行く手は開かれる。やる気の持続さえあれば、やがて事を成し遂げることができる。
自らを幸せにする能力も、成功に導く力も、自分自身の心の中に潜んでいるのであり、夢の実現や成功の獲得は心の中で作られるということだ。その上、「もう一歩前へと、さらに前進してみよう」と、やる気を日々新たにしていく。そこから、自分の人生が再スタートするということなのである。
■やる気を持ち続けることは容易ではないし、一度失ったやる気を取り戻すのは非常に困難とわかる。■
常に積極的な心構えを保持し、やる気を持続するために努力するとともに、前へ前へと前進しさえすれば、そこに遮るものは何もなく、立ちふさがるものも姿を消す。
だが、イギリスに「言うと成すとの間には長い道がある」という格言があるように、積極的な心構え、やる気を持てば未来が開けると私が説いても、自分の心の有り様や生き方を本気で、転換させようとする人は、少ないかもしれない。夢や希望を持続させれば必ずかなうといわれても、なかなか実行に移さない人も、少なからずいるだろう。
あるいは、やる気や、やむことを知らぬ熱意が夢や希望、願望を達成させるということを理解し、すでに実行してみたものの、「一生懸命、事に当たったが失敗した」、「大変な情熱と熱意で努力したつもりだが、目的は達成されなかった」という人も、中にはいることだろう。
たぶん、彼や彼女が情熱を傾けたのは事実であろうし、熱中したというのも本当のことであろうが、残念なことに、それは持続的なものではなく、一時的なものだったのではなかろうか。
彼らは「やってみよう。やってやるぞ」と、やる気の炎を燃やしたものの、目の前に障害物や困難が出現すると、あまりにも簡単に投げ出し、情熱に水をかけてあっさりと消してしまわなかっただろうか。
実際、やる気を生むことと、やる気を持続させることを比較すると、どちらがむずかしいか。持続させるほうがむずかしいと、ほとんどの人間が考えるに違いない。
四月には、やる気をみなぎらせていたはずの新入社員が、五月には、飲み屋で会社や上司の愚痴をこぼしているといった光景を目にするにつけても、やる気を持ち続けることは容易でないし、一度失ったやる気を取り戻すのは非常に困難とわかる。
■自信こそが、やる気の炎を大きくさせ、夢や希望を簡単に捨て去ることなく、持続させる源泉の一つなのである。■
私たち人間は本来、積極的な人、やる気の人になりたい、あるいは、なれると考えているし、乗り越えるべき課題をやさしいと判断すれば、将来の可能性を大きく予想する。反対に、むずかしいと感じれば、将来の可能性を小さく予測する。
そして、やる気というものは、障害に遭遇した時に失われる。立ちはだかる障害の解決が不可能であると感じた時に、やる気を喪失してしまう。
このことを逆にいえば、やる気を維持していくために必要なことは、むずかしいと感じ、高いと判断する課題やハードルが、実は容易な課題であり、ハードルも低く感じるようになればよいということになる。
まずやるべきこと、必要なことは、どんな障害に遭遇しても、いかにして突破するかを考えることであり、「私の手には余る」と判断する前に、腰を据えて事態を分析し、自分の能力を信じること。
なぜなら、「私は、できる」といった前向きな考え方、「だから、もう一歩前進しよう」という積極的な思考や、やる気を阻害する最大のものは、自分自身に対して自信が持てなくなることだからだ。
すなわち、自信こそが、やる気の炎を大きくさせ、夢や希望を簡単に捨て去ることなく、持続させる源泉の一つなのである。
日本の格言に「攻撃は最大の防御なり」という通り、いつでも自分の価値や能力を信じて、前進する気持ちと挑戦する精神を持ち続けることが、やる気を持続させることにつながるのである。
■成功した人間の多くは、劣等感をバネにして、人生を大きく発展させている。逆境こそ、人間を成長させる糧である。■
人間は誰でも、自分自身に対して自信を持つことはできる。誰にでも、才能があるからである。
必ずしも、その才能が学問に向けられるとは限らない。スポーツや芸術、経営能力や商才、人を楽しませるエンターティーメント能力など自分に適した方面に、隠れた才能は確かにあるはずである。
その才能というのは、否定的な考えのところには現れることはなく、常に自信に満ち、積極的に考える人、やる気にあふれる人にのみ開花するといえる。
今、いかに劣等生であったとしても、あるいはコンプレックスを感じていたとしても、自分の好きな方面を伸ばすことによって、前途は開かれる。弱点、欠点には目をつぶり、自分の優れている点だけを見詰めて追求し続ければ、ハンデは障害にはならず、人生は思い通りになるのである。
そもそも、この世の中に、コンプレックスを持たない人間はいないはずだ。大切な問題は、劣等感にどう対処するかということに尽きる。
アメリカの発明王で、企業家でもあったエジソンを始めとして、成功した人間の多くは、劣等感をバネにして、人生を大きく発展させている。逆境こそ、人間を成長させる糧である。悪条件こそ、私たちを大きく前進させる推進力である。
誰もが劣等感に拘泥するのはやめにして、強いやる気と、積極的な考え方をもって事に当たれば、やがて成就しない願いはない。
世の中に、最初から自信満々な人間なども皆無。偉人と評される人であろうと、一つの小さな成功をステップに一歩一歩、一段一段、より大きな成功を手にし、それがまた大きな自信につながっていったのである。
■やる気や集中力をうまく引き出すためには、物事に対して否定的になるのではなく、肯定的に考えるようにすることが、一つの秘訣になる。■
大いなる錯覚でもよいだろう。単なる思い込みでもよいだろう。まず自分自身に対して自信を持とう。
「信じる者は救われる」ではないが、自分には能力、才能があると自己暗示し、楽観的に考えられる人間になることから、出発しよう。それが積極思考、やる気の持続への第一歩である。
私たち人間の心というものは面白いもので、「必ず成功する」という確信は持てなくとも、「頑張れば何とか芽がありそうだ」などと少しでも思うことができるならば、いかに苦しい仕事でも、それなりにやる気を出して達成してしまうものである。
反対に、失敗と挫折(ざせつ)ばかりが心の中で大きな比重を占めている人は、事に当たって成功イメージを持つことができず、「やればできる」と楽観的になれない。特に、今まで失敗を繰り返し、自信を失っている人は、何をするにも「今度も、うまくいかないのではないか」と、否定的に考えてしまう心理状態に陥っていることが多い。
成功を重ねてきた人ならば、自分に自信を持ち、何をするにも積極的、行動的に対処していこうとする。こういう肯定的な捕らえ方をする人は、物事を否定的に捕らえ、消極的な姿勢になっている人よりも、いろいろな面で成功する確率が高い。
事に当たって、やる気や集中力をうまく引き出すためには、物事に対して否定的になるのではなく、肯定的に考えるようにすることが、一つの秘訣になる。
はじめて手掛けることであっても、「やればできるだろう」と肯定的に考えることで、積極的に取り組むようになれるし、やる気もずっと出やすくなるのである。
■仕事を楽しみに変える [やる気を出す]
■自信を持ち、肯定的になるためには、とにかく最初、ささやかでいいから、小さな成功を実際に体験することだ。■
人間が肯定的になるためには、どんな小さなことでもかまわないから、かつて成功した体験を自分の心の中で大きくイメージし、それを何度も積み重ねていくことだ。
何も、大きな成功を経験している必要はない。ちょっとした交渉を達成した経験や、小さな企画の成功を意識的にイメージすればいい。あるいは、過去の自分の体験中、うまくいったことを可能な限り思い出してみればいいのだ。
やがて、自分の成功イメージを心の中に描くことができるようになれば、自然と「やれそうだ」、「できそうだ」と思えるようになってくるはず。この状態は、もう半分やる気が出た状態だといっても過言ではない。
同じ意味で、ビジネスマンや学生が自信を持ち、肯定的になるためには、とにかく最初、ささやかでいいから、小さな成功を実際に体験することだ。その成功を重ねていくと、だんだん当人の意欲、積極性に火が付いてくるのである。
人間は仕事や勉強を手掛ける時、滑り出しでつまずくと、嫌気が差してしまいがちだが、最初の段階である程度の成功を収めると、後は調子に乗ってどんどん進んでいく。
ほんのささいなことでも成功したり、うれしい気持ちにさせられた体験は、その人間の行動を大きく変えるもの。絵や作文などで学生時代の教師にほめられたために、その気になり、一生懸命励んでいるうちに一流の画家や作家になったなどというのが、好例といえるだろう。
人生の夏を生きる大人でも、一つの仕事をうまくこなして勢いがつくと、全く別の仕事もうまくこなせるようになる傾向が強い。分野は何でもかまわない。ともかく、うまくいくことが大切。
■理屈はよくわかったとしても、体が思うように動かないということがある。頭で覚えても体が覚えなければ、身に着かないのである。■
仕事に取り組む際には、自分の得手とすること、やりやすいことから手掛けるのも一案である。パソコンが得意な人なら、キーボードを打つことから始めればよい。最初に、ある程度の仕事をこなしたという実績が、次の仕事へ向かう意欲、自信を湧かせ、やる気の出やすい状態を作ってくれる。
この自信をつけるために手掛けることは、何も仕事に関係したことばかりに限る必要はない。自分の趣味のことでもいいのである。釣りが得意な人ならば、月曜日に大事な会議の発表が控えていたら、前日の日曜日に海や川に魚釣りに出掛けるのもいいだろう。
また、ここ一番の場面で、常に自信を持って発言、行動できる自分をつくるためには、慣れるということも大切。昔から「習うよりは慣れよ」といわれる通り、自ら経験して知り、慣れることが、日常生活のいろいろな場面で重要な働きをしていることを、再認識してもらいたい。
人前で歌う、話すはもちろん、仕事、スポーツ、家事など、多少なりともテクニックを要するものは、すべて慣れが影響する。本や人の話などで理屈はよくわかったとしても、体が思うように動かないということがある。頭で覚えても体が覚えなければ、身に着かないのである。
体で慣れるためにも、成功イメージを描くことが有効だから、スポーツ選手がよく行う練習方法で、イメージ・トレーニングというのを利用してみるのも一案。イメージ・トレーニングは、自分の理想とするスタイルと状況を想定し、何度も反復する方法で、頭でイメージして体も一緒に動かすことが、大切な要領である。
実生活でもかなり応用できるので、「会議などの席上で思うようにしゃべれない」というような人物は、ぜひ練習してほしい。注意するのは、頭ではなく、声を出しながら肉体で覚えるという点である。
■精神と肉体のバランスが悪ければ、「気」は働かない。「気」が入らない。人が飛躍する時、「気」が働かなければ、事は成就しない。■
自らの肉体で覚え、自信をつけて、本番でも積極的に行動すれば、あがることも少なくなって、人間は成功をつかんでいくものである。
結局、成功につながる考え方は、積極的な考え方、つまりポジティブな思考ということになる。前向きで広い考え方、成功も失敗もすべてプラスにする考え方が、大切なのである。
例えば、何かをする過程を努力と感じるか、苦労と感じるかの違いである。努力とは積極的でポジティブな考え方であり、苦労とは消極的でネガティブな考え方。仕事上でも日常生活でも、苦労は誰でも避けようとするだろうし、一度した苦労は二度としたいとは考えないものである。人の一生を考えた場合、この違いは大きな差となって表れるはずだ。
なぜ、積極的な物の考え方をすると、いい結果が得られるのだろうか。やる気の原動力となる気力が、充実する効用である。気力の充実は、生き生きとした精神と肉体があってこそ可能になる。積極的な考え方をすることで、心身に張りが生まれ、はつらつとして事に臨む気力、やる気が生まれるのである。
人間の体の内と外には、「気」という神秘なるエネルギーが存在する。人間が発散しているこの気体は、光背とかオーラとか呼ばれ、目で見ることができる人もいる。
「気」は、人間の生命力の源であり、精神と肉体のバロメーターでもある。人間の能力をフルに生かし、やる気を燃やすためには、この気力を充実させなくてはならない。運を含めて、人間のあらゆる可能性を開くのは、「気」の強い、弱いにかかわるといっても過言ではない。
精神と肉体のバランスが悪ければ、「気」は働かない。「気」が入らない。人が飛躍する時、「気」が働かなければ、事は成就しないのである。自信がなく、半信半疑で行ったことが成功しないのは、「気」が入らないからである。
積極的な考え方とは、「気」を高める、あるいは生かすための考え方の一つなのだ。
この積極思考のできる人は、自分の運命を他人にゆだねたり、環境のせいにしたりしない。悪い方向への兆しでも、それを前向きに受け止めて成功を勝ち取り、病気さえも乗り切るだろう。積極的な考え方は、体内のホルモンの分泌を促進し、肉体の治癒力を高めるのに役立つからである。
■やる気が出てこない状態の時でも、取り組む課題の重要性を認識することで、かなり強いやる気喚起を行ったのと同じことになる。■
何か事をなすに当たっては、積極的な考え方で気力を充実させて臨むとともに、今から取り組む課題がどのくらい重要で、価値のあるものかを知ることも、大事になってくる。
「書類を作成するなんて、つまらない仕事だ」と否定的に考えたならば、取り掛かる時に気力が充実し、やる気が出るどころではない。ダラダラと仕事をして、つまらないミスを繰り返したりする。
そもそも、人間の心理というものは、つまらないことや、簡単にできるやさしいことを前にしては、いくらやる気を出したつもりでも、やる気が高まらないのが普通なのだ。
逆に、「この書類一枚がなければ、会社の仕事は動かないし、私が少しでもミスをすれば、会社や取引先に迷惑をかけることにもなる」と考え、自分の仕事が重要だと認めれば、自然に書類を作成するのにも積極的になり、やる気が出てくる。
すなわち、やりたくない気持ちが強くて、なかなかやる気が出てこない状態の時でも、取り組む課題の重要性を認識することで、かなり強いやる気喚起を行ったのと同じことになるのである。
■人間は心理的に、先行きの予測が立たぬことに対して強い不安を抱くもので、それが行動意欲の減退につながるケースが多い。■
同様に、自分が取り組もうとしている課題の全体像を把握し、その結果をある程度予測することも、重要になってくる。人間は心理的に、先行きの予測が立たぬことに対して強い不安を抱くもので、それが行動意欲の減退につながるケースが多いからである。
一つの仕事に取り組む場合でも、全体の見通しが立つ条件と見通しが立たない条件とでは、仕事の結果に大きな差が出る。
まだ体験したことのない仕事をする際には、経験した人の話を聞くなり、自分で調べたりして、情報を少しでも多く集め、新たに挑戦する課題の全体の見通しを持つようにすればよい。経験者や情報がない場合は、自分の過去の体験から類似したケースはなかったかと、思い出してみるのもよい。
仕事の全体像をイメージでき、どこでどのくらい力を入れたらよいかが予測できてこそ、やる気も効果的に喚起できるというものだ。
自分の仕事の全体像をイメージできない例として、「大企業病」という言葉がある。企業が巨大になりすぎると、社員たちが自分の役割分担を見失ってしまうのが、病気の最大の原因である。
無論、やるべきことは上司から指示されてわかってはいても、その仕事が大きな組織の中で、どのくらい重要性を持つのか、見当がつかなくなってしまう。こうなると人間は、仕事に創造的な喜びを見いだせず、いわゆるルーチンワークをこなすだけになってしまう。そんな社員ばかりになれば、組織全体の生産効率が目に見えて落ちるのは必然。
自分の取り組んでいることに何の意義も感じず、自分の達成したことがどの程度、会社や社会の役に立っているのかがわからなくては、仕事に意欲を出して頑張ろうとしても、無理なのは当然だ。
■自分の役割の重要性、価値を認識しながら仕事に臨めば、意欲的に、楽しく業務を遂行できる。■
反対に、自分の仕事が必要とされていると理解できれば、人間は大いにやる気も湧いてくる。特に中小企業の中に多いが、社員一人ひとりが組織の中での役割を把握し、「自分がやらなければ」という気持ちで働いている会社は、必ず発展する。
自分の仕事が確かに、社会の役に立っている。自分が製品を作ることで、喜んでくれる人がいる。こうした意識を持てるか否かは、仕事の張り合いにも大きくかかわってくる。張り合いや、やりがいは、他人から与えられるのをただ待っていても、致し方ないだろう。
どのような仕事に携わっていようとも、要は自分の見方、考え方次第。あえて自ら、自分の仕事をつまらなく考える必要はない。
自分の会社の製品を喜んで使ってくれているお客の姿を、想像してみよう。自分が仕事をしなければ、会社の中で支障を来したり、迷惑をかけたりする部署が必ずあることを、考えてみよう。
イメージしてみるだけでも、組織の中の一員としての、自分の仕事の重要さを意識できるはず。自分の役割の重要性、価値を認識しながら仕事に臨めば、意欲的に、楽しく業務を遂行できることだろう。
■喜びとして、また自己の創造力の表現として見ることによって、仕事を楽しみとすることができ、そこから人生と仕事に対するゆとりが生まれてくる。■
労働するということは、本来楽しい、面白いことである。これを苦しい、つまらないものにしているのは、人間の自己意識のなせる業なのだ。すなわち、仕事が楽しいかどうかは、無意識に仕事をするか、自己意識で仕事をするかに、大きくかかわってくる。
宇宙天地大自然世界に生かされている人間は、本来、楽しく生きられる配慮を自然から与えられているのである。単調な仕事であっても、この他力に身をゆだね、やる気を燃やし、「気」を入れて能率よく働けば、知恵が身に着くし、楽しさも湧いてくる。他力を自力として生きるためには、日々の現実から逃避してはならない。
こうして己の職業を天職と確信し、迷わず努力してゆけば、必ず仕事がよくわかるようになってきて、上手になる。上手になれば、この仕事は自分に適していると思うようになり、さらにやる気も出て面白くなってくる。そうなれば、もはや仕事は苦労ではなくなり、道楽に変わるというものである。職業の道楽化は人生の最大幸福である、ともいえる。
「よし、やろう」と決意した仕事が見事に完成した時の、あの素晴らしい楽しさは、誰にも体験があるだろう。汗水を滴らせての艱難(かんなん)辛苦の後に、ついに険しい頂上を極めた時の感激はどうか。「万歳」と叫ばずにはおれないだろう。
ここに、仕事にやる気を出し、楽しみ多いものにするコツがあるわけだ。「しなければならないからやる」という態度で仕事をするのではなく、努力に対する満足感、完成した場合の快感のために物事をやるように、心の持ち方を変えてみることである。
スポーツは自分の満足のためにやっているからこそ楽しいのであって、もしこれが強制的に課せられた労働だったら、必ずしも楽しいものではなくなるだろう。同じことが、仕事にも当てはまる。
喜びとして、また自己の創造力の表現として見ることによって、仕事を楽しみとすることができ、そこから人生と仕事に対するゆとりが生まれてくる。実際にそうしている人々の例も、たくさんある。
労働と遊びとの相違は心構え一つにかかっている、ということをよく覚えておいてもらいたい。遊びはやることを楽しむものであり、労働は「しなければならないもの」である。
■仕事に命を懸けるぐらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度が、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫も次々に生まれてくる。■
人生を豊かにし、ゆとりを持つために、彼や彼女がしなければならないことは、仕事を遊びに変えることである。
私の場合、働くことのほうが遊ぶことよりも面白い。誰もが会社のために働くということは、直ちに自分のためにもなる。懸命に会社の仕事をし、それを通じて自己を磨く。そうして、絶えず向上しようと心掛けることだ。
やる気に満ちた、精力的な活動家といわれる人物を観察してみると、そういう人は決して無駄で余計な意識を使わず、明るく活発な「気」を集中させながら、自我意識を捨てて仕事に取り組んでいる。そして、全精力をその日一日の仕事に使い切る。これが大切なコツ。中途半端はいけない。手抜きやサボタージュは、肉体を一時的に楽にはしても、「気」の流れを妨げ、心に油断を与えることになる。
その日一日の仕事に全精力を使い切るという心掛けの人は、性格も素直で明るく、健康で賢明で、社会的に成功者が多い。もちろん、肉体は疲れる。へとへとに疲れ切るが、そういう人の肉体は一晩ぐっすり寝ると、疲労そのものが明日のエネルギーに変換しており、前日楽をして疲労しなかった人よりも元気で、精力的に働けるものである。
仕事に命を懸けるぐらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度が、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫も次々に生まれてくる。
命が生きて働いてくれるからだ。それは、命、すなわち人間の体、肉体が汲(く)めども尽きない力と知恵を発揮してくれる、という意味である。
人間が肯定的になるためには、どんな小さなことでもかまわないから、かつて成功した体験を自分の心の中で大きくイメージし、それを何度も積み重ねていくことだ。
何も、大きな成功を経験している必要はない。ちょっとした交渉を達成した経験や、小さな企画の成功を意識的にイメージすればいい。あるいは、過去の自分の体験中、うまくいったことを可能な限り思い出してみればいいのだ。
やがて、自分の成功イメージを心の中に描くことができるようになれば、自然と「やれそうだ」、「できそうだ」と思えるようになってくるはず。この状態は、もう半分やる気が出た状態だといっても過言ではない。
同じ意味で、ビジネスマンや学生が自信を持ち、肯定的になるためには、とにかく最初、ささやかでいいから、小さな成功を実際に体験することだ。その成功を重ねていくと、だんだん当人の意欲、積極性に火が付いてくるのである。
人間は仕事や勉強を手掛ける時、滑り出しでつまずくと、嫌気が差してしまいがちだが、最初の段階である程度の成功を収めると、後は調子に乗ってどんどん進んでいく。
ほんのささいなことでも成功したり、うれしい気持ちにさせられた体験は、その人間の行動を大きく変えるもの。絵や作文などで学生時代の教師にほめられたために、その気になり、一生懸命励んでいるうちに一流の画家や作家になったなどというのが、好例といえるだろう。
人生の夏を生きる大人でも、一つの仕事をうまくこなして勢いがつくと、全く別の仕事もうまくこなせるようになる傾向が強い。分野は何でもかまわない。ともかく、うまくいくことが大切。
■理屈はよくわかったとしても、体が思うように動かないということがある。頭で覚えても体が覚えなければ、身に着かないのである。■
仕事に取り組む際には、自分の得手とすること、やりやすいことから手掛けるのも一案である。パソコンが得意な人なら、キーボードを打つことから始めればよい。最初に、ある程度の仕事をこなしたという実績が、次の仕事へ向かう意欲、自信を湧かせ、やる気の出やすい状態を作ってくれる。
この自信をつけるために手掛けることは、何も仕事に関係したことばかりに限る必要はない。自分の趣味のことでもいいのである。釣りが得意な人ならば、月曜日に大事な会議の発表が控えていたら、前日の日曜日に海や川に魚釣りに出掛けるのもいいだろう。
また、ここ一番の場面で、常に自信を持って発言、行動できる自分をつくるためには、慣れるということも大切。昔から「習うよりは慣れよ」といわれる通り、自ら経験して知り、慣れることが、日常生活のいろいろな場面で重要な働きをしていることを、再認識してもらいたい。
人前で歌う、話すはもちろん、仕事、スポーツ、家事など、多少なりともテクニックを要するものは、すべて慣れが影響する。本や人の話などで理屈はよくわかったとしても、体が思うように動かないということがある。頭で覚えても体が覚えなければ、身に着かないのである。
体で慣れるためにも、成功イメージを描くことが有効だから、スポーツ選手がよく行う練習方法で、イメージ・トレーニングというのを利用してみるのも一案。イメージ・トレーニングは、自分の理想とするスタイルと状況を想定し、何度も反復する方法で、頭でイメージして体も一緒に動かすことが、大切な要領である。
実生活でもかなり応用できるので、「会議などの席上で思うようにしゃべれない」というような人物は、ぜひ練習してほしい。注意するのは、頭ではなく、声を出しながら肉体で覚えるという点である。
■精神と肉体のバランスが悪ければ、「気」は働かない。「気」が入らない。人が飛躍する時、「気」が働かなければ、事は成就しない。■
自らの肉体で覚え、自信をつけて、本番でも積極的に行動すれば、あがることも少なくなって、人間は成功をつかんでいくものである。
結局、成功につながる考え方は、積極的な考え方、つまりポジティブな思考ということになる。前向きで広い考え方、成功も失敗もすべてプラスにする考え方が、大切なのである。
例えば、何かをする過程を努力と感じるか、苦労と感じるかの違いである。努力とは積極的でポジティブな考え方であり、苦労とは消極的でネガティブな考え方。仕事上でも日常生活でも、苦労は誰でも避けようとするだろうし、一度した苦労は二度としたいとは考えないものである。人の一生を考えた場合、この違いは大きな差となって表れるはずだ。
なぜ、積極的な物の考え方をすると、いい結果が得られるのだろうか。やる気の原動力となる気力が、充実する効用である。気力の充実は、生き生きとした精神と肉体があってこそ可能になる。積極的な考え方をすることで、心身に張りが生まれ、はつらつとして事に臨む気力、やる気が生まれるのである。
人間の体の内と外には、「気」という神秘なるエネルギーが存在する。人間が発散しているこの気体は、光背とかオーラとか呼ばれ、目で見ることができる人もいる。
「気」は、人間の生命力の源であり、精神と肉体のバロメーターでもある。人間の能力をフルに生かし、やる気を燃やすためには、この気力を充実させなくてはならない。運を含めて、人間のあらゆる可能性を開くのは、「気」の強い、弱いにかかわるといっても過言ではない。
精神と肉体のバランスが悪ければ、「気」は働かない。「気」が入らない。人が飛躍する時、「気」が働かなければ、事は成就しないのである。自信がなく、半信半疑で行ったことが成功しないのは、「気」が入らないからである。
積極的な考え方とは、「気」を高める、あるいは生かすための考え方の一つなのだ。
この積極思考のできる人は、自分の運命を他人にゆだねたり、環境のせいにしたりしない。悪い方向への兆しでも、それを前向きに受け止めて成功を勝ち取り、病気さえも乗り切るだろう。積極的な考え方は、体内のホルモンの分泌を促進し、肉体の治癒力を高めるのに役立つからである。
■やる気が出てこない状態の時でも、取り組む課題の重要性を認識することで、かなり強いやる気喚起を行ったのと同じことになる。■
何か事をなすに当たっては、積極的な考え方で気力を充実させて臨むとともに、今から取り組む課題がどのくらい重要で、価値のあるものかを知ることも、大事になってくる。
「書類を作成するなんて、つまらない仕事だ」と否定的に考えたならば、取り掛かる時に気力が充実し、やる気が出るどころではない。ダラダラと仕事をして、つまらないミスを繰り返したりする。
そもそも、人間の心理というものは、つまらないことや、簡単にできるやさしいことを前にしては、いくらやる気を出したつもりでも、やる気が高まらないのが普通なのだ。
逆に、「この書類一枚がなければ、会社の仕事は動かないし、私が少しでもミスをすれば、会社や取引先に迷惑をかけることにもなる」と考え、自分の仕事が重要だと認めれば、自然に書類を作成するのにも積極的になり、やる気が出てくる。
すなわち、やりたくない気持ちが強くて、なかなかやる気が出てこない状態の時でも、取り組む課題の重要性を認識することで、かなり強いやる気喚起を行ったのと同じことになるのである。
■人間は心理的に、先行きの予測が立たぬことに対して強い不安を抱くもので、それが行動意欲の減退につながるケースが多い。■
同様に、自分が取り組もうとしている課題の全体像を把握し、その結果をある程度予測することも、重要になってくる。人間は心理的に、先行きの予測が立たぬことに対して強い不安を抱くもので、それが行動意欲の減退につながるケースが多いからである。
一つの仕事に取り組む場合でも、全体の見通しが立つ条件と見通しが立たない条件とでは、仕事の結果に大きな差が出る。
まだ体験したことのない仕事をする際には、経験した人の話を聞くなり、自分で調べたりして、情報を少しでも多く集め、新たに挑戦する課題の全体の見通しを持つようにすればよい。経験者や情報がない場合は、自分の過去の体験から類似したケースはなかったかと、思い出してみるのもよい。
仕事の全体像をイメージでき、どこでどのくらい力を入れたらよいかが予測できてこそ、やる気も効果的に喚起できるというものだ。
自分の仕事の全体像をイメージできない例として、「大企業病」という言葉がある。企業が巨大になりすぎると、社員たちが自分の役割分担を見失ってしまうのが、病気の最大の原因である。
無論、やるべきことは上司から指示されてわかってはいても、その仕事が大きな組織の中で、どのくらい重要性を持つのか、見当がつかなくなってしまう。こうなると人間は、仕事に創造的な喜びを見いだせず、いわゆるルーチンワークをこなすだけになってしまう。そんな社員ばかりになれば、組織全体の生産効率が目に見えて落ちるのは必然。
自分の取り組んでいることに何の意義も感じず、自分の達成したことがどの程度、会社や社会の役に立っているのかがわからなくては、仕事に意欲を出して頑張ろうとしても、無理なのは当然だ。
■自分の役割の重要性、価値を認識しながら仕事に臨めば、意欲的に、楽しく業務を遂行できる。■
反対に、自分の仕事が必要とされていると理解できれば、人間は大いにやる気も湧いてくる。特に中小企業の中に多いが、社員一人ひとりが組織の中での役割を把握し、「自分がやらなければ」という気持ちで働いている会社は、必ず発展する。
自分の仕事が確かに、社会の役に立っている。自分が製品を作ることで、喜んでくれる人がいる。こうした意識を持てるか否かは、仕事の張り合いにも大きくかかわってくる。張り合いや、やりがいは、他人から与えられるのをただ待っていても、致し方ないだろう。
どのような仕事に携わっていようとも、要は自分の見方、考え方次第。あえて自ら、自分の仕事をつまらなく考える必要はない。
自分の会社の製品を喜んで使ってくれているお客の姿を、想像してみよう。自分が仕事をしなければ、会社の中で支障を来したり、迷惑をかけたりする部署が必ずあることを、考えてみよう。
イメージしてみるだけでも、組織の中の一員としての、自分の仕事の重要さを意識できるはず。自分の役割の重要性、価値を認識しながら仕事に臨めば、意欲的に、楽しく業務を遂行できることだろう。
■喜びとして、また自己の創造力の表現として見ることによって、仕事を楽しみとすることができ、そこから人生と仕事に対するゆとりが生まれてくる。■
労働するということは、本来楽しい、面白いことである。これを苦しい、つまらないものにしているのは、人間の自己意識のなせる業なのだ。すなわち、仕事が楽しいかどうかは、無意識に仕事をするか、自己意識で仕事をするかに、大きくかかわってくる。
宇宙天地大自然世界に生かされている人間は、本来、楽しく生きられる配慮を自然から与えられているのである。単調な仕事であっても、この他力に身をゆだね、やる気を燃やし、「気」を入れて能率よく働けば、知恵が身に着くし、楽しさも湧いてくる。他力を自力として生きるためには、日々の現実から逃避してはならない。
こうして己の職業を天職と確信し、迷わず努力してゆけば、必ず仕事がよくわかるようになってきて、上手になる。上手になれば、この仕事は自分に適していると思うようになり、さらにやる気も出て面白くなってくる。そうなれば、もはや仕事は苦労ではなくなり、道楽に変わるというものである。職業の道楽化は人生の最大幸福である、ともいえる。
「よし、やろう」と決意した仕事が見事に完成した時の、あの素晴らしい楽しさは、誰にも体験があるだろう。汗水を滴らせての艱難(かんなん)辛苦の後に、ついに険しい頂上を極めた時の感激はどうか。「万歳」と叫ばずにはおれないだろう。
ここに、仕事にやる気を出し、楽しみ多いものにするコツがあるわけだ。「しなければならないからやる」という態度で仕事をするのではなく、努力に対する満足感、完成した場合の快感のために物事をやるように、心の持ち方を変えてみることである。
スポーツは自分の満足のためにやっているからこそ楽しいのであって、もしこれが強制的に課せられた労働だったら、必ずしも楽しいものではなくなるだろう。同じことが、仕事にも当てはまる。
喜びとして、また自己の創造力の表現として見ることによって、仕事を楽しみとすることができ、そこから人生と仕事に対するゆとりが生まれてくる。実際にそうしている人々の例も、たくさんある。
労働と遊びとの相違は心構え一つにかかっている、ということをよく覚えておいてもらいたい。遊びはやることを楽しむものであり、労働は「しなければならないもの」である。
■仕事に命を懸けるぐらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度が、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫も次々に生まれてくる。■
人生を豊かにし、ゆとりを持つために、彼や彼女がしなければならないことは、仕事を遊びに変えることである。
私の場合、働くことのほうが遊ぶことよりも面白い。誰もが会社のために働くということは、直ちに自分のためにもなる。懸命に会社の仕事をし、それを通じて自己を磨く。そうして、絶えず向上しようと心掛けることだ。
やる気に満ちた、精力的な活動家といわれる人物を観察してみると、そういう人は決して無駄で余計な意識を使わず、明るく活発な「気」を集中させながら、自我意識を捨てて仕事に取り組んでいる。そして、全精力をその日一日の仕事に使い切る。これが大切なコツ。中途半端はいけない。手抜きやサボタージュは、肉体を一時的に楽にはしても、「気」の流れを妨げ、心に油断を与えることになる。
その日一日の仕事に全精力を使い切るという心掛けの人は、性格も素直で明るく、健康で賢明で、社会的に成功者が多い。もちろん、肉体は疲れる。へとへとに疲れ切るが、そういう人の肉体は一晩ぐっすり寝ると、疲労そのものが明日のエネルギーに変換しており、前日楽をして疲労しなかった人よりも元気で、精力的に働けるものである。
仕事に命を懸けるぐらいの覚悟があるならば、物事に取り組む態度が、おのずと真剣になる。従って、考え方が一新し、創意工夫も次々に生まれてくる。
命が生きて働いてくれるからだ。それは、命、すなわち人間の体、肉体が汲(く)めども尽きない力と知恵を発揮してくれる、という意味である。
■目標を掲げる必要性 [やる気を出す]
■先の先を読み取ること、壮大で、かつ綿密な先見性を身に着けることも、大切となる。■
そもそも人間の体は、働きそのものである。仕事や勉強に忠実、勤勉の毎日を積めば、将来の生活の基礎となる自己というものが、自然に確立するのである。
その点、一日一日を大切にすると同様に、自らの将来のことでも、自分の家庭のことでも、会社の仕事や経営のことでも、先の先を読み取ること、壮大で、かつ綿密な先見性を身に着けることも、大切となる。長い単位としては二十年後、中期では五年から十年後、短期でも一年から二年先までの状態を見詰める。
二十年先には、どうなっているか、どうすべきかと考える。そのためには十年後には、どうなっていなければならないか。その十年後の自分や家庭や会社の理想の状態を可能にするには、一年後には、どう進展していなければならないか。さらに、そのためには明日、そして今日、やるべきことは何かを考える。
二十年後という大きな展望から、今日やるべきことまでを考えるのである。二十年後の状態というのは、まだボンヤリとしか見渡せないだろう。
しかし、それを十年後、五年後、一年後といったように細分化してゆくと、今日やるべきことにたどり着く。つまり、今日一日の実行すべきことというのは、一見見えないようであっても、実は二十年後にちゃんとつながっていくのである。
こういう将来展望という大目標、今日一日やるべきことという小目標は、人間にとって非常に大切である。人間は目的に向かってこそ、努力をしたり、苦労をしたりできるもので、それこそ雲をつかむような漠然とした状態では、やる気の出しようもない。
■目標を明確にすることによって、やる気が確たるものになるし、目標があってはじめて、生きがいも生まれるのである。■
目標は大切だが、あまりにも現実離れした高い目標を掲げてしまうと、人間はその能力を発揮できないものである。
目標が適度だった場合には、人間は「よし、やってやろう」とやる気が出る。それが大きすぎたり、高すぎたり、漠然としたものでは、気持ちがついていかない。
成功した人の話を聞いてみると、大目標と小目標の使い分けがうまい人が多いものである。「絶対社長になろう。会社を十倍にしてみせる」などと、十年後、二十年先の大目標はもちろん持ちつつ、「まず、この目の前にある仕事を成功させるのだ」、「今度の商談は絶対にまとめてみせる」と、ちゃんと目に見えやすい小目標も同時に持っている。
つかみやすい単純な目標は、人間に力を与える。「頑張れば達成できそうだ」と思えれば、気持ちが前向きになるのである。
誰もが「どうしても、これをしなければならない」と没頭し、成功した体験があるはずだが、それは目標が明確であったからである。
成功したいという決心、それに向かっての情熱、やる気、想念が人生における成功のカギであるが、目標を明確にすることによって、やる気が確たるものになるし、目標があってはじめて、生きがいも生まれるのである。
生きがいとなる大目標についていえば、例えば金持ちになりたいという気持ちは、人間誰にもあるはずだし、また努力もしているだろう。しかし、ここから先、アプローチの仕方が重要なのである。
■自分の能力以上と思われる大きなテーマを目標として、「やってみよう」と決断し、全力で取り組むことが、人生においては大切である。■
企業内で出世することによって、大目標を達成するのか。事業を起こして、金持ちになるのか。あるいは、プロのスポーツ選手や音楽家などを目指して、実現しようとするのか。
方法は多様であり、どれを選択するのかをまず決めることから、スタートしよう。その上で、私の若かりし頃のように実業家を目指すのであれば、何年先に自社所有のビルを持つのか、持つとすれば何階建てにするのか、場所はどこにするのかなどと、できるだけ具体的にしていくのである。
学者になりたいということであれば、専門の分野は何か、どの大学で教えるのか、はたまた、世界最先端をいく学者としてノーベル賞を目指すのかといった点まで、明確にすべきである。
また、目標は一つでなければならぬわけではない。それどころか、学校や仕事における目標、家庭生活における目標、さらにはトータルなライフスタイルでの目標と、異なる方面ごとに目標を掲げ、それぞれの達成へ向けて積極的に挑戦し、人生の春夏秋冬に渡って情熱を傾け続けることも、真に有意義である。
人生における目標は、大きければ大きいほどいい。あまりにも現実離れした目標であってはならぬが、自分の能力以上と思われる大きなテーマを目標として、「やってみよう」と決断し、全力で取り組むことが、人生においては大切である。成功している人はすべて、その道を通ってきている。
逆に、小さな目標を設定し、それすら達成できなければ、計り知れないほどのダメージを受け、立ち直るのに時間がかかる。
■人間は目標を突破するたびに、自信がついてくるものである。目標を一つ越えるごとに、積極的で、たくましい、やる気人間に変身していく。■
大きな目標を掲げた場合は、当然のことながら、自分の能力との食い違いを埋める努力をしなくてはならないし、挫折感を味わうことにもなろう。だが、努力を繰り返してこそ、人間の能力、才能というものは磨かれていくのであり、運命は開かれるのである。
その上、人間は目標を突破するたびに、自信がついてくるものである。目標を一つ越えるごとに、積極的で、たくましい、やる気人間に変身していくのだ。
別の言葉でいえば、大きな目標に向かうということは、苦難の連続でもあるわけだが、挫折や苦難を突破するたびに信念がより強固になり、自分でも気付かなかった潜在能力が次々と開花したりもするのだ。胸に抱く夢の大きさが、その人の将来の大きさを決定する、といってもよい。
つまり、有名大学への入学、一流会社への入社といった近い将来の目標を設定するとともに、十年後、二十年後を見据えた大きな目標、人生においてかくありたいという目標を掲げることが、大切になってくるのだ。
同じ高さの山を見ても、一方は「大きな山だ」と感じて引き返し、他方は「とにかく登ってみよう」と挑戦する。いうまでもなく、大きな成果、成功を手中にすることができるのは、後者のような積極的思考の持ち主である。
■目の前に立ちふさがる山や障害の多くは、自分の考え方一つで高くもなるし、低くもなる。■
おそらく現実には、自分の置かれている状況や実力からして、目の前に立ちふさがる障害を突破することは困難であるし、どう考えても目標を達成するのは至難と思っている人も、多いことだろう。
なぜ消極的思考に捕らわれ、やる気を失ってしまうのか。なぜ悲観的に考え、前に進もうとしないのか。
目の前に立ちふさがる山や障害の多くは、自分の考え方一つで高くもなるし、低くもなるということについての、認識が浅いからである。積極的思考がいかに大きな力を与えるかということについての、理解が足りないからである。大きな目標を達成することは不可能なのではないかと恐れていては、いい結果は決して生まれない。
楽観的、かつ積極的に、「山は登れる。必ず成功する」と確信して取り組むところに、宇宙の真善美楽・健幸愛和の法則が働き、創造的で無限の供給を得て、事をなし得るのである。
この点、成功者と呼ばれる人物は、並外れた努力家であり、やる気、忍耐力、あるいは信念が強かった人たちである。一方、何をやっても成功しないという人は、あまりにあきらめが早く、不可能という言葉に慣れすぎているだけだといえる。
ここで認識すべきは、目標を明確にしたら、次は目標達成に一歩でも近付こうと真剣な姿勢をとること、我慢強く努力すること、信念を持って行動すること、それが成功へのステップであるということだ。
しかし、注意しなければならないことがある。成功するためには努力や忍耐力が確かに必要であるが、それらのみで成功することはできないのである。成功する条件は、単なる努力、忍耐力、意欲といったものだけでは満たされないわけだ。
■自分の描いている目標や夢を達成させるには、背水の陣を敷いて当たるとともに、強く念願し、祈る方法も有効。■
反面、たとえ意志が弱い人でも、自信を喪失している人でも、目標をかなえることは可能なのである。
その成功の条件、原動力となるのは、「どうしても目標を達成させたい」という切羽詰まった気持ちである。「もう後には一歩も引けない」と、ぎりぎりまで追い込まれたことによって、引き出される気持ちである。
これはまさに、絶体絶命の立場にあえて身を置くという、背水の陣における決意であるし、必死の覚悟で事に当たる時、私たち人間は素晴らしいエネルギーを発揮できるのである。
人間が自分の描いている目標や夢を達成させるには、背水の陣を敷いて当たるとともに、強く念願し、祈る方法も有効である。
「どんな困難があろうとも、必ずやってやる」と、自分の潜在性の無意識、空意識に何かと祈り込み、刻み込んでおくと、時を得て実現して現れるということが、実際に起こるのである。
そもそも、人間の肉体に刻み込まれた記憶というものくらい、しぶとく、根の深いものはない。いい年をした、屈強の男性の中にも、思い掛けず高所恐怖症だったり、水を怖がったり、稲妻に出合うと全身の血の気が引いて真っ青になったりする人がいる。対面恐怖症の人や赤面恐怖症の人も、潜在性の無意識、空意識に刻み付けられた根深い記憶が、時と場合によって、よみがえってしまうのである。
その種のマイナスの記憶が、肉体内の無意識層、空意識層に刻み込まれるならば、人間の願望を込めた積極的な祈りもまた、刻み込むことが可能なわけだ。
■思いを固く観念として維持していれば、自然にその人の表情を操作し、その人の人相を形作り、その人の発する言葉の端々にまで反映されるものである。■
「そうありたい」と潜在性の意識に刻み込み、心に念じたことが実現する、かなうという願望の実現もある。
念願、あるいは観念という意識は、それだけでは抽象的で、無力で、実体のない自己満足のようなものであるが、持ち方いかんでは、人間の一生を左右するほどの力を有することもあるのだ。
毎日毎日、同じ思いを心の中に持ち続けていると、文字通り身も心も、その思い通りになる。さらに、思いを固く観念として維持していれば、自然にその人の表情を操作し、その人の人相を形作り、その人の発する言葉の端々にまで反映されるものである。
かくして、やがて観念の力が強まり、意思の力を上回るようになってくると、徐々にその人の願望が宇宙天地大自然の心に強く刻み込まれていき、いったん宇宙の心に刻み込まれたものは、いかなる障害があろうとも、ついには現実のものとなるのである。
つまり、人間が念じ、祈ることによって、人間を成功に導く力が流れ込み、驚くべき力が備わるのである。
宇宙天地大自然の心には、人間の念願、選択など心の中に描かれたものを受け取り、それを現象の世界に造形する原理がある。宇宙の心には、無限の力が潜んでいるのである。
無限の力を引き出すのも、引き出さないのも自分次第であり、「必ず実現させる」、「きっと夢をかなえる」と念願し、祈り、宇宙の心に強く刻み付ければ、いつしか現実のものとなるのである。
もちろん、小さな願望や夢であればすぐにでもかなえられるが、大きな願望や夢が実現するには、かなりの時間が必要。夢の大小によって、実現する時間の違いはある。
■自分に切実で他人に打ち明けにくいような願望も、朝の寝床での半意識状態、夜の眠りに入ろうとする直前を中心に、どんどん言葉に出して念じ、よいことばかりを願って暮らせばよい。■
いずれにせよ、もし宇宙の心のエネルギーが自分の元にやってこないというのなら、念願が足りないか、念願の仕方が間違っているかのどちらかだ。
正しい念願の仕方、祈りの仕方について述べれば、一回一分間、少なくとも朝と夜の二回、できれば四、五回、心と体をリラックスさせて、宇宙の心に届くように願望や夢の実現を想念することである。「ぜひともやってみせる」、「必ず実現させる」と念ずるのである。
その際、目標達成を図形化してイメージしたり、睡眠の直前直後に実行すれば、より効果は大きくなり、実現の時期も早まる。また、想念を送ったり、瞑想(めいそう)するだけでなく、言葉に出して確認することも大切。
例えば、「人前でもっと上手にしゃべりたい」とか、「記憶力や創造力をもっと伸ばしたい」、「美しくなりたい」、「健康な肉体を作り出したい」といったことなど、自分に切実で他人に打ち明けにくいような願望も、朝の寝床での半意識状態、夜の眠りに入ろうとする直前を中心に、どんどん言葉に出して念じ、よいことばかりを願って暮らせばよい。不思議と願いがかなうのである。
重要なのは、積極的な心構えを培い、想念するということである。「できないのではないか」、「私には到底無理だ」というような消極的、否定的な考えを一切、排除することである。
■素晴らしい前途を切り開く道を妨げているのは、ほかならぬ自分自身の心の中に原因がある。■
消極的な考えを捨て、「できる」、「やってやる」と積極的に想念し、宇宙の心によい情報だけを送る。それが願望を達成し、成功を実現する近道なのである。
「どうせできやしない」、「やっても無駄だ」と失敗を恐れたり、やる気を失ったり、前途を悲観ばかりしていれば、それらマイナスの情報も潜在性意識に刻み込まれ、やがて現実の世界に具現化されてしまいかねない。
極端なことをいうなら、「私は貧乏だ」、「不幸だ」と常々口に出している人は、貧乏から抜け出せないし、不幸にもなる。ホラ吹きといわれても、「私は金持ちになる」、「幸せになる」と公言し、心の中で思いを強くして、潜在性意識に刻み続ける人は、金持ちになり、幸福にもなる。
つまり、宇宙の見えざる真善美楽・健幸愛和の法則からすれば、誰にでも洋々たる未来があり、限りない能力が備わっているにもかかわらず、素晴らしい前途を切り開く道を妨げているのは、ほかならぬ自分自身の心の中に原因があるということになる。
消極性や恐怖心、弱点やコンプレックスなどを克服し、自己に対する自信を身に着けなければ、成功はあり得ないということである。
■積極的、肯定的な一種の自己暗示法による想像は、そのまま創造につながるのだ。ここに人間の偉大性があることを、知らなくてはならない。■
念願、祈り、想念というのは、どうしても願いをかなえたいという真剣な気持ちと、絶対にかなえられるという信念、すなわち、積極的な心構えとやる気に満ち、実行するところに、最大の効果が発揮される。
一般に、「運がよくない」とこぼしている人は、潜在性意識の底に焼き付くほどの強力な、統一された願望や希望がないのである。
一方、「これが第一の人生目標である」と断言できるほどの人は、その目標は半ば成就された、といっても過言ではない。現象世界ではまだ成就されていなくても、目に見えない空の世界においては、実現のための作業が着々と、進められているからである。その作業は、宇宙の力がやっているのである。
人間というものは真なる力を活用して、生命を奮い立たせるような願望を持ち続ければ、自分を思うような人間に改造することができる。「人間の理想は、こうあるべきである」と心の中で考えた時、すでにその人は神性を発揮したといえる。
積極的、肯定的な一種の自己暗示法による想像は、そのまま創造につながるのだ。ここに人間の偉大性があることを、知らなくてはならない。
そもそも人間の体は、働きそのものである。仕事や勉強に忠実、勤勉の毎日を積めば、将来の生活の基礎となる自己というものが、自然に確立するのである。
その点、一日一日を大切にすると同様に、自らの将来のことでも、自分の家庭のことでも、会社の仕事や経営のことでも、先の先を読み取ること、壮大で、かつ綿密な先見性を身に着けることも、大切となる。長い単位としては二十年後、中期では五年から十年後、短期でも一年から二年先までの状態を見詰める。
二十年先には、どうなっているか、どうすべきかと考える。そのためには十年後には、どうなっていなければならないか。その十年後の自分や家庭や会社の理想の状態を可能にするには、一年後には、どう進展していなければならないか。さらに、そのためには明日、そして今日、やるべきことは何かを考える。
二十年後という大きな展望から、今日やるべきことまでを考えるのである。二十年後の状態というのは、まだボンヤリとしか見渡せないだろう。
しかし、それを十年後、五年後、一年後といったように細分化してゆくと、今日やるべきことにたどり着く。つまり、今日一日の実行すべきことというのは、一見見えないようであっても、実は二十年後にちゃんとつながっていくのである。
こういう将来展望という大目標、今日一日やるべきことという小目標は、人間にとって非常に大切である。人間は目的に向かってこそ、努力をしたり、苦労をしたりできるもので、それこそ雲をつかむような漠然とした状態では、やる気の出しようもない。
■目標を明確にすることによって、やる気が確たるものになるし、目標があってはじめて、生きがいも生まれるのである。■
目標は大切だが、あまりにも現実離れした高い目標を掲げてしまうと、人間はその能力を発揮できないものである。
目標が適度だった場合には、人間は「よし、やってやろう」とやる気が出る。それが大きすぎたり、高すぎたり、漠然としたものでは、気持ちがついていかない。
成功した人の話を聞いてみると、大目標と小目標の使い分けがうまい人が多いものである。「絶対社長になろう。会社を十倍にしてみせる」などと、十年後、二十年先の大目標はもちろん持ちつつ、「まず、この目の前にある仕事を成功させるのだ」、「今度の商談は絶対にまとめてみせる」と、ちゃんと目に見えやすい小目標も同時に持っている。
つかみやすい単純な目標は、人間に力を与える。「頑張れば達成できそうだ」と思えれば、気持ちが前向きになるのである。
誰もが「どうしても、これをしなければならない」と没頭し、成功した体験があるはずだが、それは目標が明確であったからである。
成功したいという決心、それに向かっての情熱、やる気、想念が人生における成功のカギであるが、目標を明確にすることによって、やる気が確たるものになるし、目標があってはじめて、生きがいも生まれるのである。
生きがいとなる大目標についていえば、例えば金持ちになりたいという気持ちは、人間誰にもあるはずだし、また努力もしているだろう。しかし、ここから先、アプローチの仕方が重要なのである。
■自分の能力以上と思われる大きなテーマを目標として、「やってみよう」と決断し、全力で取り組むことが、人生においては大切である。■
企業内で出世することによって、大目標を達成するのか。事業を起こして、金持ちになるのか。あるいは、プロのスポーツ選手や音楽家などを目指して、実現しようとするのか。
方法は多様であり、どれを選択するのかをまず決めることから、スタートしよう。その上で、私の若かりし頃のように実業家を目指すのであれば、何年先に自社所有のビルを持つのか、持つとすれば何階建てにするのか、場所はどこにするのかなどと、できるだけ具体的にしていくのである。
学者になりたいということであれば、専門の分野は何か、どの大学で教えるのか、はたまた、世界最先端をいく学者としてノーベル賞を目指すのかといった点まで、明確にすべきである。
また、目標は一つでなければならぬわけではない。それどころか、学校や仕事における目標、家庭生活における目標、さらにはトータルなライフスタイルでの目標と、異なる方面ごとに目標を掲げ、それぞれの達成へ向けて積極的に挑戦し、人生の春夏秋冬に渡って情熱を傾け続けることも、真に有意義である。
人生における目標は、大きければ大きいほどいい。あまりにも現実離れした目標であってはならぬが、自分の能力以上と思われる大きなテーマを目標として、「やってみよう」と決断し、全力で取り組むことが、人生においては大切である。成功している人はすべて、その道を通ってきている。
逆に、小さな目標を設定し、それすら達成できなければ、計り知れないほどのダメージを受け、立ち直るのに時間がかかる。
■人間は目標を突破するたびに、自信がついてくるものである。目標を一つ越えるごとに、積極的で、たくましい、やる気人間に変身していく。■
大きな目標を掲げた場合は、当然のことながら、自分の能力との食い違いを埋める努力をしなくてはならないし、挫折感を味わうことにもなろう。だが、努力を繰り返してこそ、人間の能力、才能というものは磨かれていくのであり、運命は開かれるのである。
その上、人間は目標を突破するたびに、自信がついてくるものである。目標を一つ越えるごとに、積極的で、たくましい、やる気人間に変身していくのだ。
別の言葉でいえば、大きな目標に向かうということは、苦難の連続でもあるわけだが、挫折や苦難を突破するたびに信念がより強固になり、自分でも気付かなかった潜在能力が次々と開花したりもするのだ。胸に抱く夢の大きさが、その人の将来の大きさを決定する、といってもよい。
つまり、有名大学への入学、一流会社への入社といった近い将来の目標を設定するとともに、十年後、二十年後を見据えた大きな目標、人生においてかくありたいという目標を掲げることが、大切になってくるのだ。
同じ高さの山を見ても、一方は「大きな山だ」と感じて引き返し、他方は「とにかく登ってみよう」と挑戦する。いうまでもなく、大きな成果、成功を手中にすることができるのは、後者のような積極的思考の持ち主である。
■目の前に立ちふさがる山や障害の多くは、自分の考え方一つで高くもなるし、低くもなる。■
おそらく現実には、自分の置かれている状況や実力からして、目の前に立ちふさがる障害を突破することは困難であるし、どう考えても目標を達成するのは至難と思っている人も、多いことだろう。
なぜ消極的思考に捕らわれ、やる気を失ってしまうのか。なぜ悲観的に考え、前に進もうとしないのか。
目の前に立ちふさがる山や障害の多くは、自分の考え方一つで高くもなるし、低くもなるということについての、認識が浅いからである。積極的思考がいかに大きな力を与えるかということについての、理解が足りないからである。大きな目標を達成することは不可能なのではないかと恐れていては、いい結果は決して生まれない。
楽観的、かつ積極的に、「山は登れる。必ず成功する」と確信して取り組むところに、宇宙の真善美楽・健幸愛和の法則が働き、創造的で無限の供給を得て、事をなし得るのである。
この点、成功者と呼ばれる人物は、並外れた努力家であり、やる気、忍耐力、あるいは信念が強かった人たちである。一方、何をやっても成功しないという人は、あまりにあきらめが早く、不可能という言葉に慣れすぎているだけだといえる。
ここで認識すべきは、目標を明確にしたら、次は目標達成に一歩でも近付こうと真剣な姿勢をとること、我慢強く努力すること、信念を持って行動すること、それが成功へのステップであるということだ。
しかし、注意しなければならないことがある。成功するためには努力や忍耐力が確かに必要であるが、それらのみで成功することはできないのである。成功する条件は、単なる努力、忍耐力、意欲といったものだけでは満たされないわけだ。
■自分の描いている目標や夢を達成させるには、背水の陣を敷いて当たるとともに、強く念願し、祈る方法も有効。■
反面、たとえ意志が弱い人でも、自信を喪失している人でも、目標をかなえることは可能なのである。
その成功の条件、原動力となるのは、「どうしても目標を達成させたい」という切羽詰まった気持ちである。「もう後には一歩も引けない」と、ぎりぎりまで追い込まれたことによって、引き出される気持ちである。
これはまさに、絶体絶命の立場にあえて身を置くという、背水の陣における決意であるし、必死の覚悟で事に当たる時、私たち人間は素晴らしいエネルギーを発揮できるのである。
人間が自分の描いている目標や夢を達成させるには、背水の陣を敷いて当たるとともに、強く念願し、祈る方法も有効である。
「どんな困難があろうとも、必ずやってやる」と、自分の潜在性の無意識、空意識に何かと祈り込み、刻み込んでおくと、時を得て実現して現れるということが、実際に起こるのである。
そもそも、人間の肉体に刻み込まれた記憶というものくらい、しぶとく、根の深いものはない。いい年をした、屈強の男性の中にも、思い掛けず高所恐怖症だったり、水を怖がったり、稲妻に出合うと全身の血の気が引いて真っ青になったりする人がいる。対面恐怖症の人や赤面恐怖症の人も、潜在性の無意識、空意識に刻み付けられた根深い記憶が、時と場合によって、よみがえってしまうのである。
その種のマイナスの記憶が、肉体内の無意識層、空意識層に刻み込まれるならば、人間の願望を込めた積極的な祈りもまた、刻み込むことが可能なわけだ。
■思いを固く観念として維持していれば、自然にその人の表情を操作し、その人の人相を形作り、その人の発する言葉の端々にまで反映されるものである。■
「そうありたい」と潜在性の意識に刻み込み、心に念じたことが実現する、かなうという願望の実現もある。
念願、あるいは観念という意識は、それだけでは抽象的で、無力で、実体のない自己満足のようなものであるが、持ち方いかんでは、人間の一生を左右するほどの力を有することもあるのだ。
毎日毎日、同じ思いを心の中に持ち続けていると、文字通り身も心も、その思い通りになる。さらに、思いを固く観念として維持していれば、自然にその人の表情を操作し、その人の人相を形作り、その人の発する言葉の端々にまで反映されるものである。
かくして、やがて観念の力が強まり、意思の力を上回るようになってくると、徐々にその人の願望が宇宙天地大自然の心に強く刻み込まれていき、いったん宇宙の心に刻み込まれたものは、いかなる障害があろうとも、ついには現実のものとなるのである。
つまり、人間が念じ、祈ることによって、人間を成功に導く力が流れ込み、驚くべき力が備わるのである。
宇宙天地大自然の心には、人間の念願、選択など心の中に描かれたものを受け取り、それを現象の世界に造形する原理がある。宇宙の心には、無限の力が潜んでいるのである。
無限の力を引き出すのも、引き出さないのも自分次第であり、「必ず実現させる」、「きっと夢をかなえる」と念願し、祈り、宇宙の心に強く刻み付ければ、いつしか現実のものとなるのである。
もちろん、小さな願望や夢であればすぐにでもかなえられるが、大きな願望や夢が実現するには、かなりの時間が必要。夢の大小によって、実現する時間の違いはある。
■自分に切実で他人に打ち明けにくいような願望も、朝の寝床での半意識状態、夜の眠りに入ろうとする直前を中心に、どんどん言葉に出して念じ、よいことばかりを願って暮らせばよい。■
いずれにせよ、もし宇宙の心のエネルギーが自分の元にやってこないというのなら、念願が足りないか、念願の仕方が間違っているかのどちらかだ。
正しい念願の仕方、祈りの仕方について述べれば、一回一分間、少なくとも朝と夜の二回、できれば四、五回、心と体をリラックスさせて、宇宙の心に届くように願望や夢の実現を想念することである。「ぜひともやってみせる」、「必ず実現させる」と念ずるのである。
その際、目標達成を図形化してイメージしたり、睡眠の直前直後に実行すれば、より効果は大きくなり、実現の時期も早まる。また、想念を送ったり、瞑想(めいそう)するだけでなく、言葉に出して確認することも大切。
例えば、「人前でもっと上手にしゃべりたい」とか、「記憶力や創造力をもっと伸ばしたい」、「美しくなりたい」、「健康な肉体を作り出したい」といったことなど、自分に切実で他人に打ち明けにくいような願望も、朝の寝床での半意識状態、夜の眠りに入ろうとする直前を中心に、どんどん言葉に出して念じ、よいことばかりを願って暮らせばよい。不思議と願いがかなうのである。
重要なのは、積極的な心構えを培い、想念するということである。「できないのではないか」、「私には到底無理だ」というような消極的、否定的な考えを一切、排除することである。
■素晴らしい前途を切り開く道を妨げているのは、ほかならぬ自分自身の心の中に原因がある。■
消極的な考えを捨て、「できる」、「やってやる」と積極的に想念し、宇宙の心によい情報だけを送る。それが願望を達成し、成功を実現する近道なのである。
「どうせできやしない」、「やっても無駄だ」と失敗を恐れたり、やる気を失ったり、前途を悲観ばかりしていれば、それらマイナスの情報も潜在性意識に刻み込まれ、やがて現実の世界に具現化されてしまいかねない。
極端なことをいうなら、「私は貧乏だ」、「不幸だ」と常々口に出している人は、貧乏から抜け出せないし、不幸にもなる。ホラ吹きといわれても、「私は金持ちになる」、「幸せになる」と公言し、心の中で思いを強くして、潜在性意識に刻み続ける人は、金持ちになり、幸福にもなる。
つまり、宇宙の見えざる真善美楽・健幸愛和の法則からすれば、誰にでも洋々たる未来があり、限りない能力が備わっているにもかかわらず、素晴らしい前途を切り開く道を妨げているのは、ほかならぬ自分自身の心の中に原因があるということになる。
消極性や恐怖心、弱点やコンプレックスなどを克服し、自己に対する自信を身に着けなければ、成功はあり得ないということである。
■積極的、肯定的な一種の自己暗示法による想像は、そのまま創造につながるのだ。ここに人間の偉大性があることを、知らなくてはならない。■
念願、祈り、想念というのは、どうしても願いをかなえたいという真剣な気持ちと、絶対にかなえられるという信念、すなわち、積極的な心構えとやる気に満ち、実行するところに、最大の効果が発揮される。
一般に、「運がよくない」とこぼしている人は、潜在性意識の底に焼き付くほどの強力な、統一された願望や希望がないのである。
一方、「これが第一の人生目標である」と断言できるほどの人は、その目標は半ば成就された、といっても過言ではない。現象世界ではまだ成就されていなくても、目に見えない空の世界においては、実現のための作業が着々と、進められているからである。その作業は、宇宙の力がやっているのである。
人間というものは真なる力を活用して、生命を奮い立たせるような願望を持ち続ければ、自分を思うような人間に改造することができる。「人間の理想は、こうあるべきである」と心の中で考えた時、すでにその人は神性を発揮したといえる。
積極的、肯定的な一種の自己暗示法による想像は、そのまま創造につながるのだ。ここに人間の偉大性があることを、知らなくてはならない。
■自分に適した出し方を知る [やる気を出す]
■積極性に満ちた心理状態で事に取り組めば、会社の仕事の能率も上がる。■
毎日毎日の日常生活において、私たち人間が仕事や勉強に臨む場合、「やらなければならない気持ち」である使命感と、「やりたくない気持ち」である嫌気、その両方の間を揺れ動いているのが普通であろう。
双方の気持ちのうち、後者の嫌気のほうが強ければ、もちろん、人間は誰も行動を起こさない。仕事や勉強に手をつけずに、そのまま投げ出しておくだけである。
しかし、前者の使命感のほうが高まってきて、嫌気との二つの気持ちの割合が同じでも、人間は簡単には行動に移ることはでききない。たとえ行動に移したとしても、この段階ではやる気が足りないから、仕事や勉強はなかなか順調に、はかどらない。
どちらかといえば、やりたくない気持ちがじゃま立てをして、集中力が出ず、嫌気が差すのみ。気が散ってばかりいて、少しも身が入らないというのは、こうした心理状態といえる。当然のことながら、自分本来の能力を発揮することは無理だろう。
ここで何らかの理由で勢い、弾みが加わって、やらなければならない気持ちが高まり、やりたくない気持ちとの割合が六対四、七対三といった具合に変化したならば、人間は身を入れて行動し始めることができる。
「よし、やろう」というやる気や、元気が湧いてくるのである。こうした積極性に満ちた心理状態で事に取り組めば、会社の仕事の能率も上がるし、学校の授業もよく理解できてくる。
やらなければならない気持ちと、やりたくない気持ちの葛藤(かっとう)は、仕事の締め切りが迫った時や、会議での発表を前にした時、期末試験が近付いた時など、誰でも経験ずみだろう。
■やる気を一気に燃え上がらせるための起爆剤が、きっかけという刺激なのである。■
二つの気持ちが葛藤している時、「うまくできるかどうか」という不安や、「できるなら逃げ出してしまいたい」といった消極的な気持ちを抑え、何らかの方法で、やらなければならない気持ちを後押しできるなら、やる気や意欲が不安などを抑え込み、自分が持っている能力や実力を十分に、発揮できるようになってくるものだ。
それは、誰にも身近な、朝目覚めて起きること一つにもいえることである。「会社に出勤せず、このまま寝ていたい」気持ちと、「ゆかなくてはならない」気持ちが対等に張り合っていたら、いつまでたってもグズグズして、布団の中から抜け出せない。
だが、意を決して布団を勢いよくはねのけて起き上がると、迷っていた気持ちがうそのように消え、「さあ、会社にゆかなくては」という気分に変わってくる。一気に「今日も頑張るぞ」と、その日一日に立ち向かう気力が湧いてくる人も、少なからずいることだろう。
元気よく布団を離れることで、消極的な気持ちよりも、積極的な使命感のほうが上回って、自然にやる気や気力が出てきたのである。すなわち、体を動かす行為がきっかけとなって、積極的な気持ちを押し上げてくれたわけである。
このようにして、積極的な使命感や気持ちを高めることができれば、気持ちの均衡は、やる気の出なかった状態から、やる気の出る状態に一気に傾いていく。
いい換えれば、それまではくすぶっているだけで、なかなか火が付かなかったやる気を一気に燃え上がらせるための起爆剤が、きっかけという刺激なのである。
■行動を起こす前だけでなく、行動中、作業中にも自分にうまく刺激を与え、やる気や集中力を復活させることも、大切なわけだ。■
事に臨んでやる気を出す方法には、実に種々なやり方、さまざまな手段がある。要は、自分に刺激を与えることで、精神の緊張状態を瞬間的に高めることが、大事なのである。例えていえば、ジャンプをして低いところから高いところへ跳び移るように、やる気の水準を素早く上げるわけだ。
ただし、いくらやる気を出そうと試みても、嫌気のほうが圧倒的に強い場合は、大して効果がない。この時には、やらなければという気持ちの水準を引き上げて、きっかけ刺激が効果の及ぶ状態にまで、持ち込むことが必要となってくる。
やろうという気持ちとやりたくない気持ちが四対六、あるいは五分五分の状態になれば、後はきっかけ刺激一つで、一挙に六対四、七対三の状態に持っていくことが可能で、今までとは見違えるほどのやる気や集中力が出てくるのである。
きっかけ刺激によって、精神の緊張を瞬間的に高めてやると、その勢いでやる気や集中力も、急上昇していくわけだ。
ところが残念なことに、人間のやる気や集中力というものは、いつまでも続くものではない。疲労などによって、水準が次第に落ちると、やがてまた、やる気と嫌気が五分五分に近くなってきて、仕事や勉強の能率も、当然のことながら落ちてくる。
そうなったら、再び、やらなければいけないという気持ちに刺激を与えることが、必要になってくる。
人間が行動を起こす前だけでなく、行動中、作業中にも自分にうまく刺激を与え、やる気や集中力を復活させることも、大切なわけだ。この途中のきっかけ刺激がうまくいけば、長時間の仕事、勉強にも精力的に取り組むことができる。
■人からやる気を鼓舞してもらうのも、決して悪いことではないにしろ、あまりに他人にばかり頼っていては、問題が生じる。■
やる気というものは、自分で出すばかりではなく、人から出してもらうという方法もある。昔の軍隊で「精神を鍛えるため」と称した体罰や、スポーツのしごき、特訓を思い浮かべると、失敗した時の他人の罰が怖くて精神が緊張し、やらなければいけないという気持ちが高まることも、あながち否定できない。
一般的な例を挙げれば、職場の雰囲気がたるんできた時、上司が大声で一喝すると、全員がピリッとして、仕事に身を入れるようになったりする。部下たちから見れば、上司からやる気を出してもらったわけだ。
このように人からやる気を鼓舞してもらうのも、決して悪いことではないにしろ、あまりに他人にばかり頼っていては、問題が生じる。常に他人に依存していると、一喝してくれたり、叱(しか)ってくれる人がいなければ、肝心な時に、やる気や意欲を出せないということになりかねない。
長年、指摘されてきたように、島国育ちの日本人は集団で行動しないと不安になる傾向が強いようだが、やる気を出すことばかりは、他人に頼っていたり、人と同じことをしているだけでは、なかなかうまくいかないのである。
なぜなら、どういうやる気の出し方が効果が高いかということは、人によって個人差があるのだ。
太郎にとっては、効果の高いやる気喚起法でも、花子にとっては効果が低いということも、決して珍しくはないのだ。ライバル打倒の闘志を弾みに、やる気が出る太郎のような人もいれば、成功した時の充実感を想像することで、やる気の出る花子のような人もいるのである。
どんな方法がいい悪いの問題ではなく、それぞれの人に適した方法があるということである。
つまり、自分がやる気を出すには、人のまねをしているだけでは駄目なわけで、やはり、最初は試行錯誤しながらも、自分にとって一番効果の高い方法を探していくしかないだろう。
■名監督、知将などと称される人物は、選手たちの動きや表情を見て、彼らの心理をはかり、いつ、どんなタイミングで発奮させればいいのか、よく心得ているものである。■
事に当たっての、自分に適したやる気の出し方があるとともに、そのやる気を喚起する適当な好機、タイミングというものもある。
スポーツの監督などは、練習で選手たちが得た力を十二分に、試合中に発揮させるやる気の出させ方に習熟しており、とりわけ活を入れたり、気合を入れる間合いをはかるのが、うまいものである。
このやる気喚起のタイミングが早すぎると、かえって自軍の選手たちのやる気や集中力、闘争心が中断され、意欲に水を差すようなことになったり、監督自らに反発を感じさせるようなことになりかねない。
逆に、やる気喚起のタイミングが遅すぎれば、選手たちのやる気をすっかり失わせ、試合の流れを不利な展開に陥れるようなことになりかねない。
この点、名監督、知将などと称される人物は、選手たちの動きや表情を見て、彼らの心理をはかり、いつ、どんなタイミングで発奮させればいいのか、よく心得ているものである。
ともかく、せっかくやる気を喚起しても、その呼び起こし方によっては、効果が全く生きてこないことがある。やる気は、ただむやみやたらに喚起すればいいわけではない。
タイミングについて考えてみると、やる気喚起というのは、瞬間的な起爆剤である。やる気喚起、きっかけ刺激によって起こるやる気や興奮、集中力は、そうそう長く続くものではない。その効果が持続するのは、うまくいって二、三時間といったところであろう。
■今まで集中してきたことから一瞬、意識が離れるような折、再び作業に戻る前に軽くやる気を喚起すると、次の仕事が順調に運ぶものである。■
やる気の喚起は普通、今から事を始める直前や、ここからが正念場だという直前に行うのが、最も効果的なタイミングである。
一例を挙げれば、午後から重要な仕事が待ち構えているという日に、朝から「さあ、やるしかない」と、いくら入れ込んでも、そのやる気や集中力がそのまま、午後まで持続することは、なかなかないはず。むしろ、あまりに早くからやる気を出してしまうと、肝心な時になって疲れてしまい、力を発揮できなくなってしまうのが、世の常、人間の常だ。
今から何か大きな商談をしたり、人前で話したりするという時には、もちろん直前にやる気を喚起すればいいわけだが、やる気の喚起が必要になってくるのは、こうした直前ばかりとは限らない。
先にも述べた通り、ある程度継続して行う仕事などの場合は、途中で呼び起こし直す必要が出てくる。この途中でやる気を喚起するタイミングは、一般に「やる気がなくなってきたな」、「何となくダレてきたな」と自分で感じられる時だが、事務仕事をしている場合などは、能率が落ちてきたことになかなか気付かず、そのまま惰性で続けてしまうことが、往々にしてあるもの。
自分ではわかりにくい、やる気を入れ直すタイミングを知る一つのコツは、仕事のちょっとした区切り目を活用することである。仕事中に電話がかかってきて、作業が一時中断したような時や、一枚目の書類の作成を終わって、二枚目に取り掛かるような時が、この区切り目に相当する。
つまり、今まで集中してきたことから一瞬、意識が離れるような折、再び作業に戻る前に軽くやる気を喚起すると、次の仕事が順調に運ぶものである。
その方法、手段は、自分の体を手で軽くたたいたり、洗面所へいって冷たい水で顔や手を洗うなどの物理的刺激でもいい。仕事に集中している周囲の人を見回して、自分の心に活を入れるという心理的刺激でもかまわない。
もちろん、この軽いやる気喚起は、何時間に一度というようなルールを決めずに、一つの仕事を続ける間、思い立ったら何度行ってもいい。
毎日毎日の日常生活において、私たち人間が仕事や勉強に臨む場合、「やらなければならない気持ち」である使命感と、「やりたくない気持ち」である嫌気、その両方の間を揺れ動いているのが普通であろう。
双方の気持ちのうち、後者の嫌気のほうが強ければ、もちろん、人間は誰も行動を起こさない。仕事や勉強に手をつけずに、そのまま投げ出しておくだけである。
しかし、前者の使命感のほうが高まってきて、嫌気との二つの気持ちの割合が同じでも、人間は簡単には行動に移ることはでききない。たとえ行動に移したとしても、この段階ではやる気が足りないから、仕事や勉強はなかなか順調に、はかどらない。
どちらかといえば、やりたくない気持ちがじゃま立てをして、集中力が出ず、嫌気が差すのみ。気が散ってばかりいて、少しも身が入らないというのは、こうした心理状態といえる。当然のことながら、自分本来の能力を発揮することは無理だろう。
ここで何らかの理由で勢い、弾みが加わって、やらなければならない気持ちが高まり、やりたくない気持ちとの割合が六対四、七対三といった具合に変化したならば、人間は身を入れて行動し始めることができる。
「よし、やろう」というやる気や、元気が湧いてくるのである。こうした積極性に満ちた心理状態で事に取り組めば、会社の仕事の能率も上がるし、学校の授業もよく理解できてくる。
やらなければならない気持ちと、やりたくない気持ちの葛藤(かっとう)は、仕事の締め切りが迫った時や、会議での発表を前にした時、期末試験が近付いた時など、誰でも経験ずみだろう。
■やる気を一気に燃え上がらせるための起爆剤が、きっかけという刺激なのである。■
二つの気持ちが葛藤している時、「うまくできるかどうか」という不安や、「できるなら逃げ出してしまいたい」といった消極的な気持ちを抑え、何らかの方法で、やらなければならない気持ちを後押しできるなら、やる気や意欲が不安などを抑え込み、自分が持っている能力や実力を十分に、発揮できるようになってくるものだ。
それは、誰にも身近な、朝目覚めて起きること一つにもいえることである。「会社に出勤せず、このまま寝ていたい」気持ちと、「ゆかなくてはならない」気持ちが対等に張り合っていたら、いつまでたってもグズグズして、布団の中から抜け出せない。
だが、意を決して布団を勢いよくはねのけて起き上がると、迷っていた気持ちがうそのように消え、「さあ、会社にゆかなくては」という気分に変わってくる。一気に「今日も頑張るぞ」と、その日一日に立ち向かう気力が湧いてくる人も、少なからずいることだろう。
元気よく布団を離れることで、消極的な気持ちよりも、積極的な使命感のほうが上回って、自然にやる気や気力が出てきたのである。すなわち、体を動かす行為がきっかけとなって、積極的な気持ちを押し上げてくれたわけである。
このようにして、積極的な使命感や気持ちを高めることができれば、気持ちの均衡は、やる気の出なかった状態から、やる気の出る状態に一気に傾いていく。
いい換えれば、それまではくすぶっているだけで、なかなか火が付かなかったやる気を一気に燃え上がらせるための起爆剤が、きっかけという刺激なのである。
■行動を起こす前だけでなく、行動中、作業中にも自分にうまく刺激を与え、やる気や集中力を復活させることも、大切なわけだ。■
事に臨んでやる気を出す方法には、実に種々なやり方、さまざまな手段がある。要は、自分に刺激を与えることで、精神の緊張状態を瞬間的に高めることが、大事なのである。例えていえば、ジャンプをして低いところから高いところへ跳び移るように、やる気の水準を素早く上げるわけだ。
ただし、いくらやる気を出そうと試みても、嫌気のほうが圧倒的に強い場合は、大して効果がない。この時には、やらなければという気持ちの水準を引き上げて、きっかけ刺激が効果の及ぶ状態にまで、持ち込むことが必要となってくる。
やろうという気持ちとやりたくない気持ちが四対六、あるいは五分五分の状態になれば、後はきっかけ刺激一つで、一挙に六対四、七対三の状態に持っていくことが可能で、今までとは見違えるほどのやる気や集中力が出てくるのである。
きっかけ刺激によって、精神の緊張を瞬間的に高めてやると、その勢いでやる気や集中力も、急上昇していくわけだ。
ところが残念なことに、人間のやる気や集中力というものは、いつまでも続くものではない。疲労などによって、水準が次第に落ちると、やがてまた、やる気と嫌気が五分五分に近くなってきて、仕事や勉強の能率も、当然のことながら落ちてくる。
そうなったら、再び、やらなければいけないという気持ちに刺激を与えることが、必要になってくる。
人間が行動を起こす前だけでなく、行動中、作業中にも自分にうまく刺激を与え、やる気や集中力を復活させることも、大切なわけだ。この途中のきっかけ刺激がうまくいけば、長時間の仕事、勉強にも精力的に取り組むことができる。
■人からやる気を鼓舞してもらうのも、決して悪いことではないにしろ、あまりに他人にばかり頼っていては、問題が生じる。■
やる気というものは、自分で出すばかりではなく、人から出してもらうという方法もある。昔の軍隊で「精神を鍛えるため」と称した体罰や、スポーツのしごき、特訓を思い浮かべると、失敗した時の他人の罰が怖くて精神が緊張し、やらなければいけないという気持ちが高まることも、あながち否定できない。
一般的な例を挙げれば、職場の雰囲気がたるんできた時、上司が大声で一喝すると、全員がピリッとして、仕事に身を入れるようになったりする。部下たちから見れば、上司からやる気を出してもらったわけだ。
このように人からやる気を鼓舞してもらうのも、決して悪いことではないにしろ、あまりに他人にばかり頼っていては、問題が生じる。常に他人に依存していると、一喝してくれたり、叱(しか)ってくれる人がいなければ、肝心な時に、やる気や意欲を出せないということになりかねない。
長年、指摘されてきたように、島国育ちの日本人は集団で行動しないと不安になる傾向が強いようだが、やる気を出すことばかりは、他人に頼っていたり、人と同じことをしているだけでは、なかなかうまくいかないのである。
なぜなら、どういうやる気の出し方が効果が高いかということは、人によって個人差があるのだ。
太郎にとっては、効果の高いやる気喚起法でも、花子にとっては効果が低いということも、決して珍しくはないのだ。ライバル打倒の闘志を弾みに、やる気が出る太郎のような人もいれば、成功した時の充実感を想像することで、やる気の出る花子のような人もいるのである。
どんな方法がいい悪いの問題ではなく、それぞれの人に適した方法があるということである。
つまり、自分がやる気を出すには、人のまねをしているだけでは駄目なわけで、やはり、最初は試行錯誤しながらも、自分にとって一番効果の高い方法を探していくしかないだろう。
■名監督、知将などと称される人物は、選手たちの動きや表情を見て、彼らの心理をはかり、いつ、どんなタイミングで発奮させればいいのか、よく心得ているものである。■
事に当たっての、自分に適したやる気の出し方があるとともに、そのやる気を喚起する適当な好機、タイミングというものもある。
スポーツの監督などは、練習で選手たちが得た力を十二分に、試合中に発揮させるやる気の出させ方に習熟しており、とりわけ活を入れたり、気合を入れる間合いをはかるのが、うまいものである。
このやる気喚起のタイミングが早すぎると、かえって自軍の選手たちのやる気や集中力、闘争心が中断され、意欲に水を差すようなことになったり、監督自らに反発を感じさせるようなことになりかねない。
逆に、やる気喚起のタイミングが遅すぎれば、選手たちのやる気をすっかり失わせ、試合の流れを不利な展開に陥れるようなことになりかねない。
この点、名監督、知将などと称される人物は、選手たちの動きや表情を見て、彼らの心理をはかり、いつ、どんなタイミングで発奮させればいいのか、よく心得ているものである。
ともかく、せっかくやる気を喚起しても、その呼び起こし方によっては、効果が全く生きてこないことがある。やる気は、ただむやみやたらに喚起すればいいわけではない。
タイミングについて考えてみると、やる気喚起というのは、瞬間的な起爆剤である。やる気喚起、きっかけ刺激によって起こるやる気や興奮、集中力は、そうそう長く続くものではない。その効果が持続するのは、うまくいって二、三時間といったところであろう。
■今まで集中してきたことから一瞬、意識が離れるような折、再び作業に戻る前に軽くやる気を喚起すると、次の仕事が順調に運ぶものである。■
やる気の喚起は普通、今から事を始める直前や、ここからが正念場だという直前に行うのが、最も効果的なタイミングである。
一例を挙げれば、午後から重要な仕事が待ち構えているという日に、朝から「さあ、やるしかない」と、いくら入れ込んでも、そのやる気や集中力がそのまま、午後まで持続することは、なかなかないはず。むしろ、あまりに早くからやる気を出してしまうと、肝心な時になって疲れてしまい、力を発揮できなくなってしまうのが、世の常、人間の常だ。
今から何か大きな商談をしたり、人前で話したりするという時には、もちろん直前にやる気を喚起すればいいわけだが、やる気の喚起が必要になってくるのは、こうした直前ばかりとは限らない。
先にも述べた通り、ある程度継続して行う仕事などの場合は、途中で呼び起こし直す必要が出てくる。この途中でやる気を喚起するタイミングは、一般に「やる気がなくなってきたな」、「何となくダレてきたな」と自分で感じられる時だが、事務仕事をしている場合などは、能率が落ちてきたことになかなか気付かず、そのまま惰性で続けてしまうことが、往々にしてあるもの。
自分ではわかりにくい、やる気を入れ直すタイミングを知る一つのコツは、仕事のちょっとした区切り目を活用することである。仕事中に電話がかかってきて、作業が一時中断したような時や、一枚目の書類の作成を終わって、二枚目に取り掛かるような時が、この区切り目に相当する。
つまり、今まで集中してきたことから一瞬、意識が離れるような折、再び作業に戻る前に軽くやる気を喚起すると、次の仕事が順調に運ぶものである。
その方法、手段は、自分の体を手で軽くたたいたり、洗面所へいって冷たい水で顔や手を洗うなどの物理的刺激でもいい。仕事に集中している周囲の人を見回して、自分の心に活を入れるという心理的刺激でもかまわない。
もちろん、この軽いやる気喚起は、何時間に一度というようなルールを決めずに、一つの仕事を続ける間、思い立ったら何度行ってもいい。