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■観相術は経験法則による判断学 [人を見抜く]

[わーい(嬉しい顔)]顔が人間のすべてを物語る
 「顔は精神の門にして、その肖像なり」と、古代ローマの政治家、哲学者のキケロは喝破した。現代に生きる私たち人間も同様に、顔によって人を見分け、精神のあり方や、人となり、心の内側までも推し量る。顔は、彼や彼女の氏や育ち、生き方、性格、教養、職業などから、喜怒哀楽まですべてを表す。
 その人間を集約する個所だから、顔は肉体の中でもその人を代表する大事な部分といえる。「相手の顔を立てる」、「人の顔に泥を塗る」、「世間に顔が広い」などという。顔は、社会に向けられたその人間の存在なのである。
 この点、「あなたは初対面の人の顔を見て、相手の性格を見抜くことができるか」とアンケートで聞いてみると、三十代までの人に比べて、四十代以上の人の肯定的な回答が目立つものである。人間は年齢と経験の積み重ねで、他人を見抜けるようになるわけだ。若い人にしても、相手の性格まではっきり見抜けなくても、一目で「この人は金持ちらしい」とか、「あの人は貧乏に違いない」などと、常識的にわかる一面があるはずである。
 私にいわせれば、顔の人相、相貌は、その人の現在を物語るばかりか、その人が先祖から受け継いだ先天的なものを表し、将来の運命さえも物語るものである。人相、相貌で長寿か否かもわかる。すべてのものは、姿、形から実質を判断でき、インスピレーションで推理もできるからである。宇宙天地大自然世界には、姿、形に関係ないものは一つとしてない。
 人間の姿、形、すなわち容貌、骨格などから性質、運命、吉凶を専門的に判断することを観相、観相術、人相、人相学などという。中国伝来のこの観相術は、一方で「当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦」といわれながら、時の宰相が足を運んだ観相家もいたほどである。
 また、かつて某大学で県下の易者グループの協力のもとに、人相と手相の的中度を調査したところ、人相は被鑑定者の性格や経歴との一致率が高いのに比して、手相ははなはだ低いという興味深い結果が出た。
 こうした観相術の領域に踏み込んでみたい。ここでで述べる観相術、人相学は、自然科学のようなものであり、知ると必ず得をするはずであるし、知っていると自分の生き方も楽になるはずのものである。
[ちっ(怒った顔)]毎日の心構えが天来の人相を変える
 人間個人に備わった人相は、天来のもの、先祖伝来のもの、一生のものである。だから、今、こういう人相を持った自分には本来、先祖といった前提があるもので、過去からのすべてのものの集合が自分であり、永遠の中に生きる自分であるということを、まず大いに自覚してもらいたいもの。
 次に、顔形(かおかたち)そのものは親から受け継いだものだから、本人に責任はないかもしれないにしろ、年頃すぎたら顔は自分が作るものといわれるように、やはり顔に表れる品格や教養は本人の責任であるということを、自覚してもらいたいものだ。
 よく「人品卑しからぬ」とか、「一癖ある顔」などという。両極端だが、どちらも顔に表れたその人間の生き様だ。骨相が遺伝的なものなら、人相の半分は後天的なものといえるだろう。
 つまり、天来の人相には動かしようがないという一面があるにしろ、毎日の心構えで変えようもあることも知ってもらいたい。
 心構え、あるいは観念などという意識は、それだけでは抽象的で実体のない自己満足のようなものであるが、この観念の持ち方いかんでは、人間の一生を左右するほどの力を持っていることさえある。  毎日毎日、同じ思いを心の中に持ち続けていると、文字通り身も心も、その思いの通りになるもの。その思いを固く観念として維持しておれば、それは自然にその人の人相を形作り、その人の表情を操作し、その人の発する言葉の端々にまで反映されてくるものである。
 心の中の想像はそのまま、精神の肖像たる顔の創造につながる。一日一日の自分の意識の集積が、自らの人相を形作ってゆく。
 とりわけ、四十歳以後の風貌は、本人自身の後天的な責任にある。「男子は四十歳になったら自分の顔に責任を持て」とは、世間でしばしば交わされる言葉で、もはや不惑は、親がどうの、仕事の上の人間関係がどうの、女房や隣人がどうのといって責任転嫁をしてお茶を濁せる年ではない。
 大学卒なら学窓を出て二十年近い四十歳代には、誰もが人生の年輪が顔に刻まれ、修養や勉学の深浅、苦労の多寡などが自然と表れるのが必然。
 だから、中年世代になると、久々のクラス会などで、旧知の同級生がまるで別人みたいに変わっていて、驚くことが少なくないはずである。
 例えば、学生時代には「ガマ」のニックネームが付けられ、醜男(ぶおとこ)の代表格と見なされたAという人物が、基礎科学の研究に専念し、四十代を迎えた時にはその道の権威者の一人になって、その顔は英知に輝き、アンバランスな目鼻立ちは一種独特の、重厚な風格をたたえている、というような場合がある。
 社会で磨かれて、四十すぎると立派な人間性を形成し、顔や姿に人格の輝きが表れるという人は、けっこう見掛けるはずだ。
 片や、クラスの中でも眉目(びもく)秀麗で名高かったBという男が、女性問題でつまずき、事業も失敗を重ね、いつも暗い、さえない表情をたたえ、実際より十年も老け込んだ顔をしている、というような場合もある。
 ただ老けた、おやじ臭くなっただけではすまされない人相の変容も、わりあい見掛けるはずだ。不細工でもいい、せめていい人相になりたいと思うのが人間自然の人情というものではあっても、世の中には、結婚生活に失敗したり、性生活を乱暴、狂態にし、それが悪癖、悪運命となって、三十から人間の不幸が目立ってくるという人も、けっこう存在するのである。
[がく~(落胆した顔)]顔に表れる良相、福相、悪相、貧相
 人間の顔は、年を取るにつれて変わる。誰しも免れ得ない事実であるが、その変わり方は、単に老化するだけではなく、いい変わり方をする場合と、悪い変わり方をする場合があるのだ。なぜ、変わり方に相違があるのか。顔にできるシワという面から考えてみよう。
 人間は年齢を重ねていくと、必然的に筋肉が衰えるにつれて、顔がだらけてしまう。目尻(めじり)や口元も下がって、そのままでは顔面の縦方向にシワが出るものである。とはいえど、自分の仕事を一生懸命やっているような人、特に上に立って部下たちを指導し、叱咤(しった)している人などは、顔に張りがあるもの。叱咤したり、命令したりすると、顔のシワが横に引っ張られるため、シワが横に出るようになるのである。
 だから、人相学的にいうと、縦ジワが多い顔は悪い顔、横ジワが多いのはいい顔ということがいえる。何事か打ち込むものを持って、張りのある生き方をしている人間は、いい顔、良相、福相になるのが当然で、縦ジワよりも横ジワが目立つ顔をしているのは、彼らの人生が充実していることの証拠といえよう。
 一方、げっそりやせて、頬がこけた顔は、いくら健康でも、周囲からは貧相に見られてしまう。また、眉間(みけん)に深い縦ジワを寄せている顔も、何か陰険そうで、いい顔とはとても思われない。
 一生を懸ける生きがいもなく、これといった熱意も持たず、のんべんだらりと、酔生夢死といった有り様で生きている彼や、心配事や悩みが尽きない、暗い生き方をしている彼女は、貧相、悪相になる傾向が強い。
 そもそも、人間というものは、先天的な、生まれついての顔をベースにしているわけである。感情を乱すこともなく、平常心を保って生きてきた人は、そのままの顔が習慣化して定着するだろう。ところが、いつも顔をしかめて、「困った」といっているような人は、眉間にシワが寄ったりして、困った表情が定着する。
 このように、長年にわたる習慣的表情は、人の顔のあり方を次第に変えていくものなのだ。
 日頃の生活が人の顔を作るとは、心理学的にもいえること。プラス志向で暮らしていれば、顔にも活力があふれてくる。そういう人は周囲にも好かれるようになるので、ますます活気に満ちた生活を送れるようになる。その結果、いい表情が定着する好循環が生まれて、いよいよ素晴らしい顔になっていくというわけである。
 そういう張りのある生き方をしている人に、自然にできる顔のシワは、浅くて、美しいものである。反対に、シワなどはそうやたらにできるものではないのに、何か大きな心配事でもあった人は、心の圧力によってシワができるもので、圧力でできたシワは非常に深く、醜い。
 結局、人相学でいういい顔になることとは、年を取るにつれて横ジワが出てくること、しかも浅いシワが自然に出てくることである。それとともに、太り顔になることもある。やせて、頬骨が出てくると、人間は残忍な顔になってしまいかねないが、太り顔はいわゆる福々しい顔ということで、豊かな生活をしているとか、悪いことはしないというように思われる。中年太りを気にしている人にとって、人相学的には太ることもまんざら悪いことではないとは、少しうれしい話ではなかろうか。
[ふらふら]観相術は経験法則による判断学
 しかしながら、従来の観相術、人相学はあまりにも、仏様の顔であり、エビス、ダイコク様の顔に近い、肉が厚く、丸みを持った福々しい顔を福相そのものと規定しすぎた傾向があるのは否めない。
 理由の一つには、成功者の晩年の満ち足りた顔貌をもって、福相の基準としたせいもある。つまり、美食と自己満足のゆとりが作り上げた福々しい顔は、成功したという結果がもたらした変化にすぎないのに、多くの観相家が陥ったワナであり、単純に考えれば肥満タイプはことごとく福相ということになりかねない。
 もっとも、昔の時代にあっては、腹いっぱい食べることは金持ちにしか許されないぜいたくであった。太り顔が福相とは、ある程度、事実に近かったかもしれない。ところが、一般庶民でも飽食、美食が普通になった現代では、むしろ不用心に太りすぎた人は自らの健康管理すらできない者と見なされ、スマートさを保つことこそが成功者の証明であるとさえいわれ出している。
 この際、あまりにも類型的で通俗的な、福々しい顔が福相で、やせこけた顔が貧相という考えに、こだわりすぎないほうがよいだろう。歴史が証明するように、いわゆる貧相で大富豪になった人もいるし、逆に、世にいう福相で貧乏な人も多い。
 観相術は本来、客観的に科学的な証明が可能なものではない。むしろ、膨大な数の観察経験を集積し、その中からタイプごとの共通項を見つけ出していく経験法則による判断学である。
 人間の顔の観察を集積し、分析していくと、共通タイプの人は、共通の資質や性格を持つことが次第にわかってくる。もちろん、共通のタイプはすべて共通の資質、性格ばかりというわけではなく、共通のタイプの人でも、あったりなかったりするものはある。その中で、百人のうち九十九人までは必ず備えているという特別に濃厚な資質、性格が鮮明に浮かび上がってくるもので、多数の観察結果を帰納して出てきた法則こそが、必然といえる特徴といえるのである。
 本サイトでは、人間の顔の型、目鼻立ちといった基本的形状のタイプから、人間の資質判断や性格判断に役立つ、最も根源的な意味を持つシグナルだけを紹介することにする。
 それらは、私の長い間の観察と研究の結果、導き出された経験法則であり、科学的証明ではない。だが、これこそ、人間を判断し、知るための基本的なものであることは、読み進むうちに次第に納得してもらえるはずである。
 皆さんは、私が述べる判断ポイントに従って、自分、あるいは恋人、友人、上役、部下などのチェックを行い、人生のいろいろな面で役立ててもらいたい。本当に人間を見抜くあなた自身の見識となれば、より幸いである。




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■目鼻立ちと顔全体から判断する [人を見抜く]

[わーい(嬉しい顔)]目鼻立ちが人間の運勢を示す
 まず、人間の顔を見る場合、目鼻立ち全体を見ておくことを勧めたい。目鼻立ちというのは、目、鼻、口の三つが中心となるもので、これらを補足しつつ、独自の意味づけを行うものが眉(まゆ)、耳、顎の三つである。
 一般に、「三つ子の魂百まで」、「人間の性格は生まれ落ちると同時に八十パーセント決まっている」などといわれており、確かに、それは人間の生まれついての顔型が変わらないのと同じく事実であろう。また、人間の能力も、天性、固有の部分が過半を占めるに違いない。
 しかし同時に、怠惰にすぎて能力がしぼんだり、努力によって能力が伸びたりすることも事実で、その人間の能力の質と強弱をはじめ、エネルギー、感情などは、何より目を中心として、鼻や口など、いわゆる目鼻立ちを通じて表れることが観察されるのである。
 なぜ、能力は目鼻立ちに表れるか。顔型と異なり、目鼻立ちはそれぞれ外界に対する役割分担を受け持っているのはご承知の通りで、目は見る、鼻は嗅(か)ぐ、口は話すし食べるし呼吸する、眉は目を保護し、耳は聞く、顎は噛(か)む原動力。
 人間がホモ・サピエンスとして直立してから数百万年、社会的生活を始めてから数万年、それぞれの器官はその長い年月の間をそれぞれの個体に所属して作用を続け、それは能力差をともなった遺伝因子として、今日の人間の五官におよんでいる。
 例えば、目は対象を識別し、観察し、比較し、判断するというきわめて知的な作用を行う。実際は、目はレンズ体として外界の情報を脳細胞に伝達するだけで、真の知的作業は脳によって行われることは当然にしろ、脳の作業先端として連動する目には、その能力やエネルギーの程度などが反映するのは必然。
 従って、「目は口ほどに物をいう」といわれる通り、目を見れば、能力の質や強弱のシグナルが表れているのである。実際にも、人間は日常生活において、程度の差こそあれ、絶えず他の人間の目を読んでいるのだ。
 私たちが人の目を見ただけで、「あ、賢い人だな」とか、「あまり善人じゃないな」と瞬時に悟るのも、あるいは、口元のちょっとしたびくつきといった、目鼻立ちの作るさまざまな表情で人の気持ちの動揺などを知るのも、このゆえである。
 そして、この目鼻立ちが顔に占める強弱感やバランス感、勢いといったものは、大まかな意味でその人間の運勢の良否を示すものである。
 大人が子供の顔を見て、その親に「ほほう、お子さんは目鼻立ちがはっきりしていて、なかなか将来が楽しみのようですね」というのは、よく耳にする会話であろう。これは実は面白い表現で、根拠のないことではない。
 人間の運勢、将来の能力発揮の良否などを最初に、大まかに見て取る方法の一つは、目、鼻などの部位を一つひとつ観察する前に、目鼻立ち全体の感じをつかむことにあるからだ。
 部分的に見たらいくらか弱点が認められる場合でも、大局的に見て、バランスのとれた伸びやかな目鼻立ちを備えていれば、運勢が上昇する人間であると断じてもよいだろう。
 「目鼻立ちがはっきりしている」という表現の意味は、目鼻立ちが伸び伸びと力感にあふれているということを、素直に捕らえた言い方である。実際に、そうした子供が成功する確率が高いことを、人々は経験的に知っている。だから、「将来が楽しみのようですね」という言葉も出てくるのである。
 とにかく、人間の顔は千差万別であるが、目鼻立ちが整った端正な感じの顔でも、特徴的なユニークな目鼻立ちの顔でも、それぞれそれなりに、どこか安定した感じを与えるバランスのよさというものがあれば、よい目鼻立ちといえるのである。
 これに反して、目鼻立ちが力弱く、縮こまった感じの人は、運勢が停滞していたり、もしくは下降するといってよいだろう。そういう人は、言葉も語勢が弱く、はっきりしないことが多いもの。
 目鼻立ちに関して忘れてならないことは、人間の目鼻立ち、あるいは顔というものは変化するということである。例えば、「以前より目鼻立ちが伸び伸びとなってきた」、「若々しく明るい感じになった」、「顔が何だか大きくしっかりとなってきた」などという好ましい変化が見られる時は、その人の運勢の上昇機運を示していると見てよい。
 反対に、「目鼻立ちがしょぼくれてきた」、「顔立ちが弱々しく老け込んだ感じになってきた」、「全体に焦点の定まらない目鼻立ちになってきた」というような変化が観察される場合には、運勢の下降機運に注意しなくてはならぬ。
[ちっ(怒った顔)]顔の部位が青年、中年、老年期を表す
 昔から伝わる観相術では、目鼻立ちの加減で運勢を見る方法のほかにも、人の顔や見掛けから、その人の資質、性格、吉凶を読み取る方法がいろいろ確立されている。
 代表的なものに、顔の部分を七十以上に区分して年齢を当てはめ、何歳の時にどんな吉凶に合うかを見る流年相法というのがある。また、額の中央を官禄宮、眉の上を福徳宮などと、顔の部分を十二に区分する、いわゆる十二宮による観相もあり、これは人相学の最も一般的な古典的手法である。この十二宮観相は、主として血色と肉付きの良否をもって見る。
 これらの観相は専門的にすぎるので、人間の顔を大きく三つに分け、それを人生の各期間に当てて見ていく、一般向きの観相術を紹介しよう。
 すなわち、人の顔は上停、中停、下停の三つに分けて、その人の一生涯を見る。上停は青年期、中停は三十~四十代の壮年期、下停は熟年、老年期を表す。
 上停とは、毛髪の生え際から両眉毛の上まで。三十歳までの青年期を示す部分で、知力、感性を表す。額、眉の間(命宮)が広いほど頭脳明晰(めいせき)で、若い頃から鋭いアイデアを生み出すとされる。つまり、おでこが広い人は頭脳明晰で、若いうちから認められる相なのである。
 中停とは、両眉毛の上から鼻先まで。三十代、四十代の壮年期を示すもので、中年時代の活動力、実行力を表す。目は愛情と大胆さ、鼻は勇気と精力の象徴。大胆な性格を表す大きな目、勇気と実行力を表すどっしりした鼻の持ち主は、成功の可能性が高いといえるだろう。小鼻の両わきの線である法令が深い線を刻んでいれば、出世が早い。
 下停は、鼻の下の溝から顎の先まで。五十代以降の熟年、晩年期を示し、その人間の意志、ゆとりをも表す。この下停で大切なのは、口と顎。口は、家族や部下に対する厳しさや愛情が出るところなので、大きいほうがいい。また、顎は豊かなほうが、恵まれた晩年を送ると見られる。
 中停の頬骨が高く、下停が貧弱な場合は、部下運がなく、人生は孤独な下降線をたどることが暗示されている相とされる。この意味で、社会的には大成功を収めたと思われる人物でも、晩年が寂しかった例として、豊臣秀吉が挙げられる。太閤(たいこう)の肖像画を見ると、顎がとがったように細くなっている。仕事では上り詰めたのだが、家族運には恵まれず、孤独な最期だったように思われるのだ。
[がく~(落胆した顔)]大きい顔は外向的、小さい顔は内向的
  次は、顔型から、その人の資質、性格のパターンを大まかに読み取る方法である。
 まず、身長の高低とは関係なく、人間を正面から全体として眺めた場合、大きい顔の人がいるし、小さい顔の人がいる。
 前者の大きい顔には、一般的な傾向として、支配することを好み、自分を押しつけたがるといった外へ向かって、膨れ上がっていく自己主張の意味がある。
 世に、「大きい顔をするな」、「フテエ面だ」などという悪口が通用しているが、これらの言葉は、大きい顔の何たるかを経験的に言い当てている。大きい面構えの人というのは、いばったり、相手を押しのけたり、出しゃばったりする確率が高いことを、昔から人々は当然のこととして知っていたわけである。
 大きな顔が外へ向けて、強く自己主張をしようとするのと反対に、小さい顔は内側のほうへエネルギーが流れやすい。自分の性格や能力を内面的に充足させようとするということだ。
 具体的にいえば、物事を綿密に確かめる、技術を磨くことに執心する、取り決めや規律に忠実に従うといったように、自分自身を求心的に引き締め、内面の充実に向かおうとする性質である。だから、服従を好み、依存性が強いという傾向を内包することになる。
 俗に、「小さくなる」、「縮こまってしまう」というように、自己主張を否定し、服従の姿勢を相手に示す時は、自然に小さい顔を作るという行動パターンを人間は持っている。小さい顔の人は、ボスには向かないのである。
 企業の経営者の場合でも、先見性や決断力といった共通的に必要な能力は別にして、人間的迫力で指導性を発揮する人は、大きな顔の持ち主である。一方、機械いじりが好きで、油にまみれているのが好きというように、技術競争を自ら先頭に立って勝ち抜く職人根性によって、社業の隆盛をはかってゆく人は、小さい顔の人が多い。
 人間には大きい顔、小さい顔のほかに、丸っぽい顔がある。丸顔の示す一般的な特徴は、直観力の発達と感情性の高さである。
 直観力が発達しているということは、裏を返せば、論理を積み重ねて長く考えるのは苦手で、一足飛びに結論に到達しようとする傾向でもある。丸顔は直覚的に真実を見抜く力を生まれつき備えているもので、考え方に予想外の飛躍があったり、きわめて機敏で、即断即決を下したりする。
 うまくゆく時は、とんとん拍子のスピードで、成功をとげることもある。一方で、いわゆるアイデアマンの要素があるためもあって、時に気分的なひらめきだけで重大な決定を下して、後でほぞを噛むことが多いのも、丸顔の持つ一面だ。
 次に、丸顔人間のもう一つの特徴である感情性だが、感情性が高いということは、他人への親近感が強いという面と、好悪感、つまり好き嫌いが激しいという面とが常に同居している状態である。
[ふらふら]丸顔と反対の性格傾向を見せる角顔
 丸っぽい顔、丸顔に対して、角っぽい顔、角顔に示されている基本の性格は、分析力と意志性である。
 分析力とは、物事の原因、結果を論理的に見極める、けじめをきちんとつける、理屈に合わないことに反発を感じる、という性格傾向を示している。直観的に結論を出したがる丸顔人間とは、反対の方向である。
 それだけに、他人の主張に即座に同調することは苦手で、時々、「物わかりが遅くて、始末に困る人だ」などと誤解されたりもする。しかし、直観や感情的な好悪感だけで性急に行動しないので、失敗も少なく、慎重で落ち着きのある人間としての評価も受ける。
 この角顔人間の分析力は、意志的性格によって裏打ちされている。意志性は、持続性に優れている、努力家である、物事に執着する傾向が強い、などといった内容を含んでいる。
 一度何かを始めると、コツコツとやりとげるまで続け、はじめは愚鈍のように見えながら、長い年月の間に大きな仕事をなしとげたという例も多い。角顔人間は丸顔人間と違って、気分次第で朝と夕ではコロリと変わってしまうということがない。
 一方で、この性向は、何かに固執し始めると止めどがなくなる側面もある。飛躍とか、応用とか、臨機応変というふうな対応が下手なのだ。
 また、親近性に富む丸顔人間とは対照的に、角顔人間は他人との間に親密さを短時間に作り出すのが不得意。どこか寄りつきにくい、無愛想、堅物といった印象を漂わせている。
 次に、長い顔の人が示す傾向は、悠長、じっくり型である。長い顔とくれば、その反対は短い顔となりそうなものだが、実際には長い顔はあっても、短い顔というのはめったにない。まれには、ひしゃげたように短い顔の人がいるが、それは例外と思ってよく、長くない顔は普通の長さの顔である。また、横幅の張った顔の人が短い顔と受け取られがちだが、それはあくまでも横幅の張った顔であって、短い顔ではない。
 顔の幅が広いのは、粘りや忍耐力を表する。例外的に短い顔の人がいたならば、即決、短気の人で、けんかっ早く、犯罪率も高い。
 さて、長い顔の人との初対面でパッと見て判断するのは、悠長、じっくり型であるとともに、論理追求型の特徴を持っているのではないかということである。
 なぜならば、学者、発明家、革命家などに長い顔の持ち主が多いからだ。俗にいえば、理屈っぽい人間、あるいは理想主義者である。このタイプの人は、理論や思想への執着性が強く、非論理的思考を押しつけられると我慢できないといった傾向を持っている。
 会合などで観察してみればよくわかることで、自己の主張をわめき散らす人は大きい顔の人が多いが、理路整然と筋道を立てようと頑張る人は大抵長い顔の持ち主だ。いわゆる一言居士も多い。
 ところで、長い顔でも、ちゃんと筋道の立った理屈をいうのが大の苦手という人もいる。長い顔の持ち主として、その基本性向に論理追求性を有していても、知識に乏しかったり、不勉強であったり、頭がよくなかったりして、理論や言葉の組み立てがうまくできない人もいる。極度に気の弱い性格、エネルギー欠如、情緒希薄などで、理屈を言い立てるのが面倒な人もいよう。
 だから、人間を観察する時には、それぞれの顔型に共通する基本性向、基本性格に基づきながら、総合的に眺める必要があるわけだ。




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■眉は人間の「気」を表現する [人を見抜く]

[眼鏡]眉は人間の「気」を表している
 顔の全体、目鼻立ち、顔型から性格傾向を読み取る方法に続いては、人間の顔を構成する各部位から観察する秘訣である。
 昔からの観相術では、眉、目、耳、鼻、口などの部位に、それぞれ理想とされる形がある。そのうちどれか一つでも完全な人は、それだけで相当幸運な人生が歩めるはずだ。
 額の理想的とされる形は、広く、平らで、凹凸のない一枚板。そういう額の持ち主は二十五歳くらいまでは苦労しないですむはず。悪い額の持ち主でも、二十五歳をすぎれば努力が報われるだろう。
 額の下にあるのは、容貌が優れている人を称賛する、眉目秀麗という表現にも使われている眉である。
 この眉は構造的には目のボディーガードであるが、観相術上では人間の「気」を表している。俗に、「気が強い」、「気が弱い」、「気が荒い」、「気が長い」、「気が短い」、「やる気がある」、「粘り気がある」、「穏やかな気性の人」、「気むずかしい人」などという時の「気」で、人間の行動スタイルに関係してくる心の働き、心持ちであり、一種の気性といってよい。
 この眉ほど、人間の目鼻立ちの中で、人による形状の変化の激しい部位はほかにない。それだけ、眉は心持ちや気性の違いを端的に表現しているところといえる。
 しかも、「眉をひそめる」、「眉を曇らせる」というように、眉はけっこう、その時、その場の感情や心理状態を表す繊細な部分なのである。「眉に唾(つば)をつけて聞く」、「眉唾物」などという表現があるのも、眉が心理の要(かなめ)になっているからこそいわれることである。ばかか利口か、親子・兄弟関係はどうかなども、ここに出る。
 詳しく説明すると、まず、眉の長さは、「気」の長さに通じる。眉の長い人は、じっくり構えてあわてない。仕事に関しても、眉が長い人は息の長いやり方で、着実に仕上げていこうとするものである。従って、執着性も強くなり、知識や研究や技術などにおいて、専門的に深く追求することに向いている。
 そして、眉の長い人はゆっくりした呼吸をするし、眉の短い人、特にその上に鼻の短い人は、せわしない呼吸をするものである。ここにも、「気」の長さ、短さの一つの根拠を見るのである。
 一般的に、眉の短い人は、「気」が短く、何事でも簡潔、明快に割り切ろうとする傾向を持つ。会社で「意見は簡単明確に」、「早く結論を」などと部下に命じるのは、このタイプの性格だ。しかし、短い眉の持ち主でも、同時に長い鼻の人物であれば、論理性によるコントロールが中和的に働くので、「気」の短さは内包された鋭い気質として変わってくるだろう。
[眼鏡]眉でわかる「気」の調子、「気」の大小
 一文字眉といわれるような直線眉と、ヘの字眉、三日月眉、ハの字眉などの曲線眉は、その形状のように「気」の調子を表現するものである。
 一般的に、いわゆる直線眉の人は、物事を理解したり、行動を起こしたりする時に、一本調子なところがある。思い込んだら、周囲の人の意見をなかなか聞かないはず。正義感も強く、真面目(まじめ)型が多いが、中途で挫折するとがっくりして、再起するのに時間を要す。自意識も強くて、気取り屋の面があり、我がままな人間に思われがちである。
 長い直線眉、つまり男眉ともいわれる一文字眉の人の場合は、正直者でお人好しが多い。これは一本調子で、気の長いという二つの面が結びついた結果だ。
 短い直線眉の人物は、物事の本質を直観的につかんで、テキパキと仕事を片づけてゆく敏腕家が多い。物欲にはわりあい淡泊で、気前がよい。
 直線眉に対して、曲線眉の人は、粘り強い性質で、逆境にめげない二枚腰の人が多い。行動も一本調子でなく、情勢に応じて自在に曲折できるので、中途挫折が少ない。妥協する変わり身も備えているのだ。中でも、力強くへし曲がった形の、ヘの字型とハの字型の人は、特に粘り腰が強い。
 同じ曲線眉でも、三日月型の人は、直線眉における一文字眉と似た意味がある。すなわち、粘り強さは他の曲線眉と同じであっても、三日月型はどこか悠長で、「気」の優しいところがある。
 仏像の顔には三日月型の眉が吉相として採用されているが、この型は粘り強さと優しさを兼備しているから、円満具足の理想的顔貌とされる仏像には最適の眉の形だといえる。 観音像、如来像もしかりだが、逆に不動明王や四天王のような仏の守護に当たる存在は、三日月型のような円満な、優しい眉では似合わないのだ。
 仏像を基準に典型化を行う方法によると、完ぺきな眉は、目より長く、細く、艶(つや)があり、眉頭から眉尻にかけて一定方向に毛が伸びて、眉尻が筆をなめたように最後までスーッといって、散らないという一本になるようなものが理想。頭を使えば使うほどに、眉は細く、艶が出てくるともいわれている。
 この点、外国の女性は眉に山を描くが、日本女性は眉をなだらかに、三日月型に描くようだ。丸い眉は、従順さをも表す。
 さて、眉の長さ、眉の形状に続いては、眉の幅。眉の幅が太いのは、「気」が大きいことを示している。太眉の人間は、他人のことをあまり気に掛けず、自分の意見や行動を思い通りにしようとするし、相手と自分との細かい差異にこだわらない。
 しかし、眉の太さが極端になって、いわゆるゲジゲジ眉になってくると、この性格が強く出すぎて、ずぶといといわれる状態になる。
 一方、細眉の人は、「気」が小さく、細かいことにこだわる傾向がある。しかしながら、細眉の人は、その「気」の細やかな働きによって、気配りが行き届いて手落ちのない仕事ができるし、他人の気持ちを読み取る能力にもたけているものだ。
 眉の濃淡でいうと、濃い人は悪いことができない。カッとなることはあっても、じっくり、一年がかりで詐欺をするなど無理。逆に、薄い眉は利口で小才がきく。奸計(かんけい)をもって人を陥れることもある。




■目は最重要ポイントである [人を見抜く]

[がく~(落胆した顔)]人のすべてが目に反映される
 人間の資質、性格を洞察する観相上で、最も重要なポイントは、何より目である。
 人間を見る場合、言葉のような表面的な要素だけではなく、言葉の裏に隠れている部分、内面を見ることが大切で、「目は口ほどに物をいい」といわれる通り、その人の精神状態、性格、情感、本音がすべて目に反映される。人間の賢愚、気力が一点に集まるところも目である。
 その昔、禅宗の始祖である中国の達磨(だるま)大師は、「貴(素質)と寿(生命力)は神(目の輝き)を見よ」、と喝破した。「目は心の窓」ともいわれ続けてきた。言い古された言葉ではあっても、千古不易、万古不易の真理である。
 現代社会において、人間の体の一部だけ出して、相手が誰であるか当てっこをするゲームをしても、一番よく的中するのは目なのである。それは、関心の程度を表すと考えたらいいだろう。
 日常生活でも、口は動きでごまかしがきくが、目はちょっと腫(は)れただけで、不機嫌そうにも、体調が悪そうにもなる。わずかの変化が表情に出るところなのである。何をするにも、まず相手の目を見ることだ。目は口のようにうそがいえない。
 かくのごとく、目は顔の部分の中で、観相術における最重要の個所であるだけに、古くから説かれている判断例もきわめて多い。
 例えば、古い観相では目の形について、鳳眼(ほうがん)を最高として以下、竜眼、牛眼、羊眼、蛇眼など、あるいは、三白眼、四白眼、雌雄眼その他、細かく分けて眼形を規定している。
 意味づけの面でも、「象のように細く、切れの長い象眼は思考力があり、慈悲深い」、「左右ふぞろいの雌雄眼は人を裏切る」、「三白眼は剣難の相」のような古典観相法から、「目の上瞼(まぶた)の線が真っすぐなのは金もうけが上手」、「二重で大きい目は異性におぼれる性格」といった新観相法まで、まことににぎやかである。
 最も大切なのは、顔の中心に垂直の線を引いた時、目だけは寸分のずれもなく、左右同じ高さについていることである。目に限っては、ちょっとでもずれると社会性、道徳心が欠如してしまう。
 次に、横に長く、必ず目尻のところに切れ目があること。たまに切れ目の見えない人がいるが、非常に危険で、いきなり火をつけたり、女性のスカートを切るのは、このタイプとされる。
 眼球に関しては、白目の中に黒目があるが、この黒目は上下の両瞼にかかっていることが望ましい。下が白目の下三白眼は怜悧(れいり)な頭脳を持っているが、冷たい。上の白目が出ているのは愚鈍。「剣難の相」とまで断定する必要はないが、三白眼はあまりよくない相といえる。
 大事なのは、黒白分明といって、黒目と白目の境目がはっきりしていることで、これは頭脳明晰を表す。
[がく~(落胆した顔)]大小、長短などの目の形で見る観察
 さて、目の形の大きさ、長さ、両目の間の広さである目間、眉と目の間の距離の四つで見る人間観察法を紹介しよう。
 最初の目の大小については、小さいよりも大きなほうが、万事を大局的に見通すことができるのでよいとされる。大きい目は「芽が出る」といって喜ばれもする。
 しかし、小さい目のほうが忍耐力、持続力を持っているから、コツコツと努力して、最終的には成功する可能性が高いと見ることもできる。とりわけ、細いけれども強い光を持つ竜眼と呼ばれる目は、超大物になる相とされ、田中角栄・元首相などはこの目を持っていたといわれている。
 また、目が大きい人は、表現力に富んでいるといえる。この場合の表現力とは、話し言葉や身振り、あるいは音楽や絵画、造形といった直接的な表現力のことを指す。
 タレントや舞台俳優や画家などに目の大きい人が多いのは、誰しも気づくことであろう。表現力があるということは、同時に感情移入が簡単にできる体質であるわけで、俳優や歌手が役や歌に没入して涙をこぼせる原因に数えられる。独創的な、超現実派の絵画世界を開いたピカソやダリなども、大きな目の持ち主で、おまけに感情表現が率直で大仰なことでも有名である。
 逆にいえば、こうした目の大きい人は、ポーカーフェイスが不得手だといえる。柳に風と無表情を装ったり、うそをつくのが下手である。一方、目の小さい人は表現が直接的でなく、内向し屈折して出てくるので、顔を眺めていても内心がつかみにくい。
 もっとも、目の大きい人の中には、お得意の表現力を駆使し、芝居を演じて他人を欺くようなやからもいるので、その点は注意が必要だろう。
 さらに、目の大きい人は感情が率直に表現されるだけに、開放的性格であることが多く、恋愛などに関しても積極的で、うじうじしない性格といえる。これに対して、目の小さい人は感情が内にこもってしまうため、他人の手を借りないと自分の恋情を告白できないような消極さがある。それだけに、かえって強烈な情熱になる場合もある。ともあれ、目は大きいほうが明朗で、社交性がある。
 目の大小の次は、目の長さによる人間観察法の基本である。目頭から目尻までが長い人、あるいは俗にいう切れ長の目の人、こうした長い目の持ち主は、考察に奥行きがあって、物事をじっくり見ようとする性質がある。自然、洞察力に富むことになる。
 しかしながら、いくら長い目の人が洞察力に優れているといっても、目の鋭気を極度に欠く場合など、彼のじっくりとした考察は、いわゆる下手の考え休むに似たりの結果に終わりやすいのは仕方ない。
 反対に、目の長さが短い人、いわゆるドングリ眼、リス眼などと呼ばれる短い目の人の特質は、物事を速断する傾向が強いこと。つまり、直感した瞬間に判断を下して行動するといったタイプなのである。
 人間観察を重ねて帰納される結論は、じっくり型の長い目、速断型の短い目ということだ。
 目と目の間、目間については、広いほど妥協性が強くなったり、物事を大ざっぱに見ようとする傾向が強くなるといえる。逆に、目と目の間が狭いほど妥協性が減じてゆくし、物事を細密に追求しようとする傾向が強くなるものである。
 時間の約束でも、広いタイプは多少の遅れなど気にしないで、のんきに構える面があり、狭いタイプは厳格に守ろうとイライラするところがあるはず。大局的に見ようとする楽天型に通じる面があるタイプと、ひたむきに思い詰める悲観型に通じる面があるタイプということである。
 面白いのは、人間というものは日常生活の中でも、遠くを眺める時や大局的な判断を下そうとする時、子供や孫などを心を広くして眺めている時には、いつしか目間も広くしていること。これに反して、物を細かく見る時や他人の行動を探る時、相手の欠点を見逃すものかと目くじらを立てる時は、必ず目を寄せて目間を狭くしようとしているもの。
 眉と目の間の距離についても、短くなるほどに、心配事が増えて喜びが小さい。目と目の間の広い、狭いと、同じ性格傾向が認められるのである。
[がく~(落胆した顔)]光輝、鋭気などの目の質で見る観察
 以上、目の形による観相法を述べてきたが、旧来の観相法について総じていえるのは、目の形に捕らわれて目の質を忘れていることだ。
 目の場合、目の形とともに、眼球の中の黒い部分である、瞳(ひとみ)の質という方向からも観察する必要がある。瞳の質に関しては、光輝、鋭気、和気の三つを見ればよい。
 目に三つのうち一つか、それ以上の要素がない人間は、社会で成功する可能性はきわめて低いと断言せざるを得ない。言い換えれば、成功する人間は、三つの要素のうち必ず一つは有していなければならないし、備えているはずなのである。
 第一の目の光輝、輝きというものは、その人間の気力、すなわちエネルギーの充実を示すものである。子供や思春期の若者がキラキラと輝く目を持っているのは、過剰エネルギーにあふれているためだ。充実したエネルギーは、向上意欲をかき立てる原動力となって、人を奮起させるのである。
 往々にして、異常性欲者やヤクザなどに血走って、油光りにギラつく目の人がいるものだが、その不気味で、下卑た感じの目は、輝きのある目とは全く異質。
 つまり、普通にキラリと輝く、清潔感のある目であればよいのである。しかし、一般に年を取ればエネルギーが衰えてくるのは当然だから、年配者に青少年のような輝きを求めるのは無理というもので、静かな光がその目に宿っていれば上等である。
 目を観察する時は、まず光輝、輝きの有無を確かめてみよう。目に輝きを失わない人は、必ず上昇運をつかむ人なのである。この目の輝きは、持続的な向上意欲の存在を証明するものといえる。絶えまざる向上エネルギーのもたらす成功の可能性は、きわめて高い。
 反対に、年配になってからならともかく、若いうちから目に輝きがないような人物は、将来が気掛かりである。
 第二は目の鋭気。鋭気とは、目に澄明で、どこか鋭い光のような感じがこもっていることで、それは知力を表している。鋭気のない目、すなわち、どんよりとして焦点の定まらないような目は、愚鈍さを表す。
 もともと、鋭気は人間の大脳の集中力が目に表れた現象である。だから、例えばスリが他人の懐中物や品物を狙って、鋭い目になっているのも、その集中力のゆえの悪い鋭気である。
 また、普通の人で目の鋭い感じが露骨に出すぎる人は、狙いすぎているもので、目先の利害に敏感である。しばしば大局的な視点を失いがちなので、注意しなくてはいけない。
 鋭気は、落ち着いた平明な感じで、目に表れているのが最上である。鋭すぎるのは、あまり感心しない。もっとも、ここ一番といった勝負の時に、高揚された集中力の結果として、一時的に猛烈に鋭くなるのは別である。
 失職、倒産、落第、失恋、死別などといったショックによって、一時的に目から全く鋭気が消えてしまう時があるが、こうした場合は、しばらく時間をおいてから観察しなければならない。そのあたりは、常識として判断してもらいたい。
[がく~(落胆した顔)]目に優しい和気がある人は成功する
 目の質を見る第三の観察点は、目の和気。和気とは、目のうちに落ち着いた感じや、和やかな感じ、優しさで包むような感じがこもっていることである。
 この和気は何よりも、バランス感覚に富んだ人間であることを示している。バランス感覚という作用は、他人の立場へ自分を置いてみるという意味を内包している。従って、公平な、片寄りのない判断ができることで、道徳性や常識性も高いといえる。
 和気に富んだ目の人は、知能程度が普通の水準であっても、いつの間にか人間関係によい結果が生じ、他人からの信頼も高まって、思い掛けない成功を得るもの。先の目の鋭気も、和気と結びついた時に、特にその力を発揮する。つまり、大局的な視点を失い、先走りに陥りやすい危険性を、バランス感覚が取り除いてくれるのである。
 失敗の少ない人生、大きな成功が期待できる人生、それをもたらすのが、和気のある目である。
 反対に、いくら才能があっても目に和気の見られない人は、いつしか周囲との調和が破れたり、独りよがりに独走してしまったり、孤立したりといったことになりやすい。
 さらに、和気とは正反対に、目にすごみの見られる人間が時折いる。和気を全く欠いている上に、悪い鋭気が露骨に出る結果、そうなるのである。めったにこうした目に出くわすことはないが、すごみのある目の人間には警戒する必要がある。
 こうした光輝のある目、鋭気のある目、和気のある目、あるいは、どんよりした目、きつい目、すごみのある目といった人間の目付きの要因は、瞳孔(どうこう)との関係が大きいもので、日本人は虹彩(こうさい)が茶褐色の茶色目が多く、その中の黒い瞳はわかりにくいが、その開き具合で心の動き、関心度を知ることもできる。
 かつての中国では、ヒスイ商人が客の瞳が開くのを見ていて、すかさず値を釣り上げた。そこで、買い手は瞳を見られないように、ベールをかぶって取り引きするようになったという。それくらい瞳は心の動きを表すのである。
 すなわち、人間は興奮したり、楽しいと瞳を開き、つまらないと閉じてしまう。生理学的にいえば、興奮したり、びっくりしたりして緊張すると交感神経優位になり、瞳が広がるのである。瞳が広がるということは、商品に魅力を感じているということで、現代日本の宝石や車のベテランセールスマンも、客の瞳を見て商売をするとよくいわれる。
 また、きつい目というのは、瞳が閉じている状態で、いわゆるヤクザの目は、例外なしに瞳は小さいものだとか。
 その点、きつい目の人間というのは、自己意識が強いために圧力ができ、圧力ができれば目の中に圧力が入ってくるから、きつくなったり、さまざまに変化しやすいのである。自己意識の強い人は、目が濁って、妄想が渦を巻いているものでもある。
 一方、すっきりと、素直に生きている人の目は、おのずから澄んで美しく、青空のようにすがすがしいものである。




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