■腹八分の勧め1 [食べ方を工夫する]
食環境の変化が及ぼす影響
現代の日本人は、何とも恵まれた食生活を送っている。毎日、牛乳、卵、チーズ、バター、さらに生野菜も一色ではない。トマト、キャベツ、レタス、セロリなどなど。魚に肉。晩酌には日本酒、焼酎、ビール、ウイスキー、ワイン。何でも簡単に手に入り、食べられるし飲める。
不平不満はゼロ。このような豊かな食生活、ありがたい暮らしに恵まれたのは、ほんのここ二十年、三十年くらいのことではあるまいかと思う。この上なく繁栄した日本を築き、飽食の時代といわれる現代を築いたことは、「よかった」としなければなるまい。
終戦の折、やっと芋を食べていた人々が、スーパーの棚にあふれる食品の中から好きな物だけを買い求める。サラリーマンやOLは、昼飯にハンバーグランチやパスタを食べる。米食中心であった日本人は、パンや肉を中心とする食生活に変わってきている。四十年前、いや三十年前まで米・菜食だった民族が、この十年、十五年ほどの間に、欧米とは比べ物にならないとしても、肉食中心の西洋型食生活に移りつつある。
何千年かかってはぐくまれてきた日本人の肉体が、食環境の変化に対応し得ているかは、大いに疑問が残るところである。民族の体質というものは、そんなに簡単に変われるものだろうか。
飽食の時代といわれる今日の食生活は、昭和二十年代とは比べることはできない。当時は、食べ物を選ぶなどということはとんでもないことで、食べられる物を探すだけで精いっぱいだったのである。
近年は食べ物に恵まれた結果、我が日本人、ことに若い人の身長は著しく伸び、欧米人に比較して見劣りしないほど、成長したことはまことに喜ばしいことである。
逆上って原因を探れば、終戦直後、まさに成長しようとしている学童に対し、アメリカから全国的に学校給食として送られた牛乳や脱脂粉乳などを毎日飲ませたので、骨格を作るカルシウム、身長を伸ばすビタミンB2 、および血や肉を作る良質の蛋白(たんぱく)質などを豊富に摂取できたのが一番大きい、と解すこともできる。
敗戦後の食糧不足に困り果てた日本人への、戦争相手だったアメリカからの思い掛けぬ贈り物が、当時の少年少女を発育させ、彼らの世代を親とする今の青少年の身長をかくも伸ばす要因の一つとなったのである。
しかしながら、現代の日本人は体だけは大きくなっているが、「うどの大木」ではなかろうか。
飽食、過食、美食の結果、肥満となり、知らぬ間に骨はもろく、内臓はおかしくなって、いろいろな欠陥が出てきている。病院や製薬会社はもうかり、国民は常に保健に気を遣うようになってきた。
弱った体を医療で補い、長生きをする長寿国日本ということで、平均寿命が八十歳代となったが、今長生きしている人たちは明治生まれ、大正生まれなのである。これが昭和初期生まれくらいまではよいとしても、団地やマンションに住み、インスタントラーメンやレトルト食品を食べて育った団塊の世代以後が老人になった時、果たして明治生まれや大正生まれのように長持ちするのであろうか。たぶん、病院や介護施設ばかりが込んでしまうのではないだろうか。
食事の三S主義というもの
「丈夫で長持ちしたい」と本気で願うならば、飽食を避け、できるだけ粗食をすること。そして、適当な運動をすること。
明治生まれ、大正生まれに限らずとも、第二次世界大戦前の昭和生まれは菜食、粗食で、あの厳しい時代を生き抜いてきた。肺病は多かったが、胃の悪い人は少なかったし、脳卒中やガンも少なかった。戦後の死亡原因の変化も見逃すわけにはいかない。ほとんどが、ぜいたく病。
一昔前、この「ぜいたく病」の代名詞と見なされていたのは、痛風だった。「風が吹いても痛い!」と言われるほどの激痛を伴う病気で、中年男性特有の病気のように思われていたのが、最近では女性や若い年齢の人たちにも見られるようになった。
痛風とは、その基礎となる「高尿酸血症」を改善しないと、心臓病や腎臓病などの合併症を起こす恐い病気であり、予防するためには運動などの生活改善と共に、食生活の改善が必要である。 繁栄と裏腹の飽食の時代を生きることを余儀なくされた現代人は、せめて自ら防げる害は排除すべきだろう。
つまり、人間にとって栄養を取ることは必要であり、飲食は本能でもあるが、この飲食には、単にエネルギーの補給とか、味を楽しむというだけではなく、正しい仕方、方法があるのである。
菜食、粗食であれば、食べ物は何を食べてもよいから、量に注意せよ、食べ方に注意せよ。これが、編集子の説く「正食」の要領である。
正しい食物を、適量に、よく噛んで食べること。よく噛めば、結果的には小食になる。わかりやすく簡単にいえば、人間は菜食、小食、咀嚼(そしゃく)という三S主義によって、食事を取ればよいのである。
体験しない人には「まさか」と信じられないだろうが、小食で、よく噛むことを長年実践し続けると、空腹に慣れ、いつも胃腸がすっきりしている。何ともいえないさわやかさ。牛飲馬食で、絶えず胃が重くモタモタしている人のちょうど正反対、見事な肉体管理である。
もしも飢餓感があれば、心身ともに悪影響をおよぼすが、習慣は第二の天性だから、体のほうによい癖をつけると、食事時でも、さらに目の前で家族が食べていても平気で、欲しくならない。いつでも全身が軽く、吸収がよく、中毒なども起こしようがない。
いつも受け入れる肉体容器が空だから、うんと働いた時など、たくさん食べても支障がない。人間、半日や一日欠食しても、自身の肉体があわてないよう躾けをしておきたいもの。
全国各地、世界各国の食材が口にできる飽食の時代で、食事の恩恵がわからない人は、意識的に二、三日でもよいから断食をやってみることだ。それで、どんな物でも食べられるということが、この世の幸福であると悟れる。
いかに粗末な物を食べても、「うまい」、「おいしい」と思わず感嘆の言葉が口をついて出てくる。すると、「ごちそうさま」と感謝し、お礼を尽くしていることにつながる。
食べられることの幸福
食卓に向かって敬意と感謝の心を忘れない人であれば、今の豊かな世の中で一生食うに困るということはないだろう。
家庭においては、食事の作法というものもある。背筋を伸ばし、姿勢を正して一口ひとくち、ゆっくり噛んでいただく。
どんな食べ物でもみな、大自然が創ってくれた物。「いただきます」という感謝の言葉を述べて、一口ひとくち大切にいただくことである。ありがたく感じて食べれば、まずいものはない。
「いただきます」という言葉の元は、「命をいただきます」ということである。生きとし生きる物は、動物でも植物でも、穀類にしても野菜にしても、みなそれぞれ生き続けたいわけである。その命をいただいて私たち人間が生きるわけだから、それをたくさん食べる人は寿命が短いし、心から感謝し、満足して食べる人は寿命を長く与えられる。おいしい物、本当に新鮮な物で、汚染されていない物を小食でいただく。おいしくいただく。そういうことが、長寿の秘訣となる。
本当に「ありがたい」と思って食べると、胃液の分泌が盛んになるから、粗末な物でも血となり、肉となる。体に害となるようなことはない。
心身の健全、完全な人は、何を口にしても特別な味がして、「自然はよくもこれほど、食物にさまざまな味をつけて、美味に食べさせてくださるものか」と、感嘆せざるを得ないだろう。
栗の実はクリ特有の味があり、西瓜はスイカだけにある特別の味がするように、粗末な物は淡泊でよく、美味な物は美味でまたけっこうだと思えるのが、健全な心身を持つ者の感覚である。
どうしても食事のありがたさ、食物のおいしさがわからぬ時は、わかるようになるまで一食も口にせず、辛抱することに限る。
「この世の中で、一番うまいソースは何だろう」というフランスの小話があり、「それは空腹という名のソースだ」と話のオチがついている。確かにおなかがすいていれば、大抵の物はうまく食べられるものである。
日本にも、「お斎(とき)の時間を延ばして、思いっ切り空腹にしておけば、香の物だけでもご飯はおいしく食べられる」と説いた、江戸前期の禅僧・沢庵(たくあん)和尚のごちそうという有名な話が伝わっている。
カロリー計算や栄養チェックに神経を使わなくても、食事を取る肉体側に完全吸収、完全燃焼という条件がそろってさえいれば、沢庵や梅干しや豆腐を主にした食事だけでも、もうろくしないで、禅僧のように九十歳、百歳までも生きられる。
山海の珍味も、満腹時には見たくもない。腹いっぱいなのに食べるのは、おいしくないどころか、かえって苦しいものである。
体は本来、素直なものだから、毒物だって口に入れればこなさなければならない。腹も身の内、体こそいい迷惑である。
食事をおいしくいただくコツは、疲れ切らないほどによく働いて、「よくやったなあ」と満足してリラックスし、腹八分目の食事をよく噛むのがよい。
腹八分の食事を守る
前述したように、人間は菜食、小食、咀嚼という三S主義によって、食事を取ればよいのであるが、現代は物がありすぎるため、誰もが食べる量が多すぎる。その食べ方が早すぎる。噛むことも少なすぎるし、料理の味も強すぎる。
毎日の労働で得た高い金で食生活をしながら、ろくに味わいもせずに、たくさんの食べ物をうのみにするなど、実にもったいないことである。
昭和五十一年頃で、日本人の食べる量の平均は、一日に一四六二グラムだったが、少ない人は七一九グラムなのに、多い人では三五七一グラムと約五倍の開きがあって、個人差はかなり大きいようだ。
誰もが見た目に惑わされて、食べすぎたりしないように、間食もなるべくせずにすますことである。満腹感ばかりではなく、空腹感のよさも知ること。とにかく、消化器を休ませることが肝要である。
例えば、自然に従い、自然に任せて暮らすような生き方をすれば、食べすぎなどということは、しなくてすむようになるはずだ。
日本には、昔から「腹八分に医者いらず」、「腹七分に病なし、腹六分は老いを忘れる」などということわざもあるのである。
小食で胃腸を悪くする者はないが、過食によって病気をする人が多い。ことに夜、寝る前の大食は内臓に悪いから気をつけるべきである。
食べすぎて腹を壊したり、病気になったりするのは、みな心の欲、意識がそうさせるのである。見た目においしそうだから、ついつい手が出てしまったり、隣の人がうまそうに食べているから、「それじゃ、私も」などと思ったりする。
鳥や獣は、決して食べすぎるようなことはない。意識というものを持たないからである。その点、人間が一番劣っている。
自然に任せ、意識を起こさず静かにさせれば、人間も適量の食事しかしないようになる。肉体は自分にとってちょうど都合のいいだけの量を要求し、それ以上は欲しがらない。 腹八分目ならば、活動をするにしても、休養をとるにしても、負担を感じるようなことはない。それでいて、栄養は十分に足りることを請け合う。
人間は食べすぎた場合でも、完全に消化できれば害にはならない。しかし、食べすぎるというより、この食べ足りない腹八分のほうがいかに健康によいかということは、昔の長寿者の発言からもわかる。
金沢に成巽閣(せいそんかく)というのがある。これは前田藩の下屋敷で、そこには前田藩時代のさまざまな文献などが残っているが、ある部屋にゆくと扇面が飾ってある。それに「一口残」、つまり腹八分目と書いてある。
これはどういうのかというと、藩では非常に老人救護に力を注ぎ、六十五歳以上の老人には、日労五合給付した。毎日のお米を五合出したというのである。今日でいうならば、老人年金をお米に代えて出しているようなものであろう。
その前田藩第十三代の殿様が斉泰候という人で、百歳以上の老人を呼んで園遊会を開いた。集まった最年長が百二十五歳の人で、その翁に書かせたら、なかなか雄勁(ゆうけい)な文字で「一口残」と書いた。長生きの秘訣は、一口残す、腹八分目ということである。
その後に「一口残、以て衆生を養う」と続く。残ったお米を托鉢(たくはつ)の坊さんにやって、坊さんはそれで生を養い、人生の生き方を庶民に説くということであろう。
この例からもわかるように、腹八分というのは、老人の一つの心得なのである。
百歳長寿者の秘訣も腹八分
現在においても、百歳を超えてもまだ健在な、文字通りの長寿者にその秘訣を聞いてみると、必ずといっていいほどいわれるのは、この腹八分目ということである。腹八分で決して余計な物は食べない。そして、好き嫌いはない。
日本百歳会が平成三年九月末に百歳人二百八十五人にアンケートしたところでは、食事の分量は腹八分目が六十七パーセントと多く、回数は一日三回がほとんどであった。
おかずについては、肉類よりも魚や野菜を好む傾向があり、特に好き嫌いなく何でも食べると答えた人が多かった。料理の味つけは、半数以上の人が一般的な普通味を好んでいるが、最近では健康上の問題もあり、塩分控えめの数が増えつつある。
このように百歳人が実践、実行している腹八分の健康法は、一般の方にも、知識としてはよく知られた健康法であろう。しかし、これを実行した場合の効果の大きさについて、理解している人は少ないといってよい。
ある長寿者の場合、時々ズボンを新調しないでもよいように、体重を五キロ程度二〜三カ月間で減らすため、減食することがあるという。その期間は、本人も驚くほど快調になり、最もありがたいことは、睡眠時間が少なくできることで、腹八分の効用を十二分に理解しているつもりだという。
ところが、食べる物が以前に比べあまりにもおいしくなるために、食べることの楽しみを味わう時間、回数が増え、何カ月かが経過すると以前の状態に戻るのが常らしい。
人間が腹八分以上に食べることは、日常生活の必要量以上の食べ物を摂取していることであり、その余分の食物の消化、吸収およびエネルギー源の蓄積のために、余分の体力を消耗する必要がある。その体力の回復のために、睡眠や休養が必要となる。従って、減食すれば、それだけ体力がつき快調となる。
病気の場合は食欲が減退し、休養および睡眠を要求するが、この場合は日常生活に必要な食事を代謝する体力がないことを意味し、食物の代謝には、想像以上に体力が必要であることを物語っていると、この読者は理解されているという。
さて、私たち人間が一日に消費する標準カロリーは、二千四百カロリーといわれる。カロリーとは、糖質、脂肪、蛋白質といったエネルギーが、食品中に蓄えられた単位をいう。
この点、永平寺の修行僧の食事は、一日わずか千二百カロリーで、成人男子の六割程度である。それで激しい修行をしてなお、ふっくら、つやつやしているのはなぜか。朝食はかゆ、ゴマ塩と漬物。昼食は麦飯、野菜のあえ物。夕食はそれに煮物がつく。
修行に訪れる雲水たちは、最初の二カ月で体重が数キロも減り、足もむくむ。それが三カ月をすぎる頃から体重が戻り、お坊さん特有のふっくらした体になってゆく。
分析した専門医師は、「栄養バランスを含めて分析しても、従来の栄養学では解決できない矛盾がある。精神力が食べ物の栄養の吸収力を強めるのではないか」といっている。
永平寺の和尚さんは、「新しく入った雲水も、しばらくして心が清らかになり、目も澄んでくる頃には、順応の力が湧き、ゴマ一粒からも活力を求められるようになります」と説いている。
現代の日本人は、何とも恵まれた食生活を送っている。毎日、牛乳、卵、チーズ、バター、さらに生野菜も一色ではない。トマト、キャベツ、レタス、セロリなどなど。魚に肉。晩酌には日本酒、焼酎、ビール、ウイスキー、ワイン。何でも簡単に手に入り、食べられるし飲める。
不平不満はゼロ。このような豊かな食生活、ありがたい暮らしに恵まれたのは、ほんのここ二十年、三十年くらいのことではあるまいかと思う。この上なく繁栄した日本を築き、飽食の時代といわれる現代を築いたことは、「よかった」としなければなるまい。
終戦の折、やっと芋を食べていた人々が、スーパーの棚にあふれる食品の中から好きな物だけを買い求める。サラリーマンやOLは、昼飯にハンバーグランチやパスタを食べる。米食中心であった日本人は、パンや肉を中心とする食生活に変わってきている。四十年前、いや三十年前まで米・菜食だった民族が、この十年、十五年ほどの間に、欧米とは比べ物にならないとしても、肉食中心の西洋型食生活に移りつつある。
何千年かかってはぐくまれてきた日本人の肉体が、食環境の変化に対応し得ているかは、大いに疑問が残るところである。民族の体質というものは、そんなに簡単に変われるものだろうか。
飽食の時代といわれる今日の食生活は、昭和二十年代とは比べることはできない。当時は、食べ物を選ぶなどということはとんでもないことで、食べられる物を探すだけで精いっぱいだったのである。
近年は食べ物に恵まれた結果、我が日本人、ことに若い人の身長は著しく伸び、欧米人に比較して見劣りしないほど、成長したことはまことに喜ばしいことである。
逆上って原因を探れば、終戦直後、まさに成長しようとしている学童に対し、アメリカから全国的に学校給食として送られた牛乳や脱脂粉乳などを毎日飲ませたので、骨格を作るカルシウム、身長を伸ばすビタミンB2 、および血や肉を作る良質の蛋白(たんぱく)質などを豊富に摂取できたのが一番大きい、と解すこともできる。
敗戦後の食糧不足に困り果てた日本人への、戦争相手だったアメリカからの思い掛けぬ贈り物が、当時の少年少女を発育させ、彼らの世代を親とする今の青少年の身長をかくも伸ばす要因の一つとなったのである。
しかしながら、現代の日本人は体だけは大きくなっているが、「うどの大木」ではなかろうか。
飽食、過食、美食の結果、肥満となり、知らぬ間に骨はもろく、内臓はおかしくなって、いろいろな欠陥が出てきている。病院や製薬会社はもうかり、国民は常に保健に気を遣うようになってきた。
弱った体を医療で補い、長生きをする長寿国日本ということで、平均寿命が八十歳代となったが、今長生きしている人たちは明治生まれ、大正生まれなのである。これが昭和初期生まれくらいまではよいとしても、団地やマンションに住み、インスタントラーメンやレトルト食品を食べて育った団塊の世代以後が老人になった時、果たして明治生まれや大正生まれのように長持ちするのであろうか。たぶん、病院や介護施設ばかりが込んでしまうのではないだろうか。
食事の三S主義というもの
「丈夫で長持ちしたい」と本気で願うならば、飽食を避け、できるだけ粗食をすること。そして、適当な運動をすること。
明治生まれ、大正生まれに限らずとも、第二次世界大戦前の昭和生まれは菜食、粗食で、あの厳しい時代を生き抜いてきた。肺病は多かったが、胃の悪い人は少なかったし、脳卒中やガンも少なかった。戦後の死亡原因の変化も見逃すわけにはいかない。ほとんどが、ぜいたく病。
一昔前、この「ぜいたく病」の代名詞と見なされていたのは、痛風だった。「風が吹いても痛い!」と言われるほどの激痛を伴う病気で、中年男性特有の病気のように思われていたのが、最近では女性や若い年齢の人たちにも見られるようになった。
痛風とは、その基礎となる「高尿酸血症」を改善しないと、心臓病や腎臓病などの合併症を起こす恐い病気であり、予防するためには運動などの生活改善と共に、食生活の改善が必要である。 繁栄と裏腹の飽食の時代を生きることを余儀なくされた現代人は、せめて自ら防げる害は排除すべきだろう。
つまり、人間にとって栄養を取ることは必要であり、飲食は本能でもあるが、この飲食には、単にエネルギーの補給とか、味を楽しむというだけではなく、正しい仕方、方法があるのである。
菜食、粗食であれば、食べ物は何を食べてもよいから、量に注意せよ、食べ方に注意せよ。これが、編集子の説く「正食」の要領である。
正しい食物を、適量に、よく噛んで食べること。よく噛めば、結果的には小食になる。わかりやすく簡単にいえば、人間は菜食、小食、咀嚼(そしゃく)という三S主義によって、食事を取ればよいのである。
体験しない人には「まさか」と信じられないだろうが、小食で、よく噛むことを長年実践し続けると、空腹に慣れ、いつも胃腸がすっきりしている。何ともいえないさわやかさ。牛飲馬食で、絶えず胃が重くモタモタしている人のちょうど正反対、見事な肉体管理である。
もしも飢餓感があれば、心身ともに悪影響をおよぼすが、習慣は第二の天性だから、体のほうによい癖をつけると、食事時でも、さらに目の前で家族が食べていても平気で、欲しくならない。いつでも全身が軽く、吸収がよく、中毒なども起こしようがない。
いつも受け入れる肉体容器が空だから、うんと働いた時など、たくさん食べても支障がない。人間、半日や一日欠食しても、自身の肉体があわてないよう躾けをしておきたいもの。
全国各地、世界各国の食材が口にできる飽食の時代で、食事の恩恵がわからない人は、意識的に二、三日でもよいから断食をやってみることだ。それで、どんな物でも食べられるということが、この世の幸福であると悟れる。
いかに粗末な物を食べても、「うまい」、「おいしい」と思わず感嘆の言葉が口をついて出てくる。すると、「ごちそうさま」と感謝し、お礼を尽くしていることにつながる。
食べられることの幸福
食卓に向かって敬意と感謝の心を忘れない人であれば、今の豊かな世の中で一生食うに困るということはないだろう。
家庭においては、食事の作法というものもある。背筋を伸ばし、姿勢を正して一口ひとくち、ゆっくり噛んでいただく。
どんな食べ物でもみな、大自然が創ってくれた物。「いただきます」という感謝の言葉を述べて、一口ひとくち大切にいただくことである。ありがたく感じて食べれば、まずいものはない。
「いただきます」という言葉の元は、「命をいただきます」ということである。生きとし生きる物は、動物でも植物でも、穀類にしても野菜にしても、みなそれぞれ生き続けたいわけである。その命をいただいて私たち人間が生きるわけだから、それをたくさん食べる人は寿命が短いし、心から感謝し、満足して食べる人は寿命を長く与えられる。おいしい物、本当に新鮮な物で、汚染されていない物を小食でいただく。おいしくいただく。そういうことが、長寿の秘訣となる。
本当に「ありがたい」と思って食べると、胃液の分泌が盛んになるから、粗末な物でも血となり、肉となる。体に害となるようなことはない。
心身の健全、完全な人は、何を口にしても特別な味がして、「自然はよくもこれほど、食物にさまざまな味をつけて、美味に食べさせてくださるものか」と、感嘆せざるを得ないだろう。
栗の実はクリ特有の味があり、西瓜はスイカだけにある特別の味がするように、粗末な物は淡泊でよく、美味な物は美味でまたけっこうだと思えるのが、健全な心身を持つ者の感覚である。
どうしても食事のありがたさ、食物のおいしさがわからぬ時は、わかるようになるまで一食も口にせず、辛抱することに限る。
「この世の中で、一番うまいソースは何だろう」というフランスの小話があり、「それは空腹という名のソースだ」と話のオチがついている。確かにおなかがすいていれば、大抵の物はうまく食べられるものである。
日本にも、「お斎(とき)の時間を延ばして、思いっ切り空腹にしておけば、香の物だけでもご飯はおいしく食べられる」と説いた、江戸前期の禅僧・沢庵(たくあん)和尚のごちそうという有名な話が伝わっている。
カロリー計算や栄養チェックに神経を使わなくても、食事を取る肉体側に完全吸収、完全燃焼という条件がそろってさえいれば、沢庵や梅干しや豆腐を主にした食事だけでも、もうろくしないで、禅僧のように九十歳、百歳までも生きられる。
山海の珍味も、満腹時には見たくもない。腹いっぱいなのに食べるのは、おいしくないどころか、かえって苦しいものである。
体は本来、素直なものだから、毒物だって口に入れればこなさなければならない。腹も身の内、体こそいい迷惑である。
食事をおいしくいただくコツは、疲れ切らないほどによく働いて、「よくやったなあ」と満足してリラックスし、腹八分目の食事をよく噛むのがよい。
腹八分の食事を守る
前述したように、人間は菜食、小食、咀嚼という三S主義によって、食事を取ればよいのであるが、現代は物がありすぎるため、誰もが食べる量が多すぎる。その食べ方が早すぎる。噛むことも少なすぎるし、料理の味も強すぎる。
毎日の労働で得た高い金で食生活をしながら、ろくに味わいもせずに、たくさんの食べ物をうのみにするなど、実にもったいないことである。
昭和五十一年頃で、日本人の食べる量の平均は、一日に一四六二グラムだったが、少ない人は七一九グラムなのに、多い人では三五七一グラムと約五倍の開きがあって、個人差はかなり大きいようだ。
誰もが見た目に惑わされて、食べすぎたりしないように、間食もなるべくせずにすますことである。満腹感ばかりではなく、空腹感のよさも知ること。とにかく、消化器を休ませることが肝要である。
例えば、自然に従い、自然に任せて暮らすような生き方をすれば、食べすぎなどということは、しなくてすむようになるはずだ。
日本には、昔から「腹八分に医者いらず」、「腹七分に病なし、腹六分は老いを忘れる」などということわざもあるのである。
小食で胃腸を悪くする者はないが、過食によって病気をする人が多い。ことに夜、寝る前の大食は内臓に悪いから気をつけるべきである。
食べすぎて腹を壊したり、病気になったりするのは、みな心の欲、意識がそうさせるのである。見た目においしそうだから、ついつい手が出てしまったり、隣の人がうまそうに食べているから、「それじゃ、私も」などと思ったりする。
鳥や獣は、決して食べすぎるようなことはない。意識というものを持たないからである。その点、人間が一番劣っている。
自然に任せ、意識を起こさず静かにさせれば、人間も適量の食事しかしないようになる。肉体は自分にとってちょうど都合のいいだけの量を要求し、それ以上は欲しがらない。 腹八分目ならば、活動をするにしても、休養をとるにしても、負担を感じるようなことはない。それでいて、栄養は十分に足りることを請け合う。
人間は食べすぎた場合でも、完全に消化できれば害にはならない。しかし、食べすぎるというより、この食べ足りない腹八分のほうがいかに健康によいかということは、昔の長寿者の発言からもわかる。
金沢に成巽閣(せいそんかく)というのがある。これは前田藩の下屋敷で、そこには前田藩時代のさまざまな文献などが残っているが、ある部屋にゆくと扇面が飾ってある。それに「一口残」、つまり腹八分目と書いてある。
これはどういうのかというと、藩では非常に老人救護に力を注ぎ、六十五歳以上の老人には、日労五合給付した。毎日のお米を五合出したというのである。今日でいうならば、老人年金をお米に代えて出しているようなものであろう。
その前田藩第十三代の殿様が斉泰候という人で、百歳以上の老人を呼んで園遊会を開いた。集まった最年長が百二十五歳の人で、その翁に書かせたら、なかなか雄勁(ゆうけい)な文字で「一口残」と書いた。長生きの秘訣は、一口残す、腹八分目ということである。
その後に「一口残、以て衆生を養う」と続く。残ったお米を托鉢(たくはつ)の坊さんにやって、坊さんはそれで生を養い、人生の生き方を庶民に説くということであろう。
この例からもわかるように、腹八分というのは、老人の一つの心得なのである。
百歳長寿者の秘訣も腹八分
現在においても、百歳を超えてもまだ健在な、文字通りの長寿者にその秘訣を聞いてみると、必ずといっていいほどいわれるのは、この腹八分目ということである。腹八分で決して余計な物は食べない。そして、好き嫌いはない。
日本百歳会が平成三年九月末に百歳人二百八十五人にアンケートしたところでは、食事の分量は腹八分目が六十七パーセントと多く、回数は一日三回がほとんどであった。
おかずについては、肉類よりも魚や野菜を好む傾向があり、特に好き嫌いなく何でも食べると答えた人が多かった。料理の味つけは、半数以上の人が一般的な普通味を好んでいるが、最近では健康上の問題もあり、塩分控えめの数が増えつつある。
このように百歳人が実践、実行している腹八分の健康法は、一般の方にも、知識としてはよく知られた健康法であろう。しかし、これを実行した場合の効果の大きさについて、理解している人は少ないといってよい。
ある長寿者の場合、時々ズボンを新調しないでもよいように、体重を五キロ程度二〜三カ月間で減らすため、減食することがあるという。その期間は、本人も驚くほど快調になり、最もありがたいことは、睡眠時間が少なくできることで、腹八分の効用を十二分に理解しているつもりだという。
ところが、食べる物が以前に比べあまりにもおいしくなるために、食べることの楽しみを味わう時間、回数が増え、何カ月かが経過すると以前の状態に戻るのが常らしい。
人間が腹八分以上に食べることは、日常生活の必要量以上の食べ物を摂取していることであり、その余分の食物の消化、吸収およびエネルギー源の蓄積のために、余分の体力を消耗する必要がある。その体力の回復のために、睡眠や休養が必要となる。従って、減食すれば、それだけ体力がつき快調となる。
病気の場合は食欲が減退し、休養および睡眠を要求するが、この場合は日常生活に必要な食事を代謝する体力がないことを意味し、食物の代謝には、想像以上に体力が必要であることを物語っていると、この読者は理解されているという。
さて、私たち人間が一日に消費する標準カロリーは、二千四百カロリーといわれる。カロリーとは、糖質、脂肪、蛋白質といったエネルギーが、食品中に蓄えられた単位をいう。
この点、永平寺の修行僧の食事は、一日わずか千二百カロリーで、成人男子の六割程度である。それで激しい修行をしてなお、ふっくら、つやつやしているのはなぜか。朝食はかゆ、ゴマ塩と漬物。昼食は麦飯、野菜のあえ物。夕食はそれに煮物がつく。
修行に訪れる雲水たちは、最初の二カ月で体重が数キロも減り、足もむくむ。それが三カ月をすぎる頃から体重が戻り、お坊さん特有のふっくらした体になってゆく。
分析した専門医師は、「栄養バランスを含めて分析しても、従来の栄養学では解決できない矛盾がある。精神力が食べ物の栄養の吸収力を強めるのではないか」といっている。
永平寺の和尚さんは、「新しく入った雲水も、しばらくして心が清らかになり、目も澄んでくる頃には、順応の力が湧き、ゴマ一粒からも活力を求められるようになります」と説いている。
■腹八分の勧め2 [食べ方を工夫する]
食べることのプラスとマイナス
修行僧の秘密を説明すれば、食べ物というのは一種の触媒みたいなもので、少し食べておけば、その何倍かの栄養が唾液との化合作用や胃液の消化作用によって、宇宙から供給されるという面があるということである。
エネルギーというものは、食べ物からのみ得られるものではない。
わずか一リットルのガソリンでも、あの大きな車が走ることができるが、あれだけのエネルギーは、ガソリンだけでは出せないのである。そこに空気が加わった時に、どれほどの爆発力が出るか。
空気というのはタダであるから、人間はこの価値を忘れているけれども、食べ物をよく噛み、唾液、胃液とよく混和させてやれば、それに第二次的栄養、つまり肺臓から吸収した空気が燃焼して、「気」エネルギーが発生するわけである。
同時に、人間にとって、体内の水分のお陰で細胞から出てくる力、これも大きなものである。肉体というものは、水分によって運営されているといってもよいだろう。
食べ物は腹八分目にしておいて、後は水分から作られてくる力を養うがよい。粘りがある、辛抱ができるなどという力は、食べ物からくる力ではない。鍛錬によって「気」から作られる力である。
その空気と水のエネルギーの根源は、いったいどこにあるのか。誰が補給しているのであろうか。
源は宇宙である。エネルギーは宇宙にある。宇宙の「気」にある。そして、その「気」エネルギーを上手にエネルギー化して、あらゆるものに役立て、生き、生かしてゆくのが人間であり、人間の肉体の生命作用なのである。
人間には、「気」から作られてくる力と、食べ物からできる力があるわけである。それらは、同じ力のようでも、違いがあるし、違いが出る。
永平寺の修行僧の例などは、肉体を真理的に正常に働かせれば、精神が安定し、宇宙の「気」が肉体に十分に吸収され、肉体は豊かに維持されるという真理の実証である。
ところが、一般の現代人は空気を吸う量や、水を飲む量が少なすぎる一方で、物がありすぎるため、誰でもみな食べる量が多すぎる傾向がある。また、味は濃厚すぎ、ことに菓子など、甘味を多く取りすぎている。
現代人の生活態度を見ていると、いかにしてうまい物をたらふく食べるか、ということだけを考えているように思われる。一日三回食べるということでさえも、必要があって食べるというよりも、習慣だけで食べている。
食べるということはプラスの面ばかりでなく、マイナスの面もあることを忘れてはならない。
人間は、体にとって必要のある時だけ食べるのがよいし、必要のない時は食べないほうがよい。つまり、食べてはならない時には食べないほうが、より体のためになるという意味である。
これは実に簡単、明白な道理であり、真理であるのに、こうした基本的な原理でさえ、実社会では無視されているようである。
例えば、腹が減らない時は食べる必要がないし、ある程度食べて空腹感が止まったら、そこで食べることをストップすべきであって、それ以上は体にとって無駄というよりも、むしろ有害でさえある。
釈尊が説く横死する原因
このように私が食事について、腹八分の心得を説いても、一般の人にとって節度を守るということは、なかなか実行の難しいことであろう。
現代では、食事にしてもインスタント時代全盛とあってみれば、湯を加えたり、電子レンジに入れたりしてすぐ食べられるとなると、つい手が出る。街には食堂、料理店が軒を連ねているから、サンプルケースを見ていると、それも食べてみたくなる。
結果として、食いすぎということになるのだが、この食うことは命を養う上にきわめて大切なだけに、方法を間違うと反対の結果を招くのも当然で、小食で病気をしたり、命を失った者はあまりないが、過食のためには例外なく、体を痛めつけている。食べすぎて病んだり、死んだりする人も多い。
現代以後の日本人に、大きな忘れ物といえば、季節感であろう。夏冬ぶっ通して野菜が食える。温室ばかりではなくて、冷凍施設を利用すれば、世界中の食べ物はいつでも食える。その恵まれの結果は、飽食して肥満児を作り、恍惚(こうこつ)老人を増やし、病気の種類も多く、病人の数も激増している。何しろ、浮浪者も糖尿病になる時代なのだ。
イギリスのシェークスピアは、「ベニスの商人」の中で、「食べすぎは空腹と同様、体によくない」というセリフをいわせている。アメリカには、「多くの人々はフォークで墓を掘っている」ということわざがあるほど、栄養過剰で早死にする人が多い。
日本でも貝原益軒は、「飲食は人の大欲にして、口腹の好むところなり。この好みにまかせてほしいままにすれば、節に過ぎて、必ず脾腹をやぶり、諸病を生じ、命を失う」と、「養生訓」の中で戒めている。また、昔は食録などという言葉があって、「美食や飽食をする人は早死にする」といったものだ。
かの釈尊も、この食事の取り方の大切なことを説かれているので、紹介してみよう。
一、不饒益(ふじょうえき)の食をむさぼる――身のためにならぬ物をたくさんに食うこと。
二、食を計らず――食べる分量がデタラメだということ。
三、いまだ内に消せずして後食う――十分消化もしていないのに続けて食うこと。
四、強いて嚥下す――無理やりに飲み込むこと。
五、すでに消して出んとする物を強いて制す――排出すべき時に我慢して出す時を失うこと。
六、食病に応ぜず――病弱の時、それに合わせず、胃腸のよくない時でも、消化のよくない物を食うこと。
七、病に従って数量せず――病気の重い軽いに従って、食物を加減しないこと。
八、副食を怠る――副食物を食わないで、主食に偏すると、栄養が不足すること。
九、知恵なくして心を調うることあたはず。
ということが挙げられている。この注意事項は、食事の注意と述べたが、実は、人間の横死の原因として書かれたもの。九項目中八項目までが、食生活の問題であることは注目に値する。命を守り養生する上に、いかに食事ということが大切であるかを教えている。
第九項の心の問題は、どんなに食生活を正しくしても、心そのものが平静を保っていないと、例えば、「仕事だ、事件だ、野望だ」というものに追われ、イライラして落ち着かず、食べながら走り出すというようだと、せっかくの食事も身に着かないというわけだ。
古くから、食後のひとときの落ち着く時間を持つために、「親が死んでも食休み」というようなことがいわれているところをみると、食事を身に着けるものは、平静な心そのものだといわなくてはならない。
食事の時は、その食事に対して、心から感謝の心で取るということも、忘れてはならないだろう。
肉体は宇宙銀行の預金通帳
それでは、暴飲暴食などの弊害によって、なぜ横死にまで至るのか探ってみよう。
結論から先にいえば、人間の肉体くらい正直で、的確で、間違いのないものはないからである。例えていえば、人の体は宇宙銀行の預金通帳のようなもの。一生涯の貸借が細大漏らさず肉体のコンピューターで計算され、記入されて、当人は忘れていても、ことごとく運命上に表れる。
この肉体の仕組み、性格によって、さまざまな人生模様となるのである。つまり、人の一生の貸借対照表も財産目録も、みな、人の体にあるということである。
若い頃からの塩分の取りすぎからくる高血圧や脳卒中、肉の脂肪やバター、糖分の取りすぎ、肥満の人などに多い糖尿病と、ストレス過多や運動不足などが引き起こす心筋梗塞や狭心症などの諸病は、一口でいうと、長い間の食生活、生活習慣などの偏りが積もり積もって症状となるもの。
知らず知らずのうちに、肉体の預金通帳が赤字になっているのである。
ネズミでの試験で、腹いっぱい食わせたグループ、六十パーセント食わせたグループに分けて、どのくらい生きるか比べると、やはり小食グループのほうがずっと長生きする。 人間においても、食べ物をたくさん食べることによって、体の器官というものが災いされるものである。
人は欲が深く、むやみにたくさん食べて体を疲れさせ、妄想の種を多くして頭脳を悪くする。この妄想心が胃に固まり、感情が胸いっぱいにはびこると、常に意識界から、無形の圧力が上半身にみなぎり、胸を圧し、心臓を苦しめ、小心翼々の不安、不平人とする。
そして、人は食べすぎるわりに、吸収力が少なく、大部分排出する。しかも、その消化に要するエネルギーの消耗が激しいために、燃焼が悪く、悪ガスが全身にくすぶり、血液は濁り、血管は硬直するから、スモッグ体質はスモッグ人生となり、これが高血圧や心臓病やガンや中風など、成人病の原因となる。
たくさん食べて、たくさん便を排出することは、有害無益である。肉体は太るかもしれないが、細胞の本質は弱ってしまう。これがさまざまな病気の原因となる。その一番恐ろしいものが、ガンなのである。
また、甘い物を食べると、便秘がちとなるもの。先に入っていた物が、みな胃の中、胃から腸をずうっと固くする影響がある。
消化器官に対する面から見ても、現代人は働かないわりに食事の分量が多すぎ、消化し切れないうちに次の飲食が嚥下されるので、胃腸の休む暇がない。腹八分に病なし。そうすればガンの心配などしないですむのである。
満腹は不健康の元である
人間は腹八分、バランスのとれた物を少しずつ食べることである。淡白に味をつけた小食をよく噛めば、まことにそのものの味が出る。人生の味も腹八分の心構えを、平素身に着けることだ。
食べ物がおいしいからといって、たくさん胃の中に詰め込めば、胃はいっぱいになって胃液すら分泌できにくくなってしまう。相当長い時間をかけないと消化しないのに、次の食事時間がくれば、続いて食べてしまうから結局、胃が重いとか、もたれるということになるのは当たり前なわけである。
一方、断食をした後、復食後の食事を三拝九拝して押し頂いて食べても、なお感謝し切れず、平素食物に対してあまりにも横着であったことを猛省する。砂漠広しといえども、米粒一つは落ちていないだろう。まさに「一粒の米これすなわち菩薩なり」と拝むわけである。
現代人は安易な物量に慣れ切って、汗水流して生産しないでもお金で買えるから、過食暴食の悪習に染まる。肉体は自然機械、容積一リットルの胃に二リットル詰め込めばどうなるか。元来肉体は素直にできているから、心の暴君の思いのまま。体は何もいわないけれど、こなす容量の何倍もほうり込まれれば、胃や体を壊してでも消化しようとするのである。
胃というものは、食べ物を消化するだけではなくて、生きていく上の意識に非常に大きな働きを持たされているから、胃がもたれ、気分がすぐれないなどということは、みな心の受ける悪影響、自己意識となるのである。
また、胃というものは、食べ物を食べない時でも適当に胃液を出して、生きる上の上半身の細胞に力を与えている。消化ばかりが胃の働きではない。唾液でも、胃液と同じことがいえる。消化や吸収といった作用ばかりでなく、生きるための適当な分泌が続けられているのである。
だから、若い時ならばいくら食べても無理はきくものなのだが、ストレスの多いこういう時代では、四十歳をすぎたら胃の中の消化液の力も弱くなってくるから、量をたくさん食べたり、刺激の強い物を食べたりすることはいけない。それは、日常無理をしすぎているということと、だんだん体を動かさないようになって、運動不足になっているということからなのである。
肝心なことは、胃の中にある固形物の量と胃の分泌液とのバランスが、うまくとれればいいことを覚えておくことだ。
一時にたくさん食べられなければ、少し食べてやめ、何時間かおいてまた食べるようにすると、けっこう消化も進み、胃にもたれないし、胃液の分泌も活発で、非常に快適であるというわけである。
食べる以上はよくこなしてくれるほどに、胃腸の機能を育てなければならない。
この胃腸の機能をよくするには、夕食は満腹にしてはいけない。よく、人間は「夜こそ楽しみである」といい、夜は平均して七、八時間も寝るから、満腹してもいいように思っているが、胃の中にいっぱい入れたならば、胃腸の働きは困るものなのである。
胃腸というものは、体の全機能を調整するのであるから、夕食など極端にいえば、うんと少なくてもいいのである。
そのほうが体の機能的な面は充実してくる。こんなことをいうと、今の時代には笑われてしまうけれども、内容的な面からいうならば、それはいえるのである。
年齢的にいえば、年寄りは腹七分目より少なくてよい。若い者はなかなかそうはいかないだろうが、七、八分目くらいで十分であり、それでも体は充実されるのである。
栄養過剰が人類を滅ぼす
食べるほど精がつくなどとは、決して思わぬこと。朝食は軽く、昼食を主にすることだ。夕食を食べすぎると、消化器に障りが起きるばかりでなく、睡眠不足に陥る恐れがある。
夕食を適度にすまし、夜は余計なことはやらない。体も心もゆったり解放することが大切だ。
ところが、今時の若い者たちは、朝食を抜くと仕事や勉強の集中力不足を招くのに、朝食べずに出掛ける。昼は適当に食べる。昼が軽すぎるために、夜は帰ってきて、くつろぎながらたくさん食べる。
これでは、体の疲れとか機能的の面の調整はできない。だから、血液の循環も悪くなる。心臓の働きにしても、そのほかの何もかにも全部、この夜ということにおいて大事なわけなのである。
結局、現代の日本人は栄養的な説からいろいろいわれ、うまい物をたくさん食べているが、皆、病気になっているのである。物資に恵まれて、食べることには心配はなく、たくさんあるだけに、体の調整が鈍っている、できないといえるのである。
こういう日本人への警鐘の意味で、平成四年の日本経済新聞から、メキシコ・インディオの食生活を研究した共立女子大、泉谷教授の話を紹介する。
貧しくて食べ物の八十パーセントがトウモロコシで、残りはウズラ豆とジャガイモで、肉はほとんど口にしない彼らの社会に、不妊症は全く見られなかった。
逆に、飽食を謳歌(おうか)している日本では、不妊症で悩む夫婦は全体の一割もあり、妊娠しても三分の二の女性が、帝王切開や人工分娩に頼らざるを得ない状況である。
高カロリー、高蛋白の栄養は、子孫を増やすには望ましくない。牛でも、高蛋白のえさを与えると子を産まない。花でも、蛋白質を含む窒素をやりすぎると、生殖器官である花が咲きにくくなる。
栄養がよい状態で繁殖する生物は、栄養分を短期間で食べ尽くし、栄養事情が厳しくなった時には、種の絶滅の危機にさらされる。ところが、栄養の悪い時により多く繁殖する生物は、よい栄養事情を長く楽しみ、絶滅の可能性は低い。
「こうして何十億年という生命の進化の歴史の中で、環境が悪い時に子孫を残すタイプの種が生き残ったのではないか」と同教授はいう。とすれば、人類にも同じプログラムが埋め込まれている、と考えるのが自然ではないか。
この約五十年間で、全世界の男性の精子の濃さが半分になっていると発表した学者がいるが、この間の食糧大増産、食事の高蛋白化が影響している可能性が大きいわけだ。
「衣食足って」というが、足れば足るほどに貧富の差が広がり、社会に不満が蓄積して犯罪が増える傾向が強いのは、困ったことだ。「礼節を知る」を素通りしてしまっているのが、現代社会の構図である。
「暖衣飽食、逸居して教うることなければ即ち禽獣(きんじゅう)に近し」と「孟子」にある。暖衣飽食が己の破滅、ひいては民族の破滅を招く元凶であることを、とくと銘記すべきだ。
修行僧の秘密を説明すれば、食べ物というのは一種の触媒みたいなもので、少し食べておけば、その何倍かの栄養が唾液との化合作用や胃液の消化作用によって、宇宙から供給されるという面があるということである。
エネルギーというものは、食べ物からのみ得られるものではない。
わずか一リットルのガソリンでも、あの大きな車が走ることができるが、あれだけのエネルギーは、ガソリンだけでは出せないのである。そこに空気が加わった時に、どれほどの爆発力が出るか。
空気というのはタダであるから、人間はこの価値を忘れているけれども、食べ物をよく噛み、唾液、胃液とよく混和させてやれば、それに第二次的栄養、つまり肺臓から吸収した空気が燃焼して、「気」エネルギーが発生するわけである。
同時に、人間にとって、体内の水分のお陰で細胞から出てくる力、これも大きなものである。肉体というものは、水分によって運営されているといってもよいだろう。
食べ物は腹八分目にしておいて、後は水分から作られてくる力を養うがよい。粘りがある、辛抱ができるなどという力は、食べ物からくる力ではない。鍛錬によって「気」から作られる力である。
その空気と水のエネルギーの根源は、いったいどこにあるのか。誰が補給しているのであろうか。
源は宇宙である。エネルギーは宇宙にある。宇宙の「気」にある。そして、その「気」エネルギーを上手にエネルギー化して、あらゆるものに役立て、生き、生かしてゆくのが人間であり、人間の肉体の生命作用なのである。
人間には、「気」から作られてくる力と、食べ物からできる力があるわけである。それらは、同じ力のようでも、違いがあるし、違いが出る。
永平寺の修行僧の例などは、肉体を真理的に正常に働かせれば、精神が安定し、宇宙の「気」が肉体に十分に吸収され、肉体は豊かに維持されるという真理の実証である。
ところが、一般の現代人は空気を吸う量や、水を飲む量が少なすぎる一方で、物がありすぎるため、誰でもみな食べる量が多すぎる傾向がある。また、味は濃厚すぎ、ことに菓子など、甘味を多く取りすぎている。
現代人の生活態度を見ていると、いかにしてうまい物をたらふく食べるか、ということだけを考えているように思われる。一日三回食べるということでさえも、必要があって食べるというよりも、習慣だけで食べている。
食べるということはプラスの面ばかりでなく、マイナスの面もあることを忘れてはならない。
人間は、体にとって必要のある時だけ食べるのがよいし、必要のない時は食べないほうがよい。つまり、食べてはならない時には食べないほうが、より体のためになるという意味である。
これは実に簡単、明白な道理であり、真理であるのに、こうした基本的な原理でさえ、実社会では無視されているようである。
例えば、腹が減らない時は食べる必要がないし、ある程度食べて空腹感が止まったら、そこで食べることをストップすべきであって、それ以上は体にとって無駄というよりも、むしろ有害でさえある。
釈尊が説く横死する原因
このように私が食事について、腹八分の心得を説いても、一般の人にとって節度を守るということは、なかなか実行の難しいことであろう。
現代では、食事にしてもインスタント時代全盛とあってみれば、湯を加えたり、電子レンジに入れたりしてすぐ食べられるとなると、つい手が出る。街には食堂、料理店が軒を連ねているから、サンプルケースを見ていると、それも食べてみたくなる。
結果として、食いすぎということになるのだが、この食うことは命を養う上にきわめて大切なだけに、方法を間違うと反対の結果を招くのも当然で、小食で病気をしたり、命を失った者はあまりないが、過食のためには例外なく、体を痛めつけている。食べすぎて病んだり、死んだりする人も多い。
現代以後の日本人に、大きな忘れ物といえば、季節感であろう。夏冬ぶっ通して野菜が食える。温室ばかりではなくて、冷凍施設を利用すれば、世界中の食べ物はいつでも食える。その恵まれの結果は、飽食して肥満児を作り、恍惚(こうこつ)老人を増やし、病気の種類も多く、病人の数も激増している。何しろ、浮浪者も糖尿病になる時代なのだ。
イギリスのシェークスピアは、「ベニスの商人」の中で、「食べすぎは空腹と同様、体によくない」というセリフをいわせている。アメリカには、「多くの人々はフォークで墓を掘っている」ということわざがあるほど、栄養過剰で早死にする人が多い。
日本でも貝原益軒は、「飲食は人の大欲にして、口腹の好むところなり。この好みにまかせてほしいままにすれば、節に過ぎて、必ず脾腹をやぶり、諸病を生じ、命を失う」と、「養生訓」の中で戒めている。また、昔は食録などという言葉があって、「美食や飽食をする人は早死にする」といったものだ。
かの釈尊も、この食事の取り方の大切なことを説かれているので、紹介してみよう。
一、不饒益(ふじょうえき)の食をむさぼる――身のためにならぬ物をたくさんに食うこと。
二、食を計らず――食べる分量がデタラメだということ。
三、いまだ内に消せずして後食う――十分消化もしていないのに続けて食うこと。
四、強いて嚥下す――無理やりに飲み込むこと。
五、すでに消して出んとする物を強いて制す――排出すべき時に我慢して出す時を失うこと。
六、食病に応ぜず――病弱の時、それに合わせず、胃腸のよくない時でも、消化のよくない物を食うこと。
七、病に従って数量せず――病気の重い軽いに従って、食物を加減しないこと。
八、副食を怠る――副食物を食わないで、主食に偏すると、栄養が不足すること。
九、知恵なくして心を調うることあたはず。
ということが挙げられている。この注意事項は、食事の注意と述べたが、実は、人間の横死の原因として書かれたもの。九項目中八項目までが、食生活の問題であることは注目に値する。命を守り養生する上に、いかに食事ということが大切であるかを教えている。
第九項の心の問題は、どんなに食生活を正しくしても、心そのものが平静を保っていないと、例えば、「仕事だ、事件だ、野望だ」というものに追われ、イライラして落ち着かず、食べながら走り出すというようだと、せっかくの食事も身に着かないというわけだ。
古くから、食後のひとときの落ち着く時間を持つために、「親が死んでも食休み」というようなことがいわれているところをみると、食事を身に着けるものは、平静な心そのものだといわなくてはならない。
食事の時は、その食事に対して、心から感謝の心で取るということも、忘れてはならないだろう。
肉体は宇宙銀行の預金通帳
それでは、暴飲暴食などの弊害によって、なぜ横死にまで至るのか探ってみよう。
結論から先にいえば、人間の肉体くらい正直で、的確で、間違いのないものはないからである。例えていえば、人の体は宇宙銀行の預金通帳のようなもの。一生涯の貸借が細大漏らさず肉体のコンピューターで計算され、記入されて、当人は忘れていても、ことごとく運命上に表れる。
この肉体の仕組み、性格によって、さまざまな人生模様となるのである。つまり、人の一生の貸借対照表も財産目録も、みな、人の体にあるということである。
若い頃からの塩分の取りすぎからくる高血圧や脳卒中、肉の脂肪やバター、糖分の取りすぎ、肥満の人などに多い糖尿病と、ストレス過多や運動不足などが引き起こす心筋梗塞や狭心症などの諸病は、一口でいうと、長い間の食生活、生活習慣などの偏りが積もり積もって症状となるもの。
知らず知らずのうちに、肉体の預金通帳が赤字になっているのである。
ネズミでの試験で、腹いっぱい食わせたグループ、六十パーセント食わせたグループに分けて、どのくらい生きるか比べると、やはり小食グループのほうがずっと長生きする。 人間においても、食べ物をたくさん食べることによって、体の器官というものが災いされるものである。
人は欲が深く、むやみにたくさん食べて体を疲れさせ、妄想の種を多くして頭脳を悪くする。この妄想心が胃に固まり、感情が胸いっぱいにはびこると、常に意識界から、無形の圧力が上半身にみなぎり、胸を圧し、心臓を苦しめ、小心翼々の不安、不平人とする。
そして、人は食べすぎるわりに、吸収力が少なく、大部分排出する。しかも、その消化に要するエネルギーの消耗が激しいために、燃焼が悪く、悪ガスが全身にくすぶり、血液は濁り、血管は硬直するから、スモッグ体質はスモッグ人生となり、これが高血圧や心臓病やガンや中風など、成人病の原因となる。
たくさん食べて、たくさん便を排出することは、有害無益である。肉体は太るかもしれないが、細胞の本質は弱ってしまう。これがさまざまな病気の原因となる。その一番恐ろしいものが、ガンなのである。
また、甘い物を食べると、便秘がちとなるもの。先に入っていた物が、みな胃の中、胃から腸をずうっと固くする影響がある。
消化器官に対する面から見ても、現代人は働かないわりに食事の分量が多すぎ、消化し切れないうちに次の飲食が嚥下されるので、胃腸の休む暇がない。腹八分に病なし。そうすればガンの心配などしないですむのである。
満腹は不健康の元である
人間は腹八分、バランスのとれた物を少しずつ食べることである。淡白に味をつけた小食をよく噛めば、まことにそのものの味が出る。人生の味も腹八分の心構えを、平素身に着けることだ。
食べ物がおいしいからといって、たくさん胃の中に詰め込めば、胃はいっぱいになって胃液すら分泌できにくくなってしまう。相当長い時間をかけないと消化しないのに、次の食事時間がくれば、続いて食べてしまうから結局、胃が重いとか、もたれるということになるのは当たり前なわけである。
一方、断食をした後、復食後の食事を三拝九拝して押し頂いて食べても、なお感謝し切れず、平素食物に対してあまりにも横着であったことを猛省する。砂漠広しといえども、米粒一つは落ちていないだろう。まさに「一粒の米これすなわち菩薩なり」と拝むわけである。
現代人は安易な物量に慣れ切って、汗水流して生産しないでもお金で買えるから、過食暴食の悪習に染まる。肉体は自然機械、容積一リットルの胃に二リットル詰め込めばどうなるか。元来肉体は素直にできているから、心の暴君の思いのまま。体は何もいわないけれど、こなす容量の何倍もほうり込まれれば、胃や体を壊してでも消化しようとするのである。
胃というものは、食べ物を消化するだけではなくて、生きていく上の意識に非常に大きな働きを持たされているから、胃がもたれ、気分がすぐれないなどということは、みな心の受ける悪影響、自己意識となるのである。
また、胃というものは、食べ物を食べない時でも適当に胃液を出して、生きる上の上半身の細胞に力を与えている。消化ばかりが胃の働きではない。唾液でも、胃液と同じことがいえる。消化や吸収といった作用ばかりでなく、生きるための適当な分泌が続けられているのである。
だから、若い時ならばいくら食べても無理はきくものなのだが、ストレスの多いこういう時代では、四十歳をすぎたら胃の中の消化液の力も弱くなってくるから、量をたくさん食べたり、刺激の強い物を食べたりすることはいけない。それは、日常無理をしすぎているということと、だんだん体を動かさないようになって、運動不足になっているということからなのである。
肝心なことは、胃の中にある固形物の量と胃の分泌液とのバランスが、うまくとれればいいことを覚えておくことだ。
一時にたくさん食べられなければ、少し食べてやめ、何時間かおいてまた食べるようにすると、けっこう消化も進み、胃にもたれないし、胃液の分泌も活発で、非常に快適であるというわけである。
食べる以上はよくこなしてくれるほどに、胃腸の機能を育てなければならない。
この胃腸の機能をよくするには、夕食は満腹にしてはいけない。よく、人間は「夜こそ楽しみである」といい、夜は平均して七、八時間も寝るから、満腹してもいいように思っているが、胃の中にいっぱい入れたならば、胃腸の働きは困るものなのである。
胃腸というものは、体の全機能を調整するのであるから、夕食など極端にいえば、うんと少なくてもいいのである。
そのほうが体の機能的な面は充実してくる。こんなことをいうと、今の時代には笑われてしまうけれども、内容的な面からいうならば、それはいえるのである。
年齢的にいえば、年寄りは腹七分目より少なくてよい。若い者はなかなかそうはいかないだろうが、七、八分目くらいで十分であり、それでも体は充実されるのである。
栄養過剰が人類を滅ぼす
食べるほど精がつくなどとは、決して思わぬこと。朝食は軽く、昼食を主にすることだ。夕食を食べすぎると、消化器に障りが起きるばかりでなく、睡眠不足に陥る恐れがある。
夕食を適度にすまし、夜は余計なことはやらない。体も心もゆったり解放することが大切だ。
ところが、今時の若い者たちは、朝食を抜くと仕事や勉強の集中力不足を招くのに、朝食べずに出掛ける。昼は適当に食べる。昼が軽すぎるために、夜は帰ってきて、くつろぎながらたくさん食べる。
これでは、体の疲れとか機能的の面の調整はできない。だから、血液の循環も悪くなる。心臓の働きにしても、そのほかの何もかにも全部、この夜ということにおいて大事なわけなのである。
結局、現代の日本人は栄養的な説からいろいろいわれ、うまい物をたくさん食べているが、皆、病気になっているのである。物資に恵まれて、食べることには心配はなく、たくさんあるだけに、体の調整が鈍っている、できないといえるのである。
こういう日本人への警鐘の意味で、平成四年の日本経済新聞から、メキシコ・インディオの食生活を研究した共立女子大、泉谷教授の話を紹介する。
貧しくて食べ物の八十パーセントがトウモロコシで、残りはウズラ豆とジャガイモで、肉はほとんど口にしない彼らの社会に、不妊症は全く見られなかった。
逆に、飽食を謳歌(おうか)している日本では、不妊症で悩む夫婦は全体の一割もあり、妊娠しても三分の二の女性が、帝王切開や人工分娩に頼らざるを得ない状況である。
高カロリー、高蛋白の栄養は、子孫を増やすには望ましくない。牛でも、高蛋白のえさを与えると子を産まない。花でも、蛋白質を含む窒素をやりすぎると、生殖器官である花が咲きにくくなる。
栄養がよい状態で繁殖する生物は、栄養分を短期間で食べ尽くし、栄養事情が厳しくなった時には、種の絶滅の危機にさらされる。ところが、栄養の悪い時により多く繁殖する生物は、よい栄養事情を長く楽しみ、絶滅の可能性は低い。
「こうして何十億年という生命の進化の歴史の中で、環境が悪い時に子孫を残すタイプの種が生き残ったのではないか」と同教授はいう。とすれば、人類にも同じプログラムが埋め込まれている、と考えるのが自然ではないか。
この約五十年間で、全世界の男性の精子の濃さが半分になっていると発表した学者がいるが、この間の食糧大増産、食事の高蛋白化が影響している可能性が大きいわけだ。
「衣食足って」というが、足れば足るほどに貧富の差が広がり、社会に不満が蓄積して犯罪が増える傾向が強いのは、困ったことだ。「礼節を知る」を素通りしてしまっているのが、現代社会の構図である。
「暖衣飽食、逸居して教うることなければ即ち禽獣(きんじゅう)に近し」と「孟子」にある。暖衣飽食が己の破滅、ひいては民族の破滅を招く元凶であることを、とくと銘記すべきだ。
■よく噛む効用1 [食べ方を工夫する]
食事をよく噛む大切さ
食事は一日に朝と晩の二回で、昼は抜いているという人もいる。空腹であろうとなかろうと、一日に三度と決めて食事をするのはあまり意味がない。時間や回数にはこだわらず、おなかがすいた時に腹七、八分目に食べることが、最も自然で合理的な食事法と考えているからである。
その代わり、二食の食事は、旬(しゅん)の食べ物をよく噛んでいただく。食事三昧に徹して、よく噛んで、噛んで、一生懸命噛んで、少なくとも一時間はかけている。これが実においしい。食べ物がおいしいということは、大変に幸せなことである。
同時に、よく噛んで体を鍛える。噛むことで唾液が十分に出る。唾液の効というのは非常に大きい。素晴らしい働きをして、体を養ってくれている。
その効用を大きくこの生命活動に取り入れているから、胃腸を悪くするということがない。体の器官が常に健康、正常に働いている。体が健全であれば、心は完全。静かに、素直に肉体に従う。
この噛むということの大切さを、現代人はどれほど知っているか。三千年ほど前にできた中国の「黄帝内経」という東洋医学の古典にも、「呼吸と咀嚼が完全になされるなら、人は百年生きることができる」と書いてある。
よく噛んでいれば、唾液の分泌が盛んになって、食べた物が口の中で十分に消化される。咀嚼によって、食物は小さく砕かれ、表面積が大きくなれば、消化酵素などが触れる部分が大きくなるから、それだけ消化しやすくなる道理である。
軽く考えて、よく味わいもせずに流し込んでいては、唾液が十分に働かないために胃が迷惑をする。精神の働きも弱くなってくる。
食べ物に対する観念、態度を正さなければならない。食事というものは、呼吸と睡眠と合わせた生命の三大作用なのであるが、それをただ肉体を維持するだけだくらいに思ってはならないのである。
だから当然、私の食事は、量の問題、腹八分目に食べるということについても、十分に注意を払っている。
何を食べるかよりも量に注意せよ。食べすぎ、太りすぎは、成人病の最大の原因だといわれている。なぜ食べすぎ、太りすぎがよくないかといえば、食べすぎは消化器官に負担をかけ、太りすぎは心臓や肺に負担をかけるからである。
もちろん、食事の適量というのは、個人個人の体質や生活により異なる。スポーツ選手や重労働者と、普通の仕事に携わる人とでは違ってきて当たり前であるが、グルメな現代の日本人は一般的に過食ぎみである。
「病は口から入る」ということわざもあるが、うまい物があればつい食べすぎるのも、口が卑しいからである。必要以上に食べすぎると、意識がボンヤリして、仕事や勉強をするのが面倒になる。
何より健康を考えるなら、カロリーの面より、栄養の吸収力と排泄機能を高める工夫をしたい。
例えば、繊維質を多く含んだ食べ物などをよく噛んで食べれば、三分の二、ないし半分の量で腹が膨れるし、夕食の量が多すぎたり、食べる時間が遅かった場合は、朝食を抜いて胃腸を休めることも有効だ。東洋には、一日二食主義という健康法もある。小食主義を勧めるのは、体の機能増進、新陳代謝に役立つからだ。
咀嚼は精神の営みである
食べ物をたくさん食べても、やせている人がいる。いくら食べても元気のない人がいる。一方、小食かつ粗食でありながら、まことにエネルギッシュに活動する人も多い。食べ物の分量だけが人間の肉体を作るのではないことが、よく理解できる。
誰もが腹八分の心構えを平素から身に着け、バランスのとれた物を少しずつ、よく噛んで食べることである。
腹いっぱい食物を押し込まずに、腹八分の自然の食べ物を口の中で気化するほどに、よく咀嚼することが大切。これは、物の味の真髄を極めることに通じる。咀嚼は単なる口腔の運動ではない。全身の営みであり、精神の営みである。
また、人の二倍も三倍もよく噛んで、口の中である程度気化してしまった食べ物が、直接細胞に吸収されると、ハイ・オクタン価のガソリンのように、熱効率の高い物が生産されることになる。
さらに、よく噛んで食べて、唾液を十分に分泌してやれば、栄養分が無駄なく細胞に吸収されるばかりか、体は足りない栄養素を必要に応じて作り出すことさえもしてくれる。 粗食でもよく噛めば、唾液の神秘性が栄養に変化させる妙も、自然と肉体の秘密である。栄養価の少ない物でも、唾液によくまぶして嚥下したならば、胃の中で、カロリーに代わる物ができるものである。噛まなければそれはできない。口は最大の消化器官である。
つまり、極端にいうならば、食べる物はどんな物でもよい。カロリーやビタミン計算にばかり心を奪われているのが、現代人だ。旬の物を、よく噛んで食べれば、何を食べても消化、吸収されて、立派な体ができてくるものである。
唾液というものは、口から侵入してくる病原菌をすかさず捕らえて殺してもくれる。唾液の働きによって、健康が保障され、老化が防げるのである。唾液は、すべてに作用する万能ホルモンなのである。
このような唾液の働きを知ったからには、毎日の食事時に、もっとゆっくり時間をかけて、食べ物を十分に噛みしめて味わうことである。
噛むということは、唾液という神秘性の物質を生み出すことによって、人間の感覚を素晴らしいものにするのである。
禅者にガンなし、病気なし。みな長寿なのは、かゆや梅干し、野菜食などで、千二百カロリーの粗食でも、よく噛んで食べることに原因がある。このような食生活によって、かえって心気は清澄になり、不思議な体力が維持されるという秘密が生命にはある。
一石三鳥の合理的食事法
食べ物をよく噛まない人の多いのに驚く。よく噛めば、口の中で七割も八割も消化される。完全消化は、口の段階では意識的にできる。そうして、食物が万病薬となり、万能力となる。
よく噛まなければ、どうしても食べすぎてしまう。食事というのも一つの習慣だから、大食の癖がつくと、ついついたくさん食べないと満腹感が味わえなくなってしまう。
その満腹感というのは、脳の視床下部の満腹中枢が決めるというが、そこを刺激するルートが二つあって、胃壁の迷走神経のほかに、血糖値の変化を中枢の神経細胞が監視している。
だから、あわてて飲み込んだりせず、時間をかけてよく噛めば、栄養の吸収率がよくなって血糖値の増加も早い。それだけ早く満腹感が得られることになる。
おまけに、パロチンを含んだ唾液が十分に出るから、若返りや老化防止にも役立つし、食べる量も半分ぐらいですむという、まさに、一石三鳥の合理的な満腹法、健康法なのである。
つまり、すべての人にとって相対的でしかない食べ物を、自己の絶対力で食べて、人の半分の分量が人の倍のエネルギーになるという食べ方で、それを己自身がすればよいのである。
多くの人は、百グラムの食べ物を食べる時に、十だけ咀嚼し、十の唾液しか出さずに、ガツガツと食べてしまう。これが五十グラムの食べ物であっても、五十の咀嚼と唾液を加えて完全な食べ方をすれば、すべてが完全燃焼して、素晴らしいエネルギーに変化するのである。
この点、私が天啓を受ける宇宙の神の言葉に、「食べ物が気化してエネルギーとなる」というのがある。
食べ物を十分に、液状になるまでよく噛むと、本当に水のような何も形のない物になって体に入ってゆく。食べ物が口の中で「気」になり、ただちにエネルギーになって吸収されるのであろう。
一部分は、もちろん下に下りてゆく。おそらく、唾液と食べ物が同化し、気化した後の物が、胃に下がっていくのであろうけれども、やがては肉体に吸収されて、みな「気」になる。細胞が物を「気」にし、エネルギーにして、人間の働きにする。九十六歳という私の老体で、毎日こんなに元気に働けるのは、この「気」ゆえである。
誰もが口を働かせること。五官の一つである口を十分に働かせて、口を通して宇宙の「気」を受けることである。肉体というものは、自覚のいかんを問わず、無限宇宙とつながることのできる唯一無上の存在なのだから、口の働かせ方をおろそかにしてはならない。口は最大の消化器官である。
まず夜は早く寝て、昼は働き、腹が減ったら何でもよく噛んで食べれば栄養にもなる。草を食べて馬は太り、ワラを食べて牛が大量の牛乳を作ってくれるではないか。
食事が人間形成に影響する
人間においても、エネルギーの元になる食べ物を気化するほどに咀嚼することは、物の味の真髄を極めることにもなる。
山の幸、海の幸には、それぞれ固有の味覚があるのに、ろくに噛みしめずに胃袋に送っては、いかにももったいない。また、その結果表れる健康か病身かという差異はもとより、賢愚、幸不幸に至るまで、驚くほどの開きが出てしまう。
咀嚼さえ十分に行われれば、天然の味が人工の味つけなど比較にならないほど美味になる。自然意識によって捕らえることができるなら、調味料を加えない大根おろしでも、絶妙な天恵の味覚として受け取ることができるようにもなる。落ち着いてよく噛んで食べれば、「大根どきの医者いらず」といわれる野菜の主役の栄養が身に着くし、味がわかる。味は精神である。自然意識である。
反対に、食べ方が早すぎる、よく噛まないというのは、食べ物の味を味わわないということで、過食の原因ともなる。
まず食べ物を粗食にし、よく噛むこと。今までの三倍噛むようにすれば、真の味もわかるし、量も少なくてすむ。物の価値と恩恵もわかり、肉体の持つ巧妙性、万能力を知ることもできるようになる。
すなわち、付け加えたいことは、人間の口は、食物を食べるためのみにあるのではないこと。そこでは、万事、万物の味がわかるように仕組まれている。
同じ毎日の食事をするにしても、よく噛む人と早飯食いの人とでは大変な差がある。よく噛んで食べる人は、単に栄養の吸収がよくなるということだけではなく、すべてについて感覚、感度のよい人間となる。
だから、口でよく味わう人は、肉体で物事一切の味も感じ、人間自身も味のある人間となることができるのである。物の味がよくわかり、味のある人間は、精神作用も立派になるから、頭がボケるということもない。
そして、たとえ粗末な食べ物でも、天の恵みだと思い、口でよく噛んで食べれば、消化され肉体力となり、気化して精神力となるから、心身ともに全知全能の人となるだろう。
こうして、食べ物は腹八分にして、よく噛んで一つひとつの味がわかるようになれば、「おいしいな」、「楽しいな」と、この積極的な幸福を食べ物からも得てゆくことができる。食べ物ゆえに程合いを知り、節度、調和が保たれる結果、楽しく幸福だということがわかるようになってくる。
システムとしての咀嚼
さて、私が述べてきたよく噛むという行為に関して、最近では、歯は感覚情報器官であり、物を噛んで食べるという咀嚼は口だけの運動ではなく、システムとして捕らえるべきだという研究が発表されている。
これは、歯の根からの神経が、頭を支える首の筋肉群につながっていることを突き止め、脳全体への情報伝達という意味から、幼児期からよく噛むことがボケの予防にも役立つし、唇や舌などの情報は各神経系を通じて脳幹に伝えられ、適切なリズムで噛み続けられるように、咬(こう)筋などの咀嚼筋を調節するというものである。
生理的にいえば、何気なく毎日やっている噛んで食べるという行為も、実は複雑な神経系のお陰ということである。
よく噛むことは、体の生理や神経にとって最も大切なことだし、歯槽膿漏(しそうのうろう)の予防、健全な歯並びによいだけではなく、あごの筋肉の伸縮で大脳を刺激する信号が送られ、情緒的にも安定して、無意識のうちにストレスを解消、中和させるという、人間形成上に大きな役割を果たすこともわかっている。
リズミカルなあごの運動によって、パッピネス・ホルモン(ベータ・エンドルフィン)という物質も分泌される。このホルモンが多量に分泌される状態の時、ストレス解消はもちろん、ウイルスやガン細胞の増殖を抑える力まで発揮するのである。
もちろん、食物の味がわかるためにも、咬筋という一群の筋肉を十分に動かして、十二分に咀嚼しなければならない。
現代人は高級な食生活をしながら、食べ方が早すぎる。すでに述べたように、食物の味を知る人間は、人間としての味が出る、知恵も出る。腹いっぱい食べる人間には、物事の真髄がわからない。
そういう意味で、むやみと軟らかい食べ物を選ぶのもよくない。現代の食べ物やその傾向を見ていると、ハンバーグなどに代表される練り物と、めん類が全盛で、人類の歯という歯は、ほどなく、ちょっと硬めの食べ物にも「歯が立たない」ものになってしまうに違いない。ある実験によると、現代食の咀嚼回数は、戦前の約半分だともいう。
現に、よく噛まないせいで、あごの発達が悪くなっている子供が増えている。
また、現代の食生活は、あごや歯だけではなく、胃腸などの消化器官にも影響をおよぼしている。半加工された食物は、消化器官をも退化させているのである。現代人に便秘持ちが多いのは、肉食中心で繊維質不足の食生活が原因である。少々消化の悪い食べ物を取っても、すぐに胃腸障害を起こさない丈夫な胃腸を作る必要がある。
唾液は万能ホルモンである
私が説く食養生法の中では、よく噛むことと、唾液の神秘的な効用を特に強調している。わけても唾液の効用を改めて挙げれば、その多彩さ、万能さに驚く人も多いだろう。
唾液について本当に知る人は少ないが、これが実は生命の源泉である。肉体の第一関門に存在して、万能力を発揮している。その働きによって、健康が保障され、老化も防げる。唾液こそは、すべてに作用する万能ホルモンなのである。
気化も、消化も、殺菌もすべて行う。味も、においも何もかも取捨選択する。犬の嗅覚の鋭さも、牛が粗食しながら、あれほど大量の乳を出すのも、みな唾液の効である。
消化作用というものも、胃や腸だけで行われるものではないわけである。口の中でよく噛んで食べ、固形物を液化すれば、その大半は霊妙な唾液の働きで気化され、気化熱というエネルギーになり、体の細胞が直接に栄養を吸収してしまうものである。
胃腸で消化された後のカスは宿便となって体内に残るが、気化されてしまうとわずかなガスが残るだけだし、そのガスも朝の目覚めの放屁一発で消え去り、肉体はいつでもすがすがしく新陳代謝されている。
だから、よく噛むということは、それだけ唾液が豊富に分泌され、神秘的な効用を引き出すということで、それは消化を助けるばかりでなく、唾液中に含まれるさまざまなホルモンが全身の健康維持に大いに役立つ。
そして、よく噛んで食べれば、唾液の作用で物の本当の味わいがわかるものである。
俗に「空腹という名のソースをかけて食べれば、世の中にまずい物はない」といわれるが、唾液という名の天然のソースは、もっと合理的で経済的で、健康的なものである。
その食べ物の味というものは、うまい、まずいという二つの面だけははっきりしている。そのうまさ、まずさというもの、何がよくて、何が欠けているかということは、唾液の働きによって教えられるものである。
うまいということは、どういうところがどううまいか、何がうまいか、永遠に残るうまさか、ほかの物に応用されるほどになるうまさか、これは唾液に残さなければならないものである。まずさというものも、同じように唾液に残らなければならない。
唾液は分泌してしまえば終わりのように、思うものである。今、物を食べて、唾液によってまぶすということになると、その唾液は死んで、もう分泌したから終わりであるかというと、実は残っているわけである。
料理で同じ物を作るということになると、味がさらに変わってくる場合と、同じ味をいつも変わらずに保つことができるということは、唾液の分泌から計算することができる。
そもそも唾液なるものは、もともとは肉体の発生する一つのホルモンであり、液体である。ない世界から働きを持って出てきて、ある世界の物とぶつかると、そこにある世界の物の中にあった味というような物を抜いて感じ取っていく。
食事は一日に朝と晩の二回で、昼は抜いているという人もいる。空腹であろうとなかろうと、一日に三度と決めて食事をするのはあまり意味がない。時間や回数にはこだわらず、おなかがすいた時に腹七、八分目に食べることが、最も自然で合理的な食事法と考えているからである。
その代わり、二食の食事は、旬(しゅん)の食べ物をよく噛んでいただく。食事三昧に徹して、よく噛んで、噛んで、一生懸命噛んで、少なくとも一時間はかけている。これが実においしい。食べ物がおいしいということは、大変に幸せなことである。
同時に、よく噛んで体を鍛える。噛むことで唾液が十分に出る。唾液の効というのは非常に大きい。素晴らしい働きをして、体を養ってくれている。
その効用を大きくこの生命活動に取り入れているから、胃腸を悪くするということがない。体の器官が常に健康、正常に働いている。体が健全であれば、心は完全。静かに、素直に肉体に従う。
この噛むということの大切さを、現代人はどれほど知っているか。三千年ほど前にできた中国の「黄帝内経」という東洋医学の古典にも、「呼吸と咀嚼が完全になされるなら、人は百年生きることができる」と書いてある。
よく噛んでいれば、唾液の分泌が盛んになって、食べた物が口の中で十分に消化される。咀嚼によって、食物は小さく砕かれ、表面積が大きくなれば、消化酵素などが触れる部分が大きくなるから、それだけ消化しやすくなる道理である。
軽く考えて、よく味わいもせずに流し込んでいては、唾液が十分に働かないために胃が迷惑をする。精神の働きも弱くなってくる。
食べ物に対する観念、態度を正さなければならない。食事というものは、呼吸と睡眠と合わせた生命の三大作用なのであるが、それをただ肉体を維持するだけだくらいに思ってはならないのである。
だから当然、私の食事は、量の問題、腹八分目に食べるということについても、十分に注意を払っている。
何を食べるかよりも量に注意せよ。食べすぎ、太りすぎは、成人病の最大の原因だといわれている。なぜ食べすぎ、太りすぎがよくないかといえば、食べすぎは消化器官に負担をかけ、太りすぎは心臓や肺に負担をかけるからである。
もちろん、食事の適量というのは、個人個人の体質や生活により異なる。スポーツ選手や重労働者と、普通の仕事に携わる人とでは違ってきて当たり前であるが、グルメな現代の日本人は一般的に過食ぎみである。
「病は口から入る」ということわざもあるが、うまい物があればつい食べすぎるのも、口が卑しいからである。必要以上に食べすぎると、意識がボンヤリして、仕事や勉強をするのが面倒になる。
何より健康を考えるなら、カロリーの面より、栄養の吸収力と排泄機能を高める工夫をしたい。
例えば、繊維質を多く含んだ食べ物などをよく噛んで食べれば、三分の二、ないし半分の量で腹が膨れるし、夕食の量が多すぎたり、食べる時間が遅かった場合は、朝食を抜いて胃腸を休めることも有効だ。東洋には、一日二食主義という健康法もある。小食主義を勧めるのは、体の機能増進、新陳代謝に役立つからだ。
咀嚼は精神の営みである
食べ物をたくさん食べても、やせている人がいる。いくら食べても元気のない人がいる。一方、小食かつ粗食でありながら、まことにエネルギッシュに活動する人も多い。食べ物の分量だけが人間の肉体を作るのではないことが、よく理解できる。
誰もが腹八分の心構えを平素から身に着け、バランスのとれた物を少しずつ、よく噛んで食べることである。
腹いっぱい食物を押し込まずに、腹八分の自然の食べ物を口の中で気化するほどに、よく咀嚼することが大切。これは、物の味の真髄を極めることに通じる。咀嚼は単なる口腔の運動ではない。全身の営みであり、精神の営みである。
また、人の二倍も三倍もよく噛んで、口の中である程度気化してしまった食べ物が、直接細胞に吸収されると、ハイ・オクタン価のガソリンのように、熱効率の高い物が生産されることになる。
さらに、よく噛んで食べて、唾液を十分に分泌してやれば、栄養分が無駄なく細胞に吸収されるばかりか、体は足りない栄養素を必要に応じて作り出すことさえもしてくれる。 粗食でもよく噛めば、唾液の神秘性が栄養に変化させる妙も、自然と肉体の秘密である。栄養価の少ない物でも、唾液によくまぶして嚥下したならば、胃の中で、カロリーに代わる物ができるものである。噛まなければそれはできない。口は最大の消化器官である。
つまり、極端にいうならば、食べる物はどんな物でもよい。カロリーやビタミン計算にばかり心を奪われているのが、現代人だ。旬の物を、よく噛んで食べれば、何を食べても消化、吸収されて、立派な体ができてくるものである。
唾液というものは、口から侵入してくる病原菌をすかさず捕らえて殺してもくれる。唾液の働きによって、健康が保障され、老化が防げるのである。唾液は、すべてに作用する万能ホルモンなのである。
このような唾液の働きを知ったからには、毎日の食事時に、もっとゆっくり時間をかけて、食べ物を十分に噛みしめて味わうことである。
噛むということは、唾液という神秘性の物質を生み出すことによって、人間の感覚を素晴らしいものにするのである。
禅者にガンなし、病気なし。みな長寿なのは、かゆや梅干し、野菜食などで、千二百カロリーの粗食でも、よく噛んで食べることに原因がある。このような食生活によって、かえって心気は清澄になり、不思議な体力が維持されるという秘密が生命にはある。
一石三鳥の合理的食事法
食べ物をよく噛まない人の多いのに驚く。よく噛めば、口の中で七割も八割も消化される。完全消化は、口の段階では意識的にできる。そうして、食物が万病薬となり、万能力となる。
よく噛まなければ、どうしても食べすぎてしまう。食事というのも一つの習慣だから、大食の癖がつくと、ついついたくさん食べないと満腹感が味わえなくなってしまう。
その満腹感というのは、脳の視床下部の満腹中枢が決めるというが、そこを刺激するルートが二つあって、胃壁の迷走神経のほかに、血糖値の変化を中枢の神経細胞が監視している。
だから、あわてて飲み込んだりせず、時間をかけてよく噛めば、栄養の吸収率がよくなって血糖値の増加も早い。それだけ早く満腹感が得られることになる。
おまけに、パロチンを含んだ唾液が十分に出るから、若返りや老化防止にも役立つし、食べる量も半分ぐらいですむという、まさに、一石三鳥の合理的な満腹法、健康法なのである。
つまり、すべての人にとって相対的でしかない食べ物を、自己の絶対力で食べて、人の半分の分量が人の倍のエネルギーになるという食べ方で、それを己自身がすればよいのである。
多くの人は、百グラムの食べ物を食べる時に、十だけ咀嚼し、十の唾液しか出さずに、ガツガツと食べてしまう。これが五十グラムの食べ物であっても、五十の咀嚼と唾液を加えて完全な食べ方をすれば、すべてが完全燃焼して、素晴らしいエネルギーに変化するのである。
この点、私が天啓を受ける宇宙の神の言葉に、「食べ物が気化してエネルギーとなる」というのがある。
食べ物を十分に、液状になるまでよく噛むと、本当に水のような何も形のない物になって体に入ってゆく。食べ物が口の中で「気」になり、ただちにエネルギーになって吸収されるのであろう。
一部分は、もちろん下に下りてゆく。おそらく、唾液と食べ物が同化し、気化した後の物が、胃に下がっていくのであろうけれども、やがては肉体に吸収されて、みな「気」になる。細胞が物を「気」にし、エネルギーにして、人間の働きにする。九十六歳という私の老体で、毎日こんなに元気に働けるのは、この「気」ゆえである。
誰もが口を働かせること。五官の一つである口を十分に働かせて、口を通して宇宙の「気」を受けることである。肉体というものは、自覚のいかんを問わず、無限宇宙とつながることのできる唯一無上の存在なのだから、口の働かせ方をおろそかにしてはならない。口は最大の消化器官である。
まず夜は早く寝て、昼は働き、腹が減ったら何でもよく噛んで食べれば栄養にもなる。草を食べて馬は太り、ワラを食べて牛が大量の牛乳を作ってくれるではないか。
食事が人間形成に影響する
人間においても、エネルギーの元になる食べ物を気化するほどに咀嚼することは、物の味の真髄を極めることにもなる。
山の幸、海の幸には、それぞれ固有の味覚があるのに、ろくに噛みしめずに胃袋に送っては、いかにももったいない。また、その結果表れる健康か病身かという差異はもとより、賢愚、幸不幸に至るまで、驚くほどの開きが出てしまう。
咀嚼さえ十分に行われれば、天然の味が人工の味つけなど比較にならないほど美味になる。自然意識によって捕らえることができるなら、調味料を加えない大根おろしでも、絶妙な天恵の味覚として受け取ることができるようにもなる。落ち着いてよく噛んで食べれば、「大根どきの医者いらず」といわれる野菜の主役の栄養が身に着くし、味がわかる。味は精神である。自然意識である。
反対に、食べ方が早すぎる、よく噛まないというのは、食べ物の味を味わわないということで、過食の原因ともなる。
まず食べ物を粗食にし、よく噛むこと。今までの三倍噛むようにすれば、真の味もわかるし、量も少なくてすむ。物の価値と恩恵もわかり、肉体の持つ巧妙性、万能力を知ることもできるようになる。
すなわち、付け加えたいことは、人間の口は、食物を食べるためのみにあるのではないこと。そこでは、万事、万物の味がわかるように仕組まれている。
同じ毎日の食事をするにしても、よく噛む人と早飯食いの人とでは大変な差がある。よく噛んで食べる人は、単に栄養の吸収がよくなるということだけではなく、すべてについて感覚、感度のよい人間となる。
だから、口でよく味わう人は、肉体で物事一切の味も感じ、人間自身も味のある人間となることができるのである。物の味がよくわかり、味のある人間は、精神作用も立派になるから、頭がボケるということもない。
そして、たとえ粗末な食べ物でも、天の恵みだと思い、口でよく噛んで食べれば、消化され肉体力となり、気化して精神力となるから、心身ともに全知全能の人となるだろう。
こうして、食べ物は腹八分にして、よく噛んで一つひとつの味がわかるようになれば、「おいしいな」、「楽しいな」と、この積極的な幸福を食べ物からも得てゆくことができる。食べ物ゆえに程合いを知り、節度、調和が保たれる結果、楽しく幸福だということがわかるようになってくる。
システムとしての咀嚼
さて、私が述べてきたよく噛むという行為に関して、最近では、歯は感覚情報器官であり、物を噛んで食べるという咀嚼は口だけの運動ではなく、システムとして捕らえるべきだという研究が発表されている。
これは、歯の根からの神経が、頭を支える首の筋肉群につながっていることを突き止め、脳全体への情報伝達という意味から、幼児期からよく噛むことがボケの予防にも役立つし、唇や舌などの情報は各神経系を通じて脳幹に伝えられ、適切なリズムで噛み続けられるように、咬(こう)筋などの咀嚼筋を調節するというものである。
生理的にいえば、何気なく毎日やっている噛んで食べるという行為も、実は複雑な神経系のお陰ということである。
よく噛むことは、体の生理や神経にとって最も大切なことだし、歯槽膿漏(しそうのうろう)の予防、健全な歯並びによいだけではなく、あごの筋肉の伸縮で大脳を刺激する信号が送られ、情緒的にも安定して、無意識のうちにストレスを解消、中和させるという、人間形成上に大きな役割を果たすこともわかっている。
リズミカルなあごの運動によって、パッピネス・ホルモン(ベータ・エンドルフィン)という物質も分泌される。このホルモンが多量に分泌される状態の時、ストレス解消はもちろん、ウイルスやガン細胞の増殖を抑える力まで発揮するのである。
もちろん、食物の味がわかるためにも、咬筋という一群の筋肉を十分に動かして、十二分に咀嚼しなければならない。
現代人は高級な食生活をしながら、食べ方が早すぎる。すでに述べたように、食物の味を知る人間は、人間としての味が出る、知恵も出る。腹いっぱい食べる人間には、物事の真髄がわからない。
そういう意味で、むやみと軟らかい食べ物を選ぶのもよくない。現代の食べ物やその傾向を見ていると、ハンバーグなどに代表される練り物と、めん類が全盛で、人類の歯という歯は、ほどなく、ちょっと硬めの食べ物にも「歯が立たない」ものになってしまうに違いない。ある実験によると、現代食の咀嚼回数は、戦前の約半分だともいう。
現に、よく噛まないせいで、あごの発達が悪くなっている子供が増えている。
また、現代の食生活は、あごや歯だけではなく、胃腸などの消化器官にも影響をおよぼしている。半加工された食物は、消化器官をも退化させているのである。現代人に便秘持ちが多いのは、肉食中心で繊維質不足の食生活が原因である。少々消化の悪い食べ物を取っても、すぐに胃腸障害を起こさない丈夫な胃腸を作る必要がある。
唾液は万能ホルモンである
私が説く食養生法の中では、よく噛むことと、唾液の神秘的な効用を特に強調している。わけても唾液の効用を改めて挙げれば、その多彩さ、万能さに驚く人も多いだろう。
唾液について本当に知る人は少ないが、これが実は生命の源泉である。肉体の第一関門に存在して、万能力を発揮している。その働きによって、健康が保障され、老化も防げる。唾液こそは、すべてに作用する万能ホルモンなのである。
気化も、消化も、殺菌もすべて行う。味も、においも何もかも取捨選択する。犬の嗅覚の鋭さも、牛が粗食しながら、あれほど大量の乳を出すのも、みな唾液の効である。
消化作用というものも、胃や腸だけで行われるものではないわけである。口の中でよく噛んで食べ、固形物を液化すれば、その大半は霊妙な唾液の働きで気化され、気化熱というエネルギーになり、体の細胞が直接に栄養を吸収してしまうものである。
胃腸で消化された後のカスは宿便となって体内に残るが、気化されてしまうとわずかなガスが残るだけだし、そのガスも朝の目覚めの放屁一発で消え去り、肉体はいつでもすがすがしく新陳代謝されている。
だから、よく噛むということは、それだけ唾液が豊富に分泌され、神秘的な効用を引き出すということで、それは消化を助けるばかりでなく、唾液中に含まれるさまざまなホルモンが全身の健康維持に大いに役立つ。
そして、よく噛んで食べれば、唾液の作用で物の本当の味わいがわかるものである。
俗に「空腹という名のソースをかけて食べれば、世の中にまずい物はない」といわれるが、唾液という名の天然のソースは、もっと合理的で経済的で、健康的なものである。
その食べ物の味というものは、うまい、まずいという二つの面だけははっきりしている。そのうまさ、まずさというもの、何がよくて、何が欠けているかということは、唾液の働きによって教えられるものである。
うまいということは、どういうところがどううまいか、何がうまいか、永遠に残るうまさか、ほかの物に応用されるほどになるうまさか、これは唾液に残さなければならないものである。まずさというものも、同じように唾液に残らなければならない。
唾液は分泌してしまえば終わりのように、思うものである。今、物を食べて、唾液によってまぶすということになると、その唾液は死んで、もう分泌したから終わりであるかというと、実は残っているわけである。
料理で同じ物を作るということになると、味がさらに変わってくる場合と、同じ味をいつも変わらずに保つことができるということは、唾液の分泌から計算することができる。
そもそも唾液なるものは、もともとは肉体の発生する一つのホルモンであり、液体である。ない世界から働きを持って出てきて、ある世界の物とぶつかると、そこにある世界の物の中にあった味というような物を抜いて感じ取っていく。
■よく噛む効用2 [食べ方を工夫する]
知られていない唾液の働き
詳細に説明すれば、唾液というものには、食物を消化、気化するための酵素のほかに、パロチンというホルモンが含まれている。唾液腺ホルモンが耳下腺から唾液とともに導管内に分泌され、再び導管中から吸収されて自由に移行することが発見され、後にその有効成分がパロチンと命名されたのである。
このパロチンは、骨や歯の石灰化を促進させ、血中カルシウム量を低下させるなどの作用で知られている。これが欠乏すると、変形性関節症などを促すことにもなるのである。また、パロチンには老化を防ぐだけでなく、若返りにも大きな効果があることが、カルシウム代謝による実験データからも証明されている。
次に、おなじみのウナギをはじめ、強精食品には特有のネバネバがあるが、そのムチンという蛋白質は、唾液にも含まれている。
驚くのは、口の中に入ってくる物の種類に応じて、唾液はたちどころに、その有機成分の組成が変わってしまうということ。例えば、酸性食品の場合、唾液の分泌量は四倍になり、アルカリ性の有機成分がうんと増えて、うまく中和作用が働くといった具合である。
私の知り合いで化学が専門の教授によると、唾液のぺーハーという酸性度を計ると、日本人は六・四と六・九に二つのピークを持っているという話であるが、唾液は人の心のように、絶えず変化しているものである。
腹を立てると胃に悪いといわれるのも、唾液の有機成分がアチドージスに傾き、食べ物の消化が悪くなるからである。自己意識や心の状態によって唾液を変化させることは、好ましくない。五官の自然作用によって、自然のうちに変化に対応させれば、その機能を十分に生かすことができる。
そして、日本人の成人は牛乳不耐症、乳糖不耐症といって、ヨーロッパ人などに比べると、腸内の乳糖を分解するラクターゼという酵素が非常に少ないといわれるが、牛乳を飲む時には、あわてて飲み込んだりせず、じっくり噛むようなつもりで唾液の分泌を促せば、下痢をしないですむものである。でんぷん質を消化するのも、唾液の働きなのだ。
夜の眠りの中では、口の中の唾液も乾きがちのものだが、それは分泌作用を止めているからではなく、内分泌腺ホルモンとして肉体組織に働きかけているからである。
生命保存の巧妙な摂理
ここで忘れてならぬのは、虫歯を防ぐ唾液の効果である。砂糖の取りすぎなどから、小学校の低学年で虫歯罹患(りかん)率が九十とも九十五パーセントともいわれる通りで、現代人は不幸なことに、肉体の門戸で行われる歯と唾液との絶妙な交響楽が耳に入らない。それをすっかり忘れてしまっている。
虫歯の原因となる砂糖は甘くても酸性食品であるから、体液を酸性にするといわれているが、もう一つ、大切な唾液の根を枯らしてしまうことに、気づいている人は少ない。
砂糖を取りすぎると、早く老化してしまうのも、そのためである。扁桃腺(へんとうせん)が乾くと唾液の分泌が鈍るし、砂糖の摂取量に比例して、唾液の量は低下するのだ。 食べ物をよく噛むということは、唾液の効果で虫歯を防ぐばかりか、肉体の五官作用を旺盛にし、生理のみならず、精神衛生に資するところきわめて大である。
ところで、食物を味わうために、唾液が重要であることは誰もが知っているだろうが、この唾液は食べ物を味わう時ばかりに出るものではない。
においを嗅ぐ時も、唾液の作用によって、においの味を味わうことができる。犬や牛を見ても、唾液は消化作用として機能しているばかりでなく、においを嗅ぐ、何かを探す、ということにも役立っていることがわかる。
つまり、唾液は生命をよりよく維持していくためにも、重大な役割を果たしているわけだ。人間も唾液が出なくなったり、少なくなったりした場合は、「生命力が乏しくなった、注意せよ」、と危険信号が出されている時なのだ。口中に随時分泌されている適量の唾液に負うところは、実に大きいのである。
こうした何人も知らなかった摂理、私の説に、ようやく最近になって科学の裏づけが得られつつある。
平成二年、農水省の食品総合研究所が、人間の唾液に、動脈硬化や老人性痴ほう症の原因物質として注目されている過酸化脂質や、細胞や遺伝子を傷つける活性酸素の発生を防ぐ効果があることを突き止めたのである。
唾液は、消化や殺菌の働きのほかに、生命保存の著しい効果を持っていることが、生理学的にも証明されたわけだ。
ネズミの唾液には、酸化を防ぐ主役の尿酸がない。ネズミが二~三年、人間が八十年という寿命の差には、唾液の成分が関係しているかもしれないという。
人間の場合も、唾液の分泌量は老人になると低下する。だから、老化防止には過食を避け、よく噛んで唾液を多く出し、唾液ホルモンという若返りの妙薬を活用すべきなのである。唾液の中にも、長命の秘密が潜んでいるからこそ、よく噛むことを勧めるのである。
その他、唾液の成分として、各種のビタミンや制ガン作用のあるペルオキシダーゼもかなり含まれているから、よく噛むことにより、ガンの予防にもなる。
加えて、年を取るに従い血圧が高くなりがちなものだが、唾液の中には血圧を下げる物質が、自然に増えてくるようになる。無論、低血圧の場合には、その逆の作用が働く。
このように、よく噛むことは、一般に考えられている以外に、多くの効用が明らかになっている。これも自然の巧妙な摂理といえよう。
口を通して宇宙の「気」を受ける
肉体のホルモンの中で、唾液ほど重要なものはない。実際に、唾液は万病薬、老衰の予防薬なのである。
食事の時に百回ずつ噛んで食べたら、神経痛やリウマチまで治ってしまったという、アメリカの臨床例もある。これなども、唾液の働きが単なる消化作用だけにとどまらぬことを、生化学的に証明している話であるといえよう。
次に、「寝る子は育つ」といわれるように、眠っている間は唾液が成長ホルモンとして働くことも、生化学的に証明されている。
新生児というものは、唾液がありあまっているから、ヨダレを流している。生命力にあふれる幼児の時代も、唾液の分泌は盛んである。生命の核ともいうべき細胞を、日々新たに製造しなければならない時期には、唾液はおのずから濃厚に、豊富になってくるのである。これも、肉体自然の摂理なのである。
成人するにつれて、次第に唾液の出方が少なくなるのは、肉体的な成長が止まったためというよりも、むしろ、自然作用の発生を自己意識が邪魔をして、唾液腺を枯らすなどしている場合が多いものである。
もう一つ、唾液には重要な働きがある。それは空の世界からくる「気」の働きを助けるものだが、そのことを知る人は少ない。
口を働かせること。五官の一つである口を十分に働かせて、口を通して宇宙の「気」を受けることである。「気」の中から作られるエネルギーによって、唾液から唾液ホルモンが作られる。それが肉体細胞の収縮運動を助けるのである。
肉体というものは、自覚のいかんを問わず、無限宇宙とつながることのできる唯一無上の存在なのであるから、口の働かせ方をおろそかにしてはならない。
人生は、エネルギーの消耗と補給の連係プレーである。補給のために、すぐ食べ物を問題にするが、食べ物からエネルギーを取るだけでは、それほど効率はよくない。夜の眠りの中で、口など五官を通して宇宙エネルギーを吸収し、大呼吸、自然運動で宇宙の「気」を吸収する。これが最も効果的な補給法である。食べ物を味わい、消化、吸収するためにも、肉体が健全、賢明な宇宙性を備えていなければならない。
唾液と胃液の相関関係
今まで述べてきた唾液と胃液との関係に話を転ずると、唾液と胃液は相関関係にあって、同時に連動している。唾液が十分に出ていれば、胃液も適当に分泌され、食物は無駄なく、消化、吸収されている。唾液、胃液が十分に出ていれば、肉体エネルギーは無尽蔵に豊富に湧き出るものだ。
胃というのは消化器官であるばかりではなく、感覚を持っており、よい意識を作り出す機能もある。胃と意との語呂(ごろ)合わせではなく、古人の説にも「胃の気は元気の別名なり」とある。
胃の働きには、中枢神経とか感覚神経、脳神経というような、脳細胞で行われるということが存在している。
しかし、人間は意識が強すぎるために、胃というものは、ただ、物を消化するだけの器官だというくらいにしか考えていないものである。これ以外には何もしていないと思っているが、実は、そうではない。
肩が凝るというが、その肩の凝りというものは、胃の動き、働きに通じているものだ。肩が凝っている時は、胃の働きも衰えているもの。だから、胃を押すことによって、肩が楽になってくるということもある。胃の機能が回復すると、肩の凝りはなくなってくる。
そして、唾液、胃液が十分であれば、腰がしっかりする。腰がしっかりしていれば、自然に足もシャンとする。老化現象は足、腰から始まるものだから、常日頃から、唾液の出方には注意を払っておくべきである。
この点で、今の人間は、唾液の分泌も、胃液の分泌も少ない。そのためガスの排出ができず、また、体内に多くのガスを作ってしまうことになる。
もしも、胃が完全に働き始めると、煩わしいことは、気にならなくなってくるものである。胃は精神面の煩わしさとか、自分に関係ないものは感覚して受け入れないというような、機能的な面の働きもするからである。それが、人間の味、能力ともなる。
人間は食べ物を口で味わうから、胃に入れば味はないかといえば、胃の中でも味わうことができる。
胃というものは、食べ物を食べない時でも適当に胃液を出して、生きる上の上半身の細胞に力を与えている。消化ばかりが胃の働きではない。唾液でも胃液でも同じことがいえる。消化や吸収といった作用ばかりでなく、生きるための適当な分泌が続けられているわけである。
こういう胃の中に固形物がたくさん入ると、唾液の分泌は逆に少なくなる。唾液が働かないから、ますます消化が悪くなって胃腸を壊したり、体全体の機能をダウンさせてしまったりするものだ。
食べすぎ、あるいは寝冷えといった自然的な面に対する胃の感覚は、非常に鋭いのである。
このことから考えても、育ち盛りなのだからといって、子供たちにやたらと腹いっぱい食べさせる習慣は、意識や知識が作り出した先入観念的行為にすぎないことがよくわかるにちがいない。
大人でも、胃に食べ物のある時は、自由な発声も、表現も、できるものではない。これは一般芸術家にもいえること。日常の仕事をする時にも、胃がもたれていては、体いっぱいの働きはできない。
もう一つの胃の働き
さて、人間の自我性という自己意識は五官から入ってくるが、これは胸や胃のあたりで止まって感情になったり、自己意識すなわち心になったりする。自己性の強くたくましい人は、逆上したり食べた物を吐き出したり、まことに頼りないものである。
自己意識から妄想が生じると、それは胃に作用して胃病の原因になる。胃病の七十パーセントはストレスからといわれるのは、そのためである。
胃がやられると、感情が胸いっぱいにたまるようになる。圧力が胸を圧迫し、心臓を苦しめるから、不安が絶えずに小心翼々と生きねばならない。
すでに説明した通り、胃というものも食べ物を消化するだけではなくて、生きていく上の意識、生きるという問題に非常に大きな働きを持たされているから、胃がもたれ、気分がすぐれないなどということは、みな心の受ける悪影響、自己意識となるのである。
一方、腹の中心、中核は胃と腸であるから、胃と腸がよく働く時には、他の内臓器官がことごとくそれに調和し、呼応して働く。病気になるなどということはない。
内臓器官のそれぞれの分業的役割が統一されて、健全に働くようになれば、何を食べても完全に消化、吸収される。あえて栄養を考える必要もなく、ぜいたくな食事を選ぶ必要もないということになる。
高い物など食べなくてもよい。豪華な物にとらわれる必要がない。キャベツが安ければキャベツを食べる。肉が高くて食べられなければ、安い魚を買ってきて、よく噛んで食べさえすれば、すべて、胃がうまく働いてくれる。
素晴らしい機能を持っているものである。もし胃が働かなければ、その後、腸にいっても腸の働きがうまくできない。胃で消化し切れない物は、腸にいっても吸収できないわけだ。
そういう人間の生理的現象は、人間の意識で働かせてやろうと思って動かしているのではない。
例えば、胃の消化作用にしてそうである。空腹になるという現象にしても、人間の意識が空腹になろうと考えて空腹になるのではなく、肉体がそう命ずるから、そうだと気がつくのである。
これは満腹になる場合でも同じで、満腹になるのは肉体のほうで、もうこれ以上は入らないという信号を出すので、腹いっぱいになった感じがわかるのである。
また、仮に、よくない食事を意識は知らないで食べた場合などでも、肉体はちゃんとそれを知っていて受けつけない。下痢になって出すか、上に吐くかして悪い物を体外に出してしまうのだが、これは意識でやっているのではなくて、肉体がそれを知って活動しているのである。
人間の肉体は、食べ物を口に含めば、ただちに唾液が流れ出し、それが胃袋に入ると、胃は間髪を入れず収縮作用を起こし、胃液を分泌して食物を消化してゆくという、消化器系統一つを取り出してみても、そこには、神秘としかいいようのない微妙な生理作用が働いているのだ。
腸の選択力の妙について
肉体の生理作用について話を続ければ、呼吸ははからわずして血液に酸素を補給し、腸の蠕動(ぜんどう)は食物を栄養たらしめているのである。
最近の生理学の教えるところによると、消化された食物から栄養を摂取する長さ三メートルの小腸の内側は、無数の絨毛(じゅうもう)で埋め尽くされており、その表面積はテニスコート二面分に相当するという。さらに、一本の絨毛は約五千個の栄養吸収細胞からできており、小腸全体で千五百億個と推定される。
目や耳など五官だけが感覚器官ではなくて、腸の感覚の強さ、選択力の妙は驚くべきものがある。こういう微妙な、不思議な働きは、胃にはできない。驚くべきは、人間の機能、働きの素晴らしさである。
腸は生理的な器官であるが、感覚意識、精神的能力もあるから、その本来の働きは二つの使命、機能を持っているといえるのである。
この腸は非常に吸収力の強いところであって、本来は食べ物を吸収することが専門であるが、空意識から入ってくる「気」を蓄えて肉体の力とする中心であり、その場合には、非常に大きな働きをするものである。
そういう人間の腸の働きは、驚くべき力を持っている。機能をなしている。内臓器官の胃や腸は本来有能、有効のものである上、胃を取ってしまっても腸を食道につないでおけば、やがて腸は胃の働きをするほど大変な力を持っている。
胃は胃液を分泌して消化を果たし、腸は消化と吸収を同時にするといってよいほど、最終的である。胃は食べ物を消化してもまだ形を残しているが、腸はその形の中から吸収する。後は残滓(ざんし)ばかりだが、吸収という力において、腸は素晴らしい働きを持っている。便に元の姿で出てきても、内容物は腸で吸収されているから、その力は強いものである。
まずい物を食べて吐くというのは、腸の力によって、胃が吐き出すのである。こうした微妙な、不思議な感覚と働きは、空意識から入ってくる「気」の働きである。
そして、腸の感覚の強さ、選択力の強さにも驚くべきものがある。五官だけが感覚器官ではない。この腸の微妙な、不思議な働きは、胃にはできない。
私が以前に見たテレビの画像の中に、腸の感覚の強さ、選択力の強さを示すものがあった。金魚を飲んでそのまま吐き出したり、ガソリンを飲んでそのまま吐き出したりした男がいたが、それがそうである。
飲み込まれた金魚やガソリンは、胃の中だけにとどめておくわけではなく、腸まで下げたのである。すると、腸は蓄えられてあった「気」でその内容がわかり、これは吐き出さなくてはならないものだと察知する。この吐き出すという腹全体の仕組み、仕掛けが、素晴らしい腸の感覚力、対応力なのである。
腸の感覚というものは、非常に微妙なものであり、機能もまた優れた力を持っている。それが魂の場であるに至っては、人間の魂はどれほどの働きをするか想像にあまりある。 また、生理作用、精神作用、意識作用といったものの選択力、識別力などに至る場合は、驚くべきほどの素晴らしい人間の機能、働きとなるのである。
例えば、気力はいったいどこから出るものかといえば、胃に食べ物のあるうちは、気力は出ない。胃が空になって腸に力が蓄えられる時に、腸から気力が出るのである。
この肉体の下半身から、自然にエネルギーが湧き上がってくるような気合の人は、疲れるなどということはない。倦怠を覚えるとか、飽きるとかいうようなこともない。何らの障害を外部から受けることもなく、スムーズに人生を送ることができる。
こういう人間になれば、腸が活発に働くだけでなく胃も丈夫だから、頭脳も明晰になり、体全体がバランスよく、すべてが当たり前に働くような人になる。
詳細に説明すれば、唾液というものには、食物を消化、気化するための酵素のほかに、パロチンというホルモンが含まれている。唾液腺ホルモンが耳下腺から唾液とともに導管内に分泌され、再び導管中から吸収されて自由に移行することが発見され、後にその有効成分がパロチンと命名されたのである。
このパロチンは、骨や歯の石灰化を促進させ、血中カルシウム量を低下させるなどの作用で知られている。これが欠乏すると、変形性関節症などを促すことにもなるのである。また、パロチンには老化を防ぐだけでなく、若返りにも大きな効果があることが、カルシウム代謝による実験データからも証明されている。
次に、おなじみのウナギをはじめ、強精食品には特有のネバネバがあるが、そのムチンという蛋白質は、唾液にも含まれている。
驚くのは、口の中に入ってくる物の種類に応じて、唾液はたちどころに、その有機成分の組成が変わってしまうということ。例えば、酸性食品の場合、唾液の分泌量は四倍になり、アルカリ性の有機成分がうんと増えて、うまく中和作用が働くといった具合である。
私の知り合いで化学が専門の教授によると、唾液のぺーハーという酸性度を計ると、日本人は六・四と六・九に二つのピークを持っているという話であるが、唾液は人の心のように、絶えず変化しているものである。
腹を立てると胃に悪いといわれるのも、唾液の有機成分がアチドージスに傾き、食べ物の消化が悪くなるからである。自己意識や心の状態によって唾液を変化させることは、好ましくない。五官の自然作用によって、自然のうちに変化に対応させれば、その機能を十分に生かすことができる。
そして、日本人の成人は牛乳不耐症、乳糖不耐症といって、ヨーロッパ人などに比べると、腸内の乳糖を分解するラクターゼという酵素が非常に少ないといわれるが、牛乳を飲む時には、あわてて飲み込んだりせず、じっくり噛むようなつもりで唾液の分泌を促せば、下痢をしないですむものである。でんぷん質を消化するのも、唾液の働きなのだ。
夜の眠りの中では、口の中の唾液も乾きがちのものだが、それは分泌作用を止めているからではなく、内分泌腺ホルモンとして肉体組織に働きかけているからである。
生命保存の巧妙な摂理
ここで忘れてならぬのは、虫歯を防ぐ唾液の効果である。砂糖の取りすぎなどから、小学校の低学年で虫歯罹患(りかん)率が九十とも九十五パーセントともいわれる通りで、現代人は不幸なことに、肉体の門戸で行われる歯と唾液との絶妙な交響楽が耳に入らない。それをすっかり忘れてしまっている。
虫歯の原因となる砂糖は甘くても酸性食品であるから、体液を酸性にするといわれているが、もう一つ、大切な唾液の根を枯らしてしまうことに、気づいている人は少ない。
砂糖を取りすぎると、早く老化してしまうのも、そのためである。扁桃腺(へんとうせん)が乾くと唾液の分泌が鈍るし、砂糖の摂取量に比例して、唾液の量は低下するのだ。 食べ物をよく噛むということは、唾液の効果で虫歯を防ぐばかりか、肉体の五官作用を旺盛にし、生理のみならず、精神衛生に資するところきわめて大である。
ところで、食物を味わうために、唾液が重要であることは誰もが知っているだろうが、この唾液は食べ物を味わう時ばかりに出るものではない。
においを嗅ぐ時も、唾液の作用によって、においの味を味わうことができる。犬や牛を見ても、唾液は消化作用として機能しているばかりでなく、においを嗅ぐ、何かを探す、ということにも役立っていることがわかる。
つまり、唾液は生命をよりよく維持していくためにも、重大な役割を果たしているわけだ。人間も唾液が出なくなったり、少なくなったりした場合は、「生命力が乏しくなった、注意せよ」、と危険信号が出されている時なのだ。口中に随時分泌されている適量の唾液に負うところは、実に大きいのである。
こうした何人も知らなかった摂理、私の説に、ようやく最近になって科学の裏づけが得られつつある。
平成二年、農水省の食品総合研究所が、人間の唾液に、動脈硬化や老人性痴ほう症の原因物質として注目されている過酸化脂質や、細胞や遺伝子を傷つける活性酸素の発生を防ぐ効果があることを突き止めたのである。
唾液は、消化や殺菌の働きのほかに、生命保存の著しい効果を持っていることが、生理学的にも証明されたわけだ。
ネズミの唾液には、酸化を防ぐ主役の尿酸がない。ネズミが二~三年、人間が八十年という寿命の差には、唾液の成分が関係しているかもしれないという。
人間の場合も、唾液の分泌量は老人になると低下する。だから、老化防止には過食を避け、よく噛んで唾液を多く出し、唾液ホルモンという若返りの妙薬を活用すべきなのである。唾液の中にも、長命の秘密が潜んでいるからこそ、よく噛むことを勧めるのである。
その他、唾液の成分として、各種のビタミンや制ガン作用のあるペルオキシダーゼもかなり含まれているから、よく噛むことにより、ガンの予防にもなる。
加えて、年を取るに従い血圧が高くなりがちなものだが、唾液の中には血圧を下げる物質が、自然に増えてくるようになる。無論、低血圧の場合には、その逆の作用が働く。
このように、よく噛むことは、一般に考えられている以外に、多くの効用が明らかになっている。これも自然の巧妙な摂理といえよう。
口を通して宇宙の「気」を受ける
肉体のホルモンの中で、唾液ほど重要なものはない。実際に、唾液は万病薬、老衰の予防薬なのである。
食事の時に百回ずつ噛んで食べたら、神経痛やリウマチまで治ってしまったという、アメリカの臨床例もある。これなども、唾液の働きが単なる消化作用だけにとどまらぬことを、生化学的に証明している話であるといえよう。
次に、「寝る子は育つ」といわれるように、眠っている間は唾液が成長ホルモンとして働くことも、生化学的に証明されている。
新生児というものは、唾液がありあまっているから、ヨダレを流している。生命力にあふれる幼児の時代も、唾液の分泌は盛んである。生命の核ともいうべき細胞を、日々新たに製造しなければならない時期には、唾液はおのずから濃厚に、豊富になってくるのである。これも、肉体自然の摂理なのである。
成人するにつれて、次第に唾液の出方が少なくなるのは、肉体的な成長が止まったためというよりも、むしろ、自然作用の発生を自己意識が邪魔をして、唾液腺を枯らすなどしている場合が多いものである。
もう一つ、唾液には重要な働きがある。それは空の世界からくる「気」の働きを助けるものだが、そのことを知る人は少ない。
口を働かせること。五官の一つである口を十分に働かせて、口を通して宇宙の「気」を受けることである。「気」の中から作られるエネルギーによって、唾液から唾液ホルモンが作られる。それが肉体細胞の収縮運動を助けるのである。
肉体というものは、自覚のいかんを問わず、無限宇宙とつながることのできる唯一無上の存在なのであるから、口の働かせ方をおろそかにしてはならない。
人生は、エネルギーの消耗と補給の連係プレーである。補給のために、すぐ食べ物を問題にするが、食べ物からエネルギーを取るだけでは、それほど効率はよくない。夜の眠りの中で、口など五官を通して宇宙エネルギーを吸収し、大呼吸、自然運動で宇宙の「気」を吸収する。これが最も効果的な補給法である。食べ物を味わい、消化、吸収するためにも、肉体が健全、賢明な宇宙性を備えていなければならない。
唾液と胃液の相関関係
今まで述べてきた唾液と胃液との関係に話を転ずると、唾液と胃液は相関関係にあって、同時に連動している。唾液が十分に出ていれば、胃液も適当に分泌され、食物は無駄なく、消化、吸収されている。唾液、胃液が十分に出ていれば、肉体エネルギーは無尽蔵に豊富に湧き出るものだ。
胃というのは消化器官であるばかりではなく、感覚を持っており、よい意識を作り出す機能もある。胃と意との語呂(ごろ)合わせではなく、古人の説にも「胃の気は元気の別名なり」とある。
胃の働きには、中枢神経とか感覚神経、脳神経というような、脳細胞で行われるということが存在している。
しかし、人間は意識が強すぎるために、胃というものは、ただ、物を消化するだけの器官だというくらいにしか考えていないものである。これ以外には何もしていないと思っているが、実は、そうではない。
肩が凝るというが、その肩の凝りというものは、胃の動き、働きに通じているものだ。肩が凝っている時は、胃の働きも衰えているもの。だから、胃を押すことによって、肩が楽になってくるということもある。胃の機能が回復すると、肩の凝りはなくなってくる。
そして、唾液、胃液が十分であれば、腰がしっかりする。腰がしっかりしていれば、自然に足もシャンとする。老化現象は足、腰から始まるものだから、常日頃から、唾液の出方には注意を払っておくべきである。
この点で、今の人間は、唾液の分泌も、胃液の分泌も少ない。そのためガスの排出ができず、また、体内に多くのガスを作ってしまうことになる。
もしも、胃が完全に働き始めると、煩わしいことは、気にならなくなってくるものである。胃は精神面の煩わしさとか、自分に関係ないものは感覚して受け入れないというような、機能的な面の働きもするからである。それが、人間の味、能力ともなる。
人間は食べ物を口で味わうから、胃に入れば味はないかといえば、胃の中でも味わうことができる。
胃というものは、食べ物を食べない時でも適当に胃液を出して、生きる上の上半身の細胞に力を与えている。消化ばかりが胃の働きではない。唾液でも胃液でも同じことがいえる。消化や吸収といった作用ばかりでなく、生きるための適当な分泌が続けられているわけである。
こういう胃の中に固形物がたくさん入ると、唾液の分泌は逆に少なくなる。唾液が働かないから、ますます消化が悪くなって胃腸を壊したり、体全体の機能をダウンさせてしまったりするものだ。
食べすぎ、あるいは寝冷えといった自然的な面に対する胃の感覚は、非常に鋭いのである。
このことから考えても、育ち盛りなのだからといって、子供たちにやたらと腹いっぱい食べさせる習慣は、意識や知識が作り出した先入観念的行為にすぎないことがよくわかるにちがいない。
大人でも、胃に食べ物のある時は、自由な発声も、表現も、できるものではない。これは一般芸術家にもいえること。日常の仕事をする時にも、胃がもたれていては、体いっぱいの働きはできない。
もう一つの胃の働き
さて、人間の自我性という自己意識は五官から入ってくるが、これは胸や胃のあたりで止まって感情になったり、自己意識すなわち心になったりする。自己性の強くたくましい人は、逆上したり食べた物を吐き出したり、まことに頼りないものである。
自己意識から妄想が生じると、それは胃に作用して胃病の原因になる。胃病の七十パーセントはストレスからといわれるのは、そのためである。
胃がやられると、感情が胸いっぱいにたまるようになる。圧力が胸を圧迫し、心臓を苦しめるから、不安が絶えずに小心翼々と生きねばならない。
すでに説明した通り、胃というものも食べ物を消化するだけではなくて、生きていく上の意識、生きるという問題に非常に大きな働きを持たされているから、胃がもたれ、気分がすぐれないなどということは、みな心の受ける悪影響、自己意識となるのである。
一方、腹の中心、中核は胃と腸であるから、胃と腸がよく働く時には、他の内臓器官がことごとくそれに調和し、呼応して働く。病気になるなどということはない。
内臓器官のそれぞれの分業的役割が統一されて、健全に働くようになれば、何を食べても完全に消化、吸収される。あえて栄養を考える必要もなく、ぜいたくな食事を選ぶ必要もないということになる。
高い物など食べなくてもよい。豪華な物にとらわれる必要がない。キャベツが安ければキャベツを食べる。肉が高くて食べられなければ、安い魚を買ってきて、よく噛んで食べさえすれば、すべて、胃がうまく働いてくれる。
素晴らしい機能を持っているものである。もし胃が働かなければ、その後、腸にいっても腸の働きがうまくできない。胃で消化し切れない物は、腸にいっても吸収できないわけだ。
そういう人間の生理的現象は、人間の意識で働かせてやろうと思って動かしているのではない。
例えば、胃の消化作用にしてそうである。空腹になるという現象にしても、人間の意識が空腹になろうと考えて空腹になるのではなく、肉体がそう命ずるから、そうだと気がつくのである。
これは満腹になる場合でも同じで、満腹になるのは肉体のほうで、もうこれ以上は入らないという信号を出すので、腹いっぱいになった感じがわかるのである。
また、仮に、よくない食事を意識は知らないで食べた場合などでも、肉体はちゃんとそれを知っていて受けつけない。下痢になって出すか、上に吐くかして悪い物を体外に出してしまうのだが、これは意識でやっているのではなくて、肉体がそれを知って活動しているのである。
人間の肉体は、食べ物を口に含めば、ただちに唾液が流れ出し、それが胃袋に入ると、胃は間髪を入れず収縮作用を起こし、胃液を分泌して食物を消化してゆくという、消化器系統一つを取り出してみても、そこには、神秘としかいいようのない微妙な生理作用が働いているのだ。
腸の選択力の妙について
肉体の生理作用について話を続ければ、呼吸ははからわずして血液に酸素を補給し、腸の蠕動(ぜんどう)は食物を栄養たらしめているのである。
最近の生理学の教えるところによると、消化された食物から栄養を摂取する長さ三メートルの小腸の内側は、無数の絨毛(じゅうもう)で埋め尽くされており、その表面積はテニスコート二面分に相当するという。さらに、一本の絨毛は約五千個の栄養吸収細胞からできており、小腸全体で千五百億個と推定される。
目や耳など五官だけが感覚器官ではなくて、腸の感覚の強さ、選択力の妙は驚くべきものがある。こういう微妙な、不思議な働きは、胃にはできない。驚くべきは、人間の機能、働きの素晴らしさである。
腸は生理的な器官であるが、感覚意識、精神的能力もあるから、その本来の働きは二つの使命、機能を持っているといえるのである。
この腸は非常に吸収力の強いところであって、本来は食べ物を吸収することが専門であるが、空意識から入ってくる「気」を蓄えて肉体の力とする中心であり、その場合には、非常に大きな働きをするものである。
そういう人間の腸の働きは、驚くべき力を持っている。機能をなしている。内臓器官の胃や腸は本来有能、有効のものである上、胃を取ってしまっても腸を食道につないでおけば、やがて腸は胃の働きをするほど大変な力を持っている。
胃は胃液を分泌して消化を果たし、腸は消化と吸収を同時にするといってよいほど、最終的である。胃は食べ物を消化してもまだ形を残しているが、腸はその形の中から吸収する。後は残滓(ざんし)ばかりだが、吸収という力において、腸は素晴らしい働きを持っている。便に元の姿で出てきても、内容物は腸で吸収されているから、その力は強いものである。
まずい物を食べて吐くというのは、腸の力によって、胃が吐き出すのである。こうした微妙な、不思議な感覚と働きは、空意識から入ってくる「気」の働きである。
そして、腸の感覚の強さ、選択力の強さにも驚くべきものがある。五官だけが感覚器官ではない。この腸の微妙な、不思議な働きは、胃にはできない。
私が以前に見たテレビの画像の中に、腸の感覚の強さ、選択力の強さを示すものがあった。金魚を飲んでそのまま吐き出したり、ガソリンを飲んでそのまま吐き出したりした男がいたが、それがそうである。
飲み込まれた金魚やガソリンは、胃の中だけにとどめておくわけではなく、腸まで下げたのである。すると、腸は蓄えられてあった「気」でその内容がわかり、これは吐き出さなくてはならないものだと察知する。この吐き出すという腹全体の仕組み、仕掛けが、素晴らしい腸の感覚力、対応力なのである。
腸の感覚というものは、非常に微妙なものであり、機能もまた優れた力を持っている。それが魂の場であるに至っては、人間の魂はどれほどの働きをするか想像にあまりある。 また、生理作用、精神作用、意識作用といったものの選択力、識別力などに至る場合は、驚くべきほどの素晴らしい人間の機能、働きとなるのである。
例えば、気力はいったいどこから出るものかといえば、胃に食べ物のあるうちは、気力は出ない。胃が空になって腸に力が蓄えられる時に、腸から気力が出るのである。
この肉体の下半身から、自然にエネルギーが湧き上がってくるような気合の人は、疲れるなどということはない。倦怠を覚えるとか、飽きるとかいうようなこともない。何らの障害を外部から受けることもなく、スムーズに人生を送ることができる。
こういう人間になれば、腸が活発に働くだけでなく胃も丈夫だから、頭脳も明晰になり、体全体がバランスよく、すべてが当たり前に働くような人になる。