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■宇宙天地大自然と「気」1 [「気」学]

[牡羊座]ブームは去り、完全に根付いた「気」
 現在の日本においては、「気」のブームは去り、完全に根付いた感がある。書店に出向けば、「気」をタイトルに冠した書物がずらりと棚に並び、自宅でテレビを眺めれば、気功師や武術家の諸兄が登場して妙技を披露している。
 目を海外に向けると、「チー(気)」、「チーコン(気功)」という中国語は、そのまま英語として定着している。
 「気」の本家は、中国なのである。本家から日本へと、道教の「気」の思想が伝わってきたのは、紀元三世紀の末のことと見なされている。
 道教とは、老子を開祖とする中国固有の宗教である。老子とは、紀元前四世紀に生き、無為自然や、「気」を生じる道(タオ)を説いた人物である。
 古代の中国人は紀元前から、目には見えないがパワーを持ち、捕らえどころはないがエネルギーを有して、宇宙天地大自然界に確かに存在する神秘的なものを「氣」ないし「气」と命名して、さまざまな事物や現象に、日本語でいう「気」を看取していったのである。
 「気」の思想は、天文、易学、医学や、健康法、養生法など、多くの範囲にわたって、その基礎的理論に大きな影響を与えている。
 端的に「気」を表現すれば、宇宙天地大自然に存在するすべてのものの根本、始まりであり、原因こそは「気」なのである。だから、「気」がわかるということは、宇宙がわかることであり、自然がわかることであり、人間がわかることに通じる。
 強いて、すべての根源であり、オールマイティーであり、多岐にわたっている「気」の諸相を分類すると、宇宙天地大自然に満ちみちている「気」、陰陽や五行の「気」のような原理・思想としての「気」、小宇宙である人間の「気」の三種になるだろう。
[牡牛座]人間は宇宙の「気」の結晶体である
 宇宙天地大自然に満ちみちている「気」から、説明を始めてみよう。
 そもそも、私たち人間というのは、宇宙天地大自然の「気」が結晶してできた存在なのである。人間の体は、いわば小宇宙であり、小天地であり、宇宙生命の結晶体なのである。私たちは誰もが一人ひとり、宇宙に生かされ、生きている。
 広大無遍の宇宙から見れば、「地球」や「アース」などと呼ばれる小さな惑星上に住む人間は、チリ以下の存在、極微な一点にしかすぎない。けれども、極めて小さい生命は、宇宙大自然によって創られ、生かされ、生きているという、大宇宙との深いかかわり合いの中に存在している。
 その大宇宙とは、一大生命体である。「宇」の字は広い空間、「宙」の字は空間に一貫している時間を表す。大宇宙全体は、我が太陽系が属する星の大集団・銀河系宇宙と同列の規模を有する島宇宙が、銀河群や銀河団をなしつつ、一千億個も集まって形成されている。
 まさに無限に等しい広い空間と、百何十億年に及ぶ時間を有する大宇宙は、空漠たる無の世界ともいえるが、「気」の世界でもある。全くの空、全くの無ではなくして、「気」を始めとして法則、原理の遍満する秩序整然たる真理世界なのである。
 大宇宙の中に存在する、それぞれの「気」というものは、それぞれ異なる理に規定されている。「気」のあるところには、必ず理、法則、原理というものがあり、「気」と理は同時に存在し、理のあるところに「気」は存在するのである。
 要するに、理は宇宙の始源以前から存在している。理とは根源的に空世界に存在して、この大宇宙という現象世界を規定し、創造せしめ、活動せしめている宇宙の真理を意味する。
 すなわち、現象世界は空世界と表裏一体の存在をなし、その万象、万事、万物は結果的に、空世界の真理的内容を表現しているものなのだ。
 かくのごとく、「気」の世界でもある大宇宙には、真理や法則、原理が遍満している。そして、宇宙の「気」の結晶体である人間の体内には、大自然が潜み、宇宙全体が働き掛けている。肉体生命の中に、宇宙のすべてが宿っている。我ら人間の肉体は、真理の象徴である。
 大宇宙こそ、私たち人類が昔から、その神秘、広大さに畏敬(いけい)の念を抱き続けてきた対象である。人間を知ろうとする人は、何よりもまず、人間を創り、人間を生かしている大宇宙を知れ。大自然世界の巧妙至極の構造と機能を知れ。
[双子座]体系の中で調和を保って回転する宇宙
 今世紀は科学万能時代を迎えて、有人火星探査がアメリカの宇宙計画に上っているが、直径六千キロ余りの火星にしろ、直径一万二千キロ余りの地球にしろ、大宇宙の微細な一点にしかすぎない存在である。
 火星も地球も、一つの銀河の中にある一つの星・太陽の周囲を回る、一惑星にすぎない。
 地球は、水・金・火・木・土・天王・海王・冥王の八惑星や、惑星に属する計百三十六個の衛星、約二千五百の小惑星などとともに、毎秒二十九・八キロもの速さで自転しつつ、太陽の周りを回り続けている。
 例えていえば、一つの社会を形成している太陽一家である。一家は、同じ原始太陽系星雲から生まれたものであり、現在は太陽を親として影響、恩恵に大きく浴しながら、親を中心として公転運動をしている。
 この地球にとっては最も身近な家族に例えられる太陽系は、銀河系と呼ばれる宇宙の中のほんの小さな集団であり、銀河系宇宙の中心からかなり離れたところを、一周、二億五千万年もかかって回り続けている。
 地球上から夜空を仰いで、肉眼で見えるほとんどの星は、銀河系宇宙の星々である。望遠鏡が発明されるまでは、宇宙とは銀河系宇宙だけであると思われていた。
 高性能の望遠鏡が開発されるに及んで、二千億個とも四千億個ともいわれる星からなる銀河系の外にも、多くの島宇宙と呼ばれる宇宙が存在することを、人間ははじめて発見したのである。
 アンドロメダ座の中の渦巻き銀河に、銀河系宇宙から最も近い島宇宙がある。肉眼でもぼんやりと、視野に捕らえられる大星雲。その名の通り雲状に見えていたものが、実は一千億個もの星が渦状をなして大きな回転をしながら、一つの宇宙を形成していることがわかったのである。その姿が、我が銀河系宇宙をはるかかなたから見下ろした姿と、そっくりであることも解明された。
 その最も近い隣の島宇宙であるアンドロメダ大星雲との距離が、二百万光年であるといえば、宇宙の広さが想像を絶するものとよく理解できよう。
 一光年というのは、光が一年間に飛ぶ距離のことであり、約十兆キロに相当している。二百万光年の距離は、十兆キロの二百万倍という、真に天文学的な数字で表されるわけである。
 島宇宙が一千億個も集まって形成される大宇宙もまた、ある中心を持って、大きな回転運動をしている。同時に、大宇宙は外に向かって、非常な速さで膨張し続けている。大宇宙の周辺部には、光の九十パーセントの速さで遠ざかっていく星があるのだ。
 では、大宇宙の外には、何があり、どのようになっているのか。膨張する宇宙は、どうなっていくのか。現在の人間の知識をもってしては、知るよしもない。私たちは、無限という言葉でしか表現するすべを知らない。
 ただ、人間の知っている三次元の世界の次に、四次元の空間、世界というものがあろう、と想像している天文学者がいる。宇宙は四次元の超球であり、中心もなく、果てもなく、果ての向こうには何もない、と推し量っている天文学者もいる。
 宇宙の将来について、かのアインシュタインの一般相対性理論は単独では、時空はビッグ・バン特異点で始まり、もし全宇宙が再崩壊するならばビッグ・クランチ特異点で終わる、と見なしている。
 三つの説とも、想像の域を出ていない仮説である。
 かくして、宇宙のさまざまな実相を見てきた時、宇宙が立派な体系と厳粛な秩序を形成していることは、明白になった。一つひとつの星は偶然に、恣意(しい)的に存在して、気まぐれに、自由勝手に動き回っているのではなく、体系の中の存在であり、体系の中で調和を保って運動し、息づいている。
 星の世界も、中小さまざまな社会を構成し、やがては大宇宙という大社会を構成して、その見事な秩序の下に存在しているのだ。
 あたかも、人間や動物、植物が常に集団や社会を構成し、それぞれの規範や秩序の下に生活し、生存しているのに似ている。これが即、宇宙秩序である。
[双子座]無に等しい「気」から誕生した原初宇宙
 百数十億年前に逆上って、広大無遍で、調和や秩序を備えた現在の大宇宙は、どうしてできたのか、どういう経過をへて、今に至っているのか述べてみたい。
 原初宇宙の誕生した時、つまり宇宙のはじめには天体などはなく、何もなかったとされている。手掛かりもない空間、混沌(こんとん)とした「気」だけの世界であったとされている。ただし、そこには感覚というものがあり、エネルギーというものが存在していた。そして、原初宇宙は真空状態であった。
 真空というものもまた、「気」の世界にほかならない。真空の状態がだんだん、時空を超えた空の状態へと変化する。空の状態とは、無ではなく真空妙有・真空妙無という、無であり有である状態であり、全くないと思われるほどの「気」の状態であった。
 その頃の「気」というものは、重さもなければ形もなく、何らの手掛かりとなるような「気」ではなかった。薄い、淡い、軽いなどと物理的な表現もできないほど、混沌とした「気」の世界。
 その「気」は、はるかな太古から現在に至るまで、絶えず生きている。宇宙に「気」が生ずる前も後も、「気」なのである。「気」の中には、ある力を物に変えるエネルギーが含まれている。
 エネルギーというものも「気」である。「気」はエネルギーの本質であり、宇宙始源の空の世界に属するから、無限無上の動力源にもなって働く。
 さて、原初宇宙の「気」は、ゆったりとした回転エネルギーによって、動き動かしながら、だんだんと変化していった。漠然としていた原初宇宙そのものが、そのまま回転していたわけである。やがて、回転エネルギーが超高温、超高圧の光の海となり、次いでビッグ・バンと称する巨大な爆発を生じた。
 天地開闢(かいびゃく)については、古代中国の文献にも記述されている。
 はじめに虚空があり、虚空に宇宙が生まれ、宇宙に陰陽の「気」が生じて天地の万物が生成された、と前漢の学者・劉安(りゅうあん)が著した「淮南子(えなんじ)」の天文訓は、伝えているのである。
 現代の著名な天体物理学者たちも、ごく初期の頃の宇宙は全体でも極めて小さく、一滴の露より小さかったかもしれない、と述べている。そして、露の中の超ミニ宇宙に、現在の宇宙の謎(なぞ)のすべてを解くカギが含まれているはずだ、とも述べている。
 「一滴の露より小さかった」ものとは、「気」にほかならない。「気」こそは現在の宇宙の森羅万象の根源である、という真理は、古今の時空を貫く不変の理(ことわり)なのである。
 まさに、無から有を生じた、「気」という無から宇宙という有を生じた、といった感じではないか。無から有が生じるということは、しかし、論理的にはあり得ないから、この場合の無は文字通りの無ではなく、むしろ空と呼ぶべきものと理解できるであろう。
 空とは、一見した限りでは無に等しいように思えるが、その内実に有を含んだものなのだ。




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■宇宙天地大自然と「気」2 [「気」学]

[蟹座]天体を形成する原子は「気」を根源とする
 大宇宙は、無に等しい空の世界に属する「気」が時間の経過によって変化を重ねた結果、何百億年という長い長い時間をへて、空間世界の変化を遂げてきたのである。
 一説によると、そのスタートから現在までの時間、宇宙の年齢といえるものは百三十億年であるという。百五十億年、あるいは二百億年という説も唱えられている。だが、それも人間の想像の域を超えてはいないのである。
 ビッグ・バンという大爆発後の初期の宇宙については、まだ、天体によって構成されていたとは考えられない。かなりの高温、高密度だったはずで、凝集して天体を形作ることは不可能な状態だった。
 次第に膨張するにつれて、宇宙の温度が徐々に下がって、星や惑星、銀河系の形成が可能になったのは、数千度まで下がった時点であった。
 大爆発によって、「気」を根源とする水素、ヘリウムなど、さまざまな原子が、宇宙空間にまき散らされていた、に違いない。この宇宙空間にうねり、渦巻く水素が、偶然に近付き、凝縮してガスの固まりを形成し、原子の集団と呼ばれる原始星を作る。
 それが自己重力によって収縮し、衝突し、熱を発して明るい星になる。やがて、球の中心で核融合反応が始まり、立派な星へと成長していった。
 こうして、我が恒星である太陽は、およそ四十六億年前に誕生した。
 原始太陽系星雲の中心が太陽となる一方で、残りの星間雲は太陽の周りにガス状の回転する円盤を形成し、その中には水素などのほかに金属質などの微粒子もたくさん存在し、それらがチリとなって互いに衝突し、結合し合って次第に大きくなっていった。
 結合したチリの種類によって、ある惑星は密度、比重が高く、ある惑星はガス状にと、それぞれの惑星に成長していった。星間雲が収縮し、チリが集積して、ついに地球の大きさに成長するのに数百万年の歳月が経過していた。
 太陽と地球との発生順序からいけば、太陽のほうがずっと早かったわけである。太陽系が形成された頃の地球は、まだ微小惑星の衝突によってできた小型の火の塊にすぎなかった。
 平均一億五千万キロ弱と非常に近い距離にあっても、地球は決して、太陽から分かれて飛び出したものではない。従って、地球と太陽は、真に性格が違う。むしろ正反対の性格を備えているために、相互に依存する上に、面白い因縁関係を持つことになったのである。
 地球は太陽系星雲の中で、宇宙間物質によって別に作り出されたもの。その宇宙間物質とは、太陽系が形成されるずっと以前に爆発し、死滅した星の成分が内部から拡散された原子に、由来するものである。
 地球上の水素もヘリウムも、窒素もカルシウムも、鉄も炭素も、金もウランも、超新星爆発によって散布された原子や、その集まりの分子によって作り出されたのである。
 地球の親星は銀河系の向こう側で、ひっそりとした白色矮星(わいせい)となって生きているのではないか、と想像される。
[獅子座]活動し創造する物質や、生命への展開
 我が地球は大宇宙の中の一つの小宇宙であり、大宇宙で生成された物質は、すべて地球に凝集して存在している。
 宇宙間物質を含んだガスとチリが凝集して、原始の地球ができたわけであったが、そこには水素や窒素などのほかに有機物も含まれていた。生物の複雑な分子を作る炭素も、アミノ酸さえも豊富に存在していた。
 こうしてほぼ四十六億年前にできた地球上に、生命の原型が誕生したのは、四十億年前、ぬるま湯のような岩石の泥スープの海洋においてであるといわれる。
 地球の大気の中にある水素原子や、水素の集まりの分子に太陽の紫外線が働き、また稲妻の放電が作用して、分子が分解し、再化合して、次第に複雑な分子ができていった。
 そして、偶然、デオキシリボ核酸(DNA)の原型ができた。核酸はヌクレオチドの巨大重合体であり、ヌクレオチドは遺伝の指令を与えることができる。これによって分子が、自分と同じ分子を作り出すことができるようになる。やがて、細胞という結合体ができた。
 偶然の必然、必然の当然というべき現象である。なぜなら、原子や分子は、宇宙で生成された「気」の変容した姿であるからだ。
 原子や分子の存在する前から、宇宙生命の根源たる「気」は存在し、その「気」が太陽エネルギーや放電現象、さまざまな宇宙線の働き掛けなどによって、活動し創造する新物質、または新生命に展開したのである。
 地球上において、生命誕生の母体となったものはいうまでもなく水であるが、水の中にも宇宙生命の「気」が宿り、生物の細胞のそれぞれにも、絶妙な宇宙感覚が付与されているのである。
 水は宇宙的性質を豊かに保持しており、生物は水の炉(ろ)に誕生し、片時も水なくしては生きておれない。
 水の中にすべての生命の根源が存在していて、それが凝って物質や生命の究極を形成する因子となり、天然自然の万物はもとより、あらゆる生きとし生けるものを作っているのである。
 地球上で生命が発生した頃の海が、どのような性質のものであったかは定かではないが、長い期間、海という生活圏内で繁殖を繰り返し、さまざまに進化、発展を遂げ、ほぼ二十億年以上をへてから、両生類が誕生して陸において繁殖を始め、地上という生活圏内でも独自な進化、発展を繰り返し、今日に至ったことは確かである。
 今、陸上で繁栄を誇る人間の生理学的知見においても、生命の発生から基本的進化の大部分が海においてなされたことは、種々の痕跡から明らかである。
 痕跡の一つは、人間が塩を必要とし、水を飲むことである。血液、体液、羊水などの密度は海水の密度と一致し、ナトリウム、塩素、マグネシウム、カルシウム、カリウムなどの成分比が海水とほぼ同じであることも、人間や他の地上動物たちがかつて海中において生命を得、海と一体化しながら進化した何よりの証拠であろう。
 一説によると、人間の肉体の成分比は、蛋白質(たんぱくしつ)が全体の十七パーセント、脂肪約十四、炭水化物一・五、ミネラル約六、そして残りの約六十一パーセントが水だという。
 私たち人間の肉体のほぼ六十〜七十パーセントは血液、体液といった水分であることに間違いはなく、その肉体を構成している細胞はちょうど水中の生物のように、水に浸され、水に溶けた栄養や酸素を得て、老廃物を捨てている。
[乙女座]地球上の生命は宇宙の有為転変の所産
 水の炉に誕生した生物が海洋から陸に上がって生きていくようになり、近くの超新星の爆発からも起こる宇宙線による突然変異などが繰り返されて、ついに人類が誕生したのは、地球の歴史から見ればほんの最近の出来事にすぎない。
 猿が木から下りて地上生活を始めたのは約千二百万年前、この地上生活を常態とする類人の時代になったのは約三百万年くらい前、ホモエレクトス(直立人)が現れたのは約百五十万年前、ホモサピエンス(現生人類)が登場したのはほんの三十万年くらい前のことだといわれている。
 長い、計ることのできないほど長い時間を費やして、宇宙が創られた。宇宙の中に太陽系があり、その中心をなす太陽に従って地球がある。その地球の表面に生物が発生し、その中から、人間という特異なものが出現した。
 人間につながるヒト科が現れてから、現在まで数百万年を経過しているわけだが、それ以前の生命としての誕生の時まで逆上るならば、人間の歴史もまた計ることのできないほど古いものになる。
 人間もはじめは単細胞のようなものであり、それが二つになり四つになり八つになり、次第に分化し発達して、いつか、私たちのような人間が形作られた。
 人間は地球上に発生したが、創造者は宇宙である。人間は宇宙の意思によって創られた、ということができる。人間は宇宙の有為転変の所産である、ということもできる。
 この宇宙の結晶体である人間の体は、約六十兆個の細胞から形成されている。地球上の生命の核は、細胞の化学反応を制御している蛋白質と、遺伝的な指令を与える核酸である。DNA(デオキシリボ核酸)の指令いかんによって、生物は人間にもなり、牛にもチョウにもアメーバにもなる。
 すべてのものが分子的には同一、すなわち、万物の基礎はすべて平等であり、ほんの少しの違いで差別が生まれるのである。
 小さな細胞もまた、一つの宇宙である。銀河や星の世界と同じように、複雑至妙な世界である。細胞の核の中にいる核酸が指令を発し、細胞の中の分子を変化させ、エネルギーを蓄えて細胞分裂が行われる。
 一つの宇宙である細胞をさらに分析していくと、原子の世界からできている。というより、原子、分子が次第に発達して細胞が生まれたという順序であることは、当然である。
 原子は、原子核を中心として、その周りを極めて正確に、定められた軌道を一ないし九十余個の電子が回っている。原子核は原子の大きさ、つまり電子の軌道の大きさに対して十万分の一という微小なものである。言い換えれば、原子の中は空っぽ同然の空間の世界なのである。
 原子の直径を小学校の運動場くらいの大きさとすれば、原子核はグラウンドの真ん中に置かれた米粒ほどの大きさである。このような、がらんどうの世界が基礎となって、鉄やニッケルがあり、人間ができているという不思議さは、いいようもないものである。
 しかしながら、空っぽ同然で、がらんどうの世界こそ、宇宙の本質なのだ。太陽系がそうであるように、銀河系宇宙がそうであるように、宇宙の物体と空間の割合は、そうした比率をなしているのである。
 ここでもまた、一つの真理が遍満している相を、見逃すわけにはいかない。




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■宇宙天地大自然と「気」3 [「気」学]

[魚座]無限小の世界の先も「気」の世界である
 では、不思議な原子の世界の原子核が、物質の究極の姿なのだろうか。
 日に日に進歩する現代物理学では、その原子核は、陽子と中性子と、その他の素粒子でできており、これらもより小さな粒子である六種類のクォークと、六種類のレプトン(軽粒子)で構成されていることを実証しているのである。
 さらに、究極の粒子とされてきたクォークが、より小さい粒子、すなわちサブクォークからできている可能性も、指摘されるに至っている。
 では、クォーク、ないし、いまだ存在が立証されていないサブクォークが、果たして究極の物質なのだろうか。
 クォーク、サブクォークを、さらに細かく分析したらどうなるか。何からできているのか。それはわからない。宇宙の果ての無限大の世界がわからないように、現に手にしている物質を形作っている無限小の世界も、人間にはわかっていないのである。何とも、もどかしい話ではないか。
 実は、人間の知恵をもってしては、どうしても解明されない、物質の最小限の極という物から先も、「気」の世界なのである。「気」はもう物ではなく、物になってくる「気」、物質以前の「気」ということになる。
 高度に進んだ科学時代の物理学者も確認できない世界、それも「気」の世界であり、「気」の状態なのである。
 結局、目に見えない「気」について、人間はわかっているようで、全くわかっていないものである。わかりそうでわからない神秘性を有するのが、「気」の性質でもある。
 「気」の神秘的な本質は、般若心経にいう色即是空・空即是色という言葉で説明することができ、理解もできるだろう。人間の知恵をもってしてはわからない、物質や空間や時間の無限大、無限小という「無限」という観念も、いうならば、「あるといえばある」世界、「ないといえばない」世界である。
 つまり、色即是空・空即是色の世界なのである。
 「気」はすべての根源であり、人間の知・情・意の源泉であるけれども、その本質は宇宙始源の空の世界に属し、目に見える色界と目に見えない空界とに潜在しているからである。
 すなわち、「気」は目に見えない宇宙的存在であり、空そのもの。太陽も、地球も、また人間存在も、本来、空なる世界から現れた存在にほかならず、「気」のエネルギーが姿を変え、力となって発現、発揚しているのである。
[水瓶座]物質性を超えた「気」と空気
 人間についてみれば、「気」は体の空の領域において生命力として蓄えられる一方、体の中に蓄えられた「気」は、物を生み出す「気」にも変わっている。空の世界に蓄積された「気」は、空から色へ、色から空へと自由に次元を超えて、「気」の発動となって現れるのである。
 いうなれば、「空」と「気」は言葉が違うだけで、実は同じもの。ただし、空というものは物でもなければ事柄でもなく、物や事柄に変化する「気」が充満している宇宙空間の状態を意味している。
 例えば、「空気」は「空」という漢字を頭に置くから、何もない気体というイメージを与えているだろうが、空とは禅でいう「色」の逆説的用語であって、すべてが「在る」という意味である。
 もちろん、「気」の中には、ないものはない。宇宙天地大自然、万事万物、森羅万象のことごとくが「気」だからである。
 また、「空気のようだ」というと、目に見えない存在、気付かない存在、あるようでない物、ないようである物などを例える場合に使うだろうが、空気は物質であり、風や雨や稲妻を生じたりする。
 そして、地球を包んでいる無色透明の気体である空気は、生物になくてはならない酸素や、二酸化炭素を供給しており、明らかに一つのエネルギーである。酸素や二酸化炭素は物質であり、生物の生理作用となるばかりか、物理作用ともなり、精神作用ともなるものである。
 この生命の一切の素が含まれている空気とは、太陽と地球の「気」が合体したものであり、空の中に、「気」の中に、すべてを生かす力がある。命あるものは残らず、空気の中に存在し、あるいは、空気が溶け込んでいる水中に生かされていることが、その何よりの証拠である。
 空気の中から、必要なエネルギーをいくらでも得られる。現に植物も動物も、どんな微生物たちも、生長、繁殖、行動、感覚などの貴重なエネルギーを、空気を呼吸することによって得ている。空気を体いっぱいに、上手に呼吸することのできる生物は、健全、賢明に生命を発展させることができる。
 呼吸とともに、空気中にたくさん包含されている「気」を吸収できるということは、空気の持つ何よりのありがたさであり、神秘不可思議なところである。
[山羊座]「気」は消滅、死滅する宿命も持つ
 本来、人間の視覚では把握できない宇宙的存在であり、色界と空界に潜在している「気」について、ここまで説明を試みてきた。
 平易な解説に努めてきたつもりだが、わかりそうでわかりにくい「気」というものを完全に理解することは、一般の方にとって容易ではなかろう。より簡単、明白に、宇宙天地大自然の「気」についてまとめておきたい。
 宇宙は「気」の世界である。太陽も「気」の固まり、地球も「気」の固まり、無限大の大宇宙に存在する天体で「気」の固まりにあらざるものはない。
 そもそも、宇宙大自然世界に存在するすべてのものは「気」であり、「気」がすべてのものになっている。約百五十億年という悠遠なる過去に宇宙自体が創られ、天体という物体が創られたのも、「気」の働きである。
 現在も、森羅万象、万事万物、一切ことごとくが「気」によって進化し、発展し、存在し、生かされている。
 太陽などの恒星、地球や火星などの惑星、月などの衛星といった重い重い大きな物体が、宇宙空間に浮き、回転している。それらの総体も、整然とした秩序の下で動き、動かされて、膨張し続けている。何によって動かされているのか。それも「気」の力によって動き、動かされている。
 宇宙空間のすべては「気」の世界であり、時という時間の根本さえも「気」の動きであり、地球圏内の森羅万象、万事万物ことごとく、「気」でないものは一つもない。「気」というものが、いかなる時、いかなる所、どのような場合においても、その原質なのである。
 我々人間の生命も「気」である。動物や植物のすべての生命も「気」である。人間や動植物をかくあらしめている、いわば生命の根源は「気」であり、創造し活動するものはことごとく、「気」の結晶体である。
 目には見えないが、「気」の中にはすべての生命のエルゴンという活動し、創造する力が存在し、それが凝って物質の究極を形成する因子となり、宇宙天地大自然の万物はもとより、あらゆる生きとし生けるものを創り上げている。
 その「気」の有り様は、物により、事により、時により異なる。季節でいえば、春には春の、夏には夏の「気」があり、一日でいえば、朝には朝の、昼には昼の、夜には夜の「気」があって、それぞれの「気」はみな違う。同じものであっても、味や働きが微妙に違うのである。
 「気」は時間によっても、空間によっても、時節によっても違うのと同様、人間の年齢によっても違う。一歳から百歳、百二十歳まで、百段階、百二十段階があり、それぞれに「気」が違うのである。
 同様に、一年には三百六十五段階があり、それぞれに「気」は違う。
 「気」は、その働きが日々刻々、年々歳々同じではないわけだが、「気」の働きというものは目に見えないし、普通の人では気付かないから、その変化というものがさっぱりわからないのである。
 しかし、「気」を利用するかしないか、その上手下手、使い方の巧拙によって、どれほど人間の運命が変わるかしれない。
 ただし、宇宙天地大自然に存在するものは、ことごとく「気」の結晶体であり、「気」が変化して生成されているゆえに、人間を含めた万事万物はまた、いつかは「気」となって消滅したり、死滅する宿命にある。




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■「気」と日本人1 [「気」学]

[山羊座]中国大陸からの「気」の流入と普及「気」
 日本にとって、古代から続く中国との交流が及ぼした影響は、大きなものがある。中国大陸から直接、時としては朝鮮半島を経由して、人や物、文化や技術、仏教や儒教が流入し、日本的に改められながら、広く普及していったのである。
 そこで、中国を本家とする「気」が、どのように日本に伝来し、どのような形で残っているかを考えてみよう。
 まず最初は、紀元三世紀の末、老子を開祖とした道学の「気」の思想が伝えられた。「古事記」や「日本書紀」によると、王仁(わに)という百済から招かれた帰化人が、儒教の「論語」十巻と「千字文」をもたらし、道家で行う治療法であり、養生法である「導引」と「合気」を日本人に教えたといわれているのだ。
 学問としての「気」の思想、「気」の概念が日本に広まるのは、ずっと後の近世になってからのことだが、実用としての健康法、あるいは医術、武術の面では、徐々に浸透していくことになったのである。
 宗教の面では、平安時代の空海が「気」の鍛練法を伝え、実践していたと見なされるだろう。彼は約二年間、唐の長安に学んで、大乗仏教の発展の極みに現れた密教を日本に伝えた。
 即身成仏を目指す密教といわれるが、空海はそのために身密、口密、心密からなる三密を提唱している。身密は手に印を結び、一定のポーズをとること、口密は真言を唱えること、心密はイメージによる観想である。それはまさく、「気」のトレーニングともいうべきものであった。
 日本語から考察すると、古事記や日本書紀、万葉集などの古典に、「気」という言葉がたどられる。
 ただし、中国語で意味する「気」そのものではない。「神」、「霊」、「怪」、「顕」、「異」、「疫」、「鬼」などの意味に、使われていたのである。「けはい」、「もののけ」、「いとおもしろし」、「げにおそろしき」、「いとあはれ」などの言葉にも、「気」の日本的な意味が認められる。
 「けはい(気配)」のけ、この「け(気)」に対する鋭い感受性が、いつも日本文化の中心ないし周辺にはあった。「気」は、生物や物や場から発散する見えざる手といってもよいだろう。「もののけ」の「け(怪)」なども、そうした意味の「気」に通じてくる。
 このように、古代の日本では「気」は「け」と読むのが伝統的で、「け」は自然現象をつかさどる超自然力を持つ神的存在という認識だったのである。
 「け」が次第に「き」と読まれるようになったのは、源平時代以後のことであった。
 大ざっぱにいえば、十四世紀あたりまで、「気」は宇宙天地大自然の様子や、人間の動作、顔色などを表現することが多い。それは主として、自分が見たり、感じたりした周囲の状況を即物的に示しているのである。
 十四〜十五世紀の室町時代になると、「気」には、自分自身の感情や心理を表現する用法が加わった。「庶民の時代」とされた室町で、日本人が自分のものとして「気」を語り始め、「気」に新たな意味が込められたのである。
 その理由を、平安時代の猿楽から発展した能など、芸術の普及と関連付ける説がある。間や拍子を大切にする日本独自の文化にとって、「気」があまりに即物的であってはならなかったのである。「気」は感情や情緒を表現する方向で、日本の中に定着していったようだ。
 同時に、日本における芸術、芸能などの文化面では、特に「気」の表現力で、その真価が問われるようになっていった。「気」の文化は日本の伝統文化の一大特色、といっても過言ではない。
 芸道、茶道、華道、書道、武道など、伝統文化には「道」という字が付けられており、道を究めること、すなわち全身全霊から出る自然の「気」、より偉大で宇宙性の広がりを得た「気」、研ぎ澄まされた「気」が要求される文化なのである。
 宇宙天地大自然に遊ぶことが、文化的に最も「いき」なことだとされる世界である。
 「わび」、「さび」、「もののあわれ」などという日本独特の美学や、勘とか間とか調子などと呼ばれるものも、すべて宇宙的な「気」の働きによるものといえよう。
[水瓶座]江戸時代に儒学の影響で広がった「気」
 中国から伝わった「気」の思想が学問としての広がりを果たしたのは、江戸時代になって儒教が思想的支柱となってからと見なしてよいだろう。
 歴史的に見ると、日本における儒教は、仏教と比べ物にならないほど新しい。天皇に「四書」、「五経」などの経書を講義することを仕事としていた公家は別として、儒教の書物に親しんだのは禅宗の僧など、ごく一部の人にすぎなかったようだ。
 それを一挙に政治の舞台に引き出したのが、かの徳川家康。彼によって、徳川幕府二百六十余年の体制思想として、儒教が歩み出したのである。
 江戸時代の中期頃になって、「気」の日用語がたくさん生まれ、それが今日のように定着したのは、朱子学や陽明学などの儒学の影響と思われる。
 朱子学や陽明学によって、後世の注釈を後生大事にすることが反対され、直接に「論語」や「孟子」に代表される経書を読むことが主張される中で、「天地の間は一元気のみ」と唱えた儒学者・伊藤仁斎も現れた。江戸儒学の中の古学と呼ばれた一派を発展させた人物であり、その主張は山鹿素行に始まったようである。
 また、医学の面では「養生訓」を書いた儒学者であり、本草学者の貝原益軒、仏教の面では内観法を提唱して、現代禅の生みの親となった白隠禅師という、「気」と深くかかわった人物が登場し、武士の世を反映して「気」の武術論も展開されている。
 本家の中国においては、漢初の孫子が、「気」を知って兵法に用いた人物として知られる。「朝気は鋭く、昼気は惰、暮気は帰。ゆえに善く兵を用いるものは、その鋭気を避けて、その惰気を撃つ。これ気を治むるものなり」と、その兵法書に説いている。
 朝は兵隊の気力は鋭くなっており、昼の気はだらけ、日暮れになると兵舎に帰ることばかり考えている。だから、用兵家というのは、朝の「気」を避けて、昼時や夕方の帰り道を狙って攻撃する。これこそ、「気」を体得した者というべきだ、と述べているのだ。
 我が日本では、徳川二百六十年の軍事上の指導は柳生家が任じていたが、柳生宗矩の著した秘伝書「兵法家伝書」では、「内に志ありて、外に発するを気という」と説いている。
 妄心を除いて、冷静に判断でき、かつ己の気力が充実している時にのみ、兵法家としての目的を遂げることができる、という意味であろう。
 新陰流の達人として名高かった柳生但馬守が説いたように、私たち人間の「気」というものは、全身より外に発し、大きく膨らんでいく。
 気力が大きく膨らんでいる時には、その人間が大きく見える。相手が自分より大きく見える時は、相手の「気」が自分を圧倒しているのである。逆に、相撲取りのように体が大きいからといって、必ずしも圧迫感を受けるとは限らない。
 こちらの「気」が勝っていれば、どんな大きな相手でも小さく見える。自分よりはるかに小さな相手でも、自分をしのぐ「気」の持ち主であれば、相手の存在感に圧倒されてしまう。
 気力で勝つということは、戦わずして勝つということでもある。「気」の迫力で圧倒して、「こいつにはかなわない」と相手に思わせることである。すなわち、戦わずして相手の戦意を失わせるということだ。
 技もさることながら、「気」が勝者と敗者の明暗を分けることを、名高い兵法家であり、武道家であった柳生宗矩は知っていたわけだ。
[魚座]明治時代に台頭した「気」の武術と健康法
 日本が近代化を始めた明治以降の「気」は、中国で革命勢力が台頭し、「迷信的観念」というレッテルを張られた状況に似ているかもしれない。工業化と科学技術が大手を振るう時代にあっては、「気」は片隅に押しやられてしまう。
 だが一方で、従来の武術が真剣などによって、人を切ることに価値を見いだしてきたのに対して、攻撃よりも護身に重点を置いた「気」の武術が台頭していった。
 植芝盛平によって創始された合気道は、柔術を始めとする古武術を基本にし、関節を巧みに利用して投げることと、押さえることを最大の特徴とした。
 その極意について、植芝は「己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものへと一致させることにある」と語っている。また、「合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、“我はすなわち宇宙”なのである。「私はこのことを武を通じて悟った」ともいっている。
 この境地は武術家というよりは、むしろ宗教家ないし哲学者に通じるものであろうが、合気道は「気」を呼吸力と読み替え、それを活性化する各種の技を開発したといえる。
 合気道に限らない。居合抜き、気合術など一連の武術は、いずれも「気」の武術と見なされる。いや、武術はすべて「気」の活用だともいえる。
 平成時代の武術界においても、遠当てと呼ばれる神秘的な技の使い手がおり、「気」のパワーをいかんなく発揮している。相手に触れることもなく、一定の距離を置いた状態で、「気」のエネルギーで相手をねじ伏せたり、空中に飛ばしてしまうのである。
 「気」は、その使い方によっては、敵や獣を倒すための殺法ともなるわけだ。針灸や気功で人を生かす経絡のツボも、武術では相手を倒す急所となる。「気」の医学は、そのまま「気」の武術として応用されることになったのである。
 中国の武者修行の逸話には、気合で岩を砕いたり、鉄棒を折ったり、飛ぶ鳥を落としたりといった、すさまじいエピソードが記録として残されている。
 さて、日本では、明治から大正にかけて、「気」の健康法が流行したこともあった。岡田式静坐法、藤田式息心調和法などであり、当時の海外移民が盛んな時代背景もあって、ハワイや南米にも広められた。これは、急激な近代化、工業化に対する、一種の反省であり反動であると見ることもできる。
 そして、二十世紀も終わりに近い平成時代になって、再び「気」や気功のブームになり、今や完全に定着した感がある。背景には、日本の内外の要因があるだろう。
 直接的には、針麻酔の成功や馬王堆の発掘といった、中国での医学界や考古学界におけるニュースが及ぼした影響であろうが、そうした外的な理由とは別に、日本の内的な要因も見逃すことはできない。
 経済大国といわれて久しい日本であるが、人々の心のどこかに、現状には満足することのできない何かを求める、ひそかなる衝動があるためではなかろうか。




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