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■見せ掛けの性格に留意する [性格判断のノウハウ]

[ムード]人間の性格は一つの宇宙のようなもの
 私たち人間にとっては、自分以外の他の人間の性格を理解するのは難しいことである。
 一人の人間の性格というものは、それ自体が一つの宇宙のようなものに例えられる。その奥行きは非常に深く、日々刻々流動して、年々歳々変化している。これを十分に理解するということは、本来、きわめて難しいことなのだ。
 しかも、私たちが知り得るのは、他人についての像であって彼自身ではない。その人について自分の持っているイメージが、その人の実際の姿と一致しているかどうかは、何の保証もないのである。
 ここに一人の人間、甲野太郎がいる。甲野太郎について、他の二人の人間の評価や意見が違うのは、日常よく経験するところである。太郎は一人しかいない。その太郎に関する評価や判断が同じでないのは、それぞれの太郎に対する態度、太郎との接し方、太郎に対する好意度、太郎について抱いている先入観が異なるためだ。
 かくのごとく、他人の性格をできるだけ真実に近い姿で理解することは非常に難しい問題ではあるが、まずは、人間の性格、特に性格の類型について基礎的な知識を持つことが大切である。
 人間それぞれの性格の現れは多様であっても、基本的な類型についての知識があれば、これをもとにして目の前にいる人の性格を知る手掛かりをつかむことができるというものだ。
 次には、他の人間の性格を客観的、正確に評価したり、判断したりするために留意しなければならない基礎的なことを何点か挙げてみるので、それらを参考にしていただきたい。
 第一は、光背効果を考慮すること。光背効果というのは後光効果ともいわれ、仏像を拝む時、その体から差す光に幻惑されて、まともに実像を見られなくなってしまうことに基づいている。
 我々はある人間の、ある一つのことについて、よい印象とか悪い感じを受けると、そのこととは本来、関係のない特徴までよく評価してしまったり、悪く見てしまったりしがちである。
 具体的にいうと、顔立ちの整った人はいい人のように思われやすいし、おとなしく、静かな子供は勉強のよくできる子と思われやすい。
 もともと、容姿の美しさと人柄のよさは別々の特徴であり、おとなしいことと学業成績がよいこともあまり相関関係の高いことではない。
 このようなことは誰でも一応知っているだろうが、実際にはしばしば、無意識のうちに判断がゆがめられてしまうのだ。
 光背効果は日常よく見られる現象であり、「彼は財界の有力者の息子だから信用できるはず」、「高学歴で社会的な肩書きのある人物だから大丈夫」、「誰それは金持ちだから、うそはつかないだろう」などというのも、惑わされやすい一つの例である。有力者の息子、いわゆる二代目などには、甘やかされて育つために世間知らずな人物が往々にしているから、注意を要す。
 光背効果というのをすべて除去するのは至難の業であっても、この効果のために他人の性格の把握が時に、非常にずれてしまうことがあるので留意していただきたい。
[ムード]人物評価を誤らせる見せ掛けの性格
 第二の点は、性格の評価にあたって、どんな状況のもとで人間観察をしたかということを、忘れてはならないということ。
 人間の行動は、その時と場合によって強く影響され、規定される。うれしいことがあると開放的に、多弁になる。悲しいことがあると神妙に、沈黙しがちである。
 従って、教師に注意され、しょんぼりしている時の子供の姿を見て、「この子は無口で、おとなしい」と判断してしまい、運動場での腕白ぶりを見なければ、誤った判断をしてしまう恐れがある。
 第三は、その人間の性格を観察したのは、その人間とどんな関係にある人かということだ。同じ甲野太郎の性格を同じ時に、数人の人が観察しても、その評価や判断が一致することはまれである。他人の性格評価にあたっては、評価する人自身の好みや体験が関与してくる。
 一般的にいえば、自分と同系統の性格については細かく分化した評価ができるのに対して、自分と一致しない性格特徴については評価が大雑把になりやすい。また、他人の性格をどの程度理解できるかということに関しては、人による違いが大きい。
 世の中には、人間全体をいつも善意で見て、他人の気持ちを信ずることのできる人と、常に相手の心の裏を考えずにはいられないような人とがある。
 幸福な幼年時代から少年時代を過ごした人の中には前者のタイプが多く、逆境に育った人の中には往々にして、後者の傾向を示す人が見受けられる。
 他人をどう見るかという点には、その当人の経験、並びに、それらの経験を通して形成された人間観が関与しているわけだ。
 留意点の第四は、人間は見せ掛けの、仮面としての性格を持っているということである。幼い子供というものは、彼らの欲望や感情の赴くままに振る舞う。遠慮というものもないし「こうすると、どのように思われるだろうか」という対人配慮もない。
 しかし、青年期に達して自分を対象として眺めることができ、他人との比較において自分を相対的に見るようになると、「自らが他人にどんな印象を与えるか」ということが、よく考えられるようになる。
 そして、本来の自分の性格とは違ったものを、あたかも本来の性格であるかのように見せ掛けることができるようになる。この過程は、いつも意図的に、作為的になされるとは限らない。全く無意識のうちになされることもある。
 例えば、「自分は憶病だ」と自覚している青年は世の中に大勢いるだろうが、その彼も若い女性に対しては、勇気のある男らしく振る舞おうとすることだろう。虚勢を張るという現象である。
 過敏で、内向的で神経質なサラリーマンが、「心の内側を他人に知られたくない」と考えて、豪放で、無頓着な人間のように見せ掛けることもある。
 このような人間に対する時、直観的にその人間の真の性格を見抜くことのできる人と、表面に現れた仮面を真実の姿と思い込んでしまう人とがいる。
 一方では、見せ掛けの姿を演技してみせるのがうまい人間もいるし、すぐに矛盾が露呈してしまう人間もいる。
 また、いつでも地金のままで悠々と世渡りをする人間もいれば、場所や相手によって目まぐるしく演技をする人間もいる。
 見せ掛けの、仮面としての性格は年齢を増すごとに複雑になり、これにうれしくもないのにうれしそうな素振りをみせるような、社交儀礼としての表情が加味されると、その人物の本当の性格、真の姿がどんなものであるかを判定するのがいよいよ困難となる。
[ムード]性格判断は、いうはやすく行うは難し
 人間は初対面の人に会った時、まず相手の表情から性格、人柄を判断しがちである。「信頼できそうな男」、「心の優しそうな女」、「怖そうな人」といった人物評価を、無意識のうちにやっているのである。
 しかし、仮面としての性格、愛想笑いなどの社交儀礼としての表情が加味されている場合もあり、人間の性格や心というものは、えてして表情、容貌、顔付きとは無縁なところにあることもある。見掛けだけで相手の性格までを判別すると、間違うことも少なからずあるのも事実なのだ。
 あるいは、相手の表情から感じ取った第一感が正しくて、鋭く本当の性格まで判別していたのに、二度、三度と見ているうちに、自己意識が「ああのこうの」と、へ理屈を加え、自己流の間違った人物解釈に陥る場合もある。
 人間が相手の顔を見て、好悪の先入観を勝手に抱くのはなぜか。
 最近の脳や心理学の研究によると、乳児期の母親の顔付きと感情表現が、その鋳型になるようだ。大脳に刻まれた先入観の鋳型に捕らわれないで、相手の性格や人柄、心や考えを正しく理解するには、どうすればよいだろうか。
 大事なポイントが二つある。
 第一は、話してみること、つまり聞くということである。第二は、それぞれに喜怒哀楽の感情を顔に出す表情を、見せ掛けか否かよく見ること。「そんなことは当たり前だ」といってしまえば、それまでのことだが、いうはやすく行うは難しである。
 なぜなら、本来の人間は五官で見たり、聞いたりして、相手を見抜き、物事を知るという力が備わっているのに、現代の人間は五官さえ正しく働いていないことが多く、皆いい加減な心に左右され、判断を誤るからである。
 同じ意味で、見掛けの美人に対しては、先に説明した光背効果に幻惑されてしまって、評価がずれてしまうことが多いので、特に若い人に注意を促しておく。
 美というと、すぐ姿、形の美しさを連想するだろうが、真の美というものは、根に支えられたもの、精神に支えられたものでなくてはならない。
 美しい花に、よい実はならぬ。美婦は不祥の器。美しい女は縁起がよくない。「災いや不幸を招くもとだ」というのも、すべて根のない姿、形だけの美に捕らわれるせいだ。
 「美と愚は好一対」といって、とかく美人には愚か者が多い。外見だけの美に心を奪われるのは、危険千万だ。「はなはだ美なれば、はなはだ悪あり」ということである。
 絵を見ると、そのあたりの理がよくわかるだろう。何とか美しく、うまく描こうとしたら、すなわち、意識を働かせ、意識で描こうとしたら、その絵はもう堕落である。一見、「美しいな、うまいな」と思っても、すぐに見飽きてしまう。精神がないし、見る者に対して訴えるものも、力もないからだ。
 この点、与謝野鉄幹の詩を口ずさむ者は、「妻を選ばば才たけて、みめうるわしく」、そこで終わっているのではなかろうか。下の句の「情けあれ」を見逃している若者が多い、と思わないだろうか。
 美人で頭がいい。これは外観で、少し付き合えばすぐわかる。だが、「情けあれ」は内容だから、ちょっとやそっとでは、なかなかわからないものだ。
 目下恋愛中などと、熱ボケしている段階では、お互いによく見せようと、猫をかぶっているから、相手の真実の姿などわかりっこない。
 「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」で、情け心は真理に通ずる心だ。そういう心根を持った女性こそが、本当の利口者として、家庭を支えていくことができる。




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■見抜く側の自分を鍛える [性格判断のノウハウ]

[soon]相手を見抜く側の自分の目を養うこと
 以上のように、外観に惑わされることなく、他の人間の性格を客観的、かつ正確に判断するための留意点をいくつか挙げてきたが、いよいよ他人の性格の理解が難しいことが認識されただけ、という方もおられよう。
 そこで、性格の理解を誤らないための次なる方法として、人間の行動に平素から深い関心を持つことを勧めたい。
 「なぜ、甲野太郎はああいったのだろうか」、「なぜ、乙山花子はあの時、あのようにしたのだろうか」と、いろいろな場合を想像してみればよい。
 人間の行動の多様性、変化の可能性について、いろいろの場合を想定しておくことは、目の前に現れた人について、「この人は今、何を考えているのか、何を要求しているのか」を知る上に必要なことなのである。
 そして、想像を働かせつつ、目の前の人が男であれ、女であれ、その人間の行いを実際にじっくり観察してみよう。
 例えば、相手が平然と視線を合わせ続けるなら、支配的で、自己顕示的な性格の人と見なしてよい。よくほほ笑むなら、社交的で、人付き合いがよく、気のいい人と考えてもよいだろうし、おしゃべり好きで、こちらの話を好意的に聞こうとするなら、気配り上手で、そつがない人といえるだろう。
 体は正直なもので、顔にも、態度にも表れるから、いくら演技のうまい人であっても、虚偽、虚勢は長く平均して続くものではない。
 人の行い、動き、振る舞いをよく見る力を養えば、性格がわかり、人柄もつかめるようになる。強情、頑固な人と、素直で、すっきりしている人とは、顔を見てもわかるし、態度を見てもわかる。人間の性格が、自然と姿、形に表れるからである。
 見抜くのは目の働きである。眼光紙背に徹するほどに鍛えられれば、相手の運命や将来性まで、五官意識で直観することもできるようになる。
 結局、他人を正しく見抜くための適切な方法は、日常的に多くの人々と接して、人間を見る目を養っておくことである。言い換えれば、人を見抜き、人を信用するには、まず見抜く側の自分を鍛えるべきだということになる。
 人生は常に真剣の一本勝負である。何事にも一期一会という禅的な心構えで臨むべきである。
[on]他人の思考や感情を理解する能力を高める
 自らの人間を見る目を養うには、他人の思考や感情を理解する共感能力を高めることも、一助になるだろう。
 専門的にいうと、ある人の考えていること、感じていることなどを自分自身の中に移し替え、その人の内的世界と似た世界を自分の中に作り出していくことを共感といい、その能力を共感能力という。
 共感は同情と似ているが、次の点で区別される。同情というのは、相手の考えや感情を「もっともなことだ」と肯定し、好意のある態度を示すことである。親を亡くした子供に同情するというのは、その子の立場に好意を持って、「何らかの形で支えてやろう」という動的な気持ちの表れである。
 これに対して、共感というのは、むしろもっと静的なもので、他の人間の思考や感情を理解する能力である。共感から同情に発展することも多い。共感しても同情しないこともある。逆に、共感しないで同情することもある。
 おおよその傾向として、共感能力の高い人は、温かい愛情に恵まれて成長した人であって、他人に関心を持ち、楽観的な物の見方をする。一方、共感能力の低い人は、内向的で、対人関係もうまくいかず、孤独であり、他人をあまり信用しない。
 こういう共感能力というのは当人にとってかなり固有のもので、それほど簡単には変化しないものではあるが、少しでも高めるようとする努力が必要だろう。
 人間の行動に平素から関心を持つことのほか、共感能力を高めるための一般的な方法は、相手に妙な警戒心を持たせないように注意し、自分がいつも安定した、落ち着いた気持ちを持っているように心掛けることだ。
 こうして、自分が周囲と共感できる性格、周囲と調和できる人格を持つことができれば、おのずから、他の人間が胸襟を開いてくれるので、彼らの性格をより真実に近い形で理解できるようになるわけだ。
[end]周囲と調和できる人格を持てば人がわかる
 人間というものは、周囲と調和できるのが自然で、調和できないのは自意識が強すぎ、我が強すぎるからだ。本当に自力を生かす者は、我が強くては駄目である。
 強気に傾きすぎて、我の強い者は、依怙地(いこじ)である。他と調和するには、我に執着しすぎる。自分を生かすためには他をやっつけることを辞さない。素直になり切れない。自分さえよければいいは、実は一番自分のためにならない。
 確かに、今の時代では引っ込んでばかりいると生活ができないため、どうしても、がむしゃらにならないと生きてゆけない面もある。
 例えば、朝夕の満員電車に乗り込むようなもので、他人に譲ってばかりいては、自分の出勤時間も、人との約束の時間も守れない。自分の義務も果たせないということになる。どうしてもある程度は、他人を押しのけて、自分を生かす必要がある。
 だから、この世に生きてゆくには、時に我の強い人間が得をするのは事実で、人がよすぎ、気がよすぎては、社会的敗残者になる可能性もある。他人に譲ってばかりいては生活できないから、ある程度の我がなければならない。
 しかし、弱気に傾きすぎて、我が弱すぎるのも困るが、強すぎるのも困る。当人も困るが、周囲がなお困る。そして、はたから信頼もされずに反感を持たれ、ついひねくれることになる。
 何事も程度問題だが、我が強すぎて、他のことはわからないという人間がいる。そこまでゆかない人でも、自力ばかりを頼って、自分の世界に入り込んで、他の世界を拒絶する傾向の人がいる。自力で何でも解決できると思う。その結果、自力以外を信ぜず、他力の世界を認めなくなる。
 ともかく、人間は自力だけでは救われないもので、人間が自己を救おうと思うには、他力によらなければならないのだ。
 一番簡単な他力である他人の助力についてみても、他人から嫌われる人、信用されない人、愛想をつかされる人などは、幸福にはなれない。
 逆に、多くの人から愛されることは幸せであり、生きる喜びを得る。気のいい人間、仮に甲野太郎が、乙山花子に好意を寄せれば、「私のことを好いてくれる人の気持ちに、報いなくてはならない」という心理が花子に働いて、やがて、お互いに好意を持つようになる。
 気がいい人間の振る舞いは、こういう好意の返報性というものを誘い出すことになるから、彼や彼女はますます、たくさんの人から好かれることになるわけだ。
 結局、人間はともに生き、ともに生かし合うことが必要なのである。
 一例を挙げれば、あの太陽が燃えているのは、太陽自体が燃えているのではなく、周囲の作用で水素の核融合反応を起こして、燃焼しているのである。
 宇宙に存在するすべてのものは、何一つ独立し、孤立して存在しているものではなく、互いに相関し、助け合って全宇宙の中のものとして、宇宙と一体で現象しているのである。
 ここに示した宇宙の全体性原理は、そのまま世の中の動きも、互いに相関し合っているもので、その相関する力なしには、存在も現象もあり得ないものだ、ということである。
 人間は各人別々、互いにバラバラに、自分と他と区別するが、区別は同時に関係ということであるから、世の中一般は、この関係を生かし、ともに生きること、互いに生かし合うことが、宇宙の原理に従うわけである。
 宇宙には、何一つ同じものはなく、人間にしても決して同じ人間は二人といないのである。
 人間にはすべて、長所があり、短所のあるもので、皆が性格を異にしているが、実は、この人間相互の長短と差異が、お互いに引き合う力となるのである。このことをお互いに心して、生かし合いたいものである。
 あまりにもエゴイストは、かえってエゴイストではない。なぜかというと、「利己主義だ」といって他人から共感されずに嫌われ、愛想をつかされたならば、自分が損するに違いないからである。物質的にも、精神的にも、他人に嫌われて得をするわけはない。
 しかし、そんなことを考える余裕もないほど、利欲心の強い人はあり得る。そういう人が不幸になる時、「自業自得だ」といわれるのも致し方ないところだろう。
 このような不幸に陥る人は、人間が「生かされている」ということが、実はよくわからないのである。自力とは、自分の力で生きることであり、自己の意識をもって行動する力であるといえるのだが、大事なことは、他力なくして自力はあり得ないということだ。
 人間は、この他力という基礎の上に立って、はじめて自力で生きることが可能となる。また、真の自力とは、他力から養われる。
 つまり、人間が自力で生きているということは、他力によって生かされているということの上にある。この生かされているということと、生きているということから、平等世界と差別世界がなってゆくのである。




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■笑いで円滑な関係を取り結ぶ [性格判断のノウハウ]

[exclamation]互いに「気」でつながる人間関係
 自己性が強いと、それはみな欲になってしまう。悠々として地金のままで世渡りしながら、自然作用的な「気」を豊かにして生きていけば、好き嫌いや疎むということもない。
 それは自然の「気」。いかなることがあっても、人と人との和を欠くようなことはない。差別を知るから、常に平等でいることができるのが、自然の「気」なのである。
 人間は、動物や植物に対しても、「何となく気に入らぬ」、「気に食わぬ」ということがある。「気に入って」、好きでたまらなくなることもある。
 同じ人間に対しても、「気に入る」、「何となく気に掛かる」、そして「気が合う」、「気遣う」など、人間関係のジョイントとしての「気」の効用をいう言葉を使う。
 反対に、「はじめからどうも気が合わぬ」、「気が染まぬ」、「気兼ねする」などということもあって、出雲の神の気をもませることもある。
 すべては普遍的な「気」の働きなのであって、宇宙の森羅万象とも「気」によってつながっているのである。「気」でつながるとは、肉体でこそ知り得る味で、自己意識の強い人には、この味は体得できない。
 人間は生まれてから死ぬまで、「気」のお世話になっているのに、その醍醐味(だいごみ)に気づかずにいる人は不幸である。
 人間は本来、おのおの「気」でつながるべきものである。「気」を働かせるコツは、相手が黙っていてもその「気」を察し、相手の望むように振る舞うことである。
 「気を合わせる」ということも、実は相手と呼吸を合わせることで、これが調和関係にある、安定した人間関係の根本である。
 ところが、現代人は「気」でなしに物でつながる。政官財が金でつながる。権力でつながる。趣味でつながるのは、まだしも上等の部類に入れねばならない。
 また、口先では「気が合う」などといっても、その「気」と称するものが多分に意識的な、社交辞令的なものであることも多い。何よりも「気」というものについての認識が欠如しているから、聞きかじりの言葉として使われているような気味合いもある。
 人間の内なる世界と、外なる自然との統合はもとより、肉体と精神との根源的統一も、「気」が存在するからこそ可能なのである。
 人間の腹には、宇宙から吸収された「気」がプールされている個所がある。昔から臍下丹田(せいかたんでん)を気海というが、活力の源泉はすべて、そこから湧き出すものである。
 胸中に「気」を集めず、丹田に「気」を集めるよう心掛ければ、自然に「気」が養われてくる。
 そして、人間同士の「気」の流れ、「気」の交換というものは、肉体の健康、家庭生活、社会生活の中で最も大きな価値を持っているものである。親子や師弟というような、縦の差別の中に流れる「気」の関係というものは、計り知れない大きな働きを持っている。
 「気分のいい人」とか、「気性がいい人」だとかというように、人間は天候、気候と同じように気性に支配されることが大きいから、誰もが楽しい気性を養わなくてはいけない。楽しい気性を養えば、人のよいところが見えてくる。
 「君子」と「小人」ということもいうが、君子とは人のよいところのみを見る人、小人とは人の悪いところのみを見る人だという説がある。私たち人間はふだん、人の短所を見ることのほうが多くて、長所というのはなかなか見えないものだから、人間全体を善意で見ることを日頃の心得として、修養のポイントと考えてもいいのではないか。
 いい人と付き合う、あるいは、すべての人のいいところのみ見ていくということを、今後の指針としていきたいものである。
[exclamation&question]表情を明るくすれば肉体も環境も変わる
 現代の混濁した人間関係を矯正するために望まれるのは、他人の長所を見るようにし、自らも楽しい気性を養うように心掛けるとともに、穏やかな表情や、ほほ笑みを浮かべるように努めることである。
 言い換えれば、人間というものは、その心が顔の表情に出てくるのであるから、顔を軽んじてはいけないということだ。
 仏頂面、渋面はいけない。いつも苦り切った顔付きをしている人などは、できれば自分の表情を変えるために、和やかなほほ笑みや、明るい笑顔を習慣的に訓練してみたらどうだろうか。
 毎日、ただ自宅の鏡を見て、意識的に笑い顔を作る練習をやるだけである。経費も税金もかからないし、やがては健康がよくなり、家庭がパッと明るくなり、夫婦や子供の生活まで一変するから、ぜひ試してもらいたいのである。
 私たち人間全員に本来的に備わった自然力としての笑いの能力も、開発されないことには、顕在化することはない。
 例えば、家庭の中で誰かが大声で笑っていた時に、「慎みなさい」と責める主がいた場合、家族は大声で笑うことを避けたり、口に手を当てて潜かに笑うということになり、抑制すべきものと受け取られてしまう。
 逆に、大きな声で笑うのも自由、笑わせるのも自由という家庭で育つと、笑いを積極的に肯定する態度が生まれることになるだろう。
 普通、「笑いについて学んだ」という人はいないはずで、親であれ、教師であれ、大概は自覚しないままに、それまでに身につけてきた仕方で、子供に接するまでのことであろう。ここで、大人たちの文化、大人たちが生きる社会の文化が、笑いの能力開発に大いに関係するのを知るのである。
 さて、誰にも好意を持たれぬ人が、「いったい自分の顔のどこが、人から嫌われる人相の悪いところであろうか」と、鏡に向かってつくづくと顔を映して研究したところ、まず眉間(みけん)にシワが寄っていることに気づいたという。
 そこで、常に眉(まゆ)を伸ばすように努力したが、習慣的にまた、いつの間にか眉間にシ ワを寄せてしまう。
 最後の工夫で、眉を左右に伸ばしてバンソウコウをコメカミのところへ張った。眉間をしかめようとすると、コメカミのバンソウコウが突っ張るので、自然に眉間を伸ばす訓練ができ、それが習慣になって、ついに眉間のシワが伸びて明るい表情になったというのである。
 さらに、その人は自分の言葉遣いを優しくし、しかも語尾まではっきりわかるように発音するようにし、姿勢を正しく、シャンとすることも心掛けた。
 その時分になって気がついてみると、自分の胃病がすっかり治っていただけではなしに、奥さんのヒステリーまでも治ったそうである。
 本当に、顔の訓練をして表情を変えたり、笑う習慣をつけたりすると、肉体も環境も変わるのである。
[exclamation×2]円滑な人間関係は、ほほ笑みが取り結ぶ
 「人間は笑う動物である」というのは本当である。だが、「人間は笑うことのできる唯一の生物だ」というわけでもない、と説く学者もいる。
 チンパンジーやゴリラは、遊び顔をして仲間同士遊ぶし、くすぐられたりすると口を開け、 「アハハ」と声を立てて笑うという。
 喜怒哀楽の四大感性の中で、最も表出しやすいのは怒りの感情のようで、これは大抵の動物が表現できる。笑いに近い表情をとれる動物は、社会性に富んだものたちだ。笑いが表出できるのは、精神活動の発達の証拠でもある。
 すなわち、笑いの感情を示すことができるのは、高等動物の証明ということであり、その笑いの感情を人間は持っているのであるから、素晴らしいことである。
 怒ったからといって、広く動物にも見られる感情なわけだから、決して自慢できるものではない。笑いは人間が自慢できる、優れて人間的な能力といわなければなるまい。
 そして、人間同士が心のこもったほほ笑み、あるいは豊かな言語によって、温かい気持ちや感謝を伝え、心を通わせることができる。
 人間関係の潤滑油とも考えられる笑顔を使わず、まるで無表情に押し黙っていたり、「男はめったなことで笑うな。三年片頬(ほお)といって、三年に一回、片頬で笑うぐらいでよい」などと教えるのでは、いたずらに宝の持ち腐れを奨励しているようなものである。
 とりわけ日本人男性には、「おかしくもないのに笑えるか」というような厳格主義にとりつかれている者が、今日でも少なくない。
 このような堅物は、企業、官庁、学校の管理職にはけっこうおられよう。それでも不愉快な会議をしたり、部下や生徒に説教を垂れた後の眉間にシワの寄った顔を鏡に映して、ニヤリと苦笑するくらいの余裕はほしい。
 ともかく、個人によって、よく笑う人、笑わない人という程度の差はあるにしろ、誰でもが笑う能力を持って生まれ出てくるのだ。
 その優れた能力が、後において開発されて十分に顕在化するか、何かの障害によって潜在化したままであるかの違いはつきまとうが、基本的には人間は誰でもが、笑いの能力を持っているということを確認しておきたい。
 遺伝子という言葉を使うならば、笑いの能力は人類の遺伝子の中に刷り込まれているとも考えられる。人類が長い歴史を通じて進化をとげてきた過程で、笑いの能力は生存していくのに必要だからこそ、残り続けてきたわけであろう。
 私たち人間が生きていくのに、なぜ笑いが必要なのか。
 一つには、個人が生きていくためには、心身ともに元気で過ごすこと、健康に毎日が暮らせるということが何よりも大事で、そのために笑いが欠かせないのである。
 最近、精神的にも肉体的にも、笑うことが医学的な見地からして大切であるとい うことが、証明されつつある。大いに笑うと、免疫担当細胞として働くNK細胞が増えるという知見も、その成果である。
 もう一つには、人間は共同生活を営んでこそ生きていけるわけで、その共同生活を営む上で、笑いが欠かせないということである。夫婦の間であれ、親子の間であれ、他人との接触や交渉であれ、関係を親和的に取り結ぼうとすれば、笑いが必要となる。
 人間関係には、大なり小なり緊張がつきまとうものであり、硬い気持ちを和らげさせる仕掛けがないことには、共同生活を円滑に営むことはできない。
 日常生活の中での個人と個人の話し合いでは、笑みを浮かべたり、相づちを打ったり、時には声を出して笑い合ったりして会話が進む。もし、笑いの表情が全くないとしたら、その話し合いは、命令的か、けんかをしているか、いずれにしろ緊張をはらんだ関係ということになろう。
 協調としての笑いが交ざってこそ、円滑な人間関係が取り結ばれる。




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