■器量を磨く秘訣1 [生き方コラム]
器量を磨く日々の心掛け
●器量を磨くとは自己を育成すること
真の器量人、真の器量よしを目指す男女は、自己の心身を磨いて、「気」の入る器を大きく、「気」の流れる量を豊かにすることである。
普通の個人であろうと、男性は怠りなく自己を磨けば、誰でも器量人に近づける。女性も美人であろうとなかろうと、勇気を持って自己啓発を続ければ、次第に内面の美しさがにじみ出る器量よしに近づける。
そこで、日々の生活の中で自己を磨き、人間を大きくする心掛けについて、改めて述べてみたい。
ここでいう器量を磨く、自己を磨くとは、文字通り我をつくる、人間形成のことである。我をつくるとは、その人にとって、一生を懸けての大仕事である。一番大切なことである。
自己自身が完全者たり得ず、愚かなことばかりしていたのでは、器量人や器量よしになれないばかりか、いつになっても幸福な人たり得ない。
いかなる人々、いかなる時代にも通用し、基本となるべき自己育成の原理は、宇宙の原理、真理、法則による以外はない。宇宙の根源的な力により教えられ、育てられる。ここに、最高の自己育成法がある。抽象的な理想論ではない。宇宙の真理以外に、本当の、正しい道はないのである。
宇宙の真理を知る、天地の万物を知る、大自然世界の現実、原理を知るということによって、人間はいくらでも利口になれる、立派になれる、真実を知ることができる。自然から教えられるということは、広く大きい。
人間は死ぬまで成長し続ける。宇宙天地的に真っすぐ伸びて、向上、発展を続けねばならない。縦横バランスのとれた、しっかりとした人間にならねばならない。死ぬまで縦に伸びることを忘れてはいけない。
縦の力とは、宇宙と我、天地と我、大自然世界と我、あるいは先祖と我、両親と我、師匠と我、先輩と我というような強い力である。
縦に伸びる力というのは、内容的なものであり、縦に伸びない人は哀れである。人は、縦に伸びよう伸びようと、心掛けねばならない。横に伸びる力というのは、意識的なものである。横に横にと横着になると、成長は止まってしまう。
縦の宇宙と人間という、平等世界の平等の原理は、縦と横との問題が縦に始まって横に広がるという、この順序によるものである。天地と人間、人間同士、人間社会、人間世界というすべてのものは、縦の関係であることを忘れなければ、横の関係もまた整然たるものである。縦と横の秩序、真理原則である。
そもそも、この宇宙というものは、巨大なエネルギーの場である。そのエネルギーが森羅万象となり、万事万物となって、この大自然世界に存在し、生存する。人間も、そのうちの一つである。
宇宙に絶対と相対があるごとく、平等と差別があるごとく、人間もまた、これらの特質を忠実に備えている。人間自身の中にもあるが、人間と人間の関係の上にもある。
一人の人間と他の人間とを比べてみれば、そこには必ず差別がある。差別は優劣となって表れる。人間ほど優劣の開きの大きな生物は、ほかにはないかもしれない。
優劣があるからには、競争が起こる。人間と人間の競争は、その生涯と生涯の競争である。いかに生きるか、いかに生きたか。そうして、人間として成就、完成への道をどこまで行き着くことができたか。
個人の人生のうちの一日一日の生活の中にも、優劣の差は表れる。その一日一日の積み重ねは、その人の生涯を左右する。ある人は有名になり、富裕になり、ある人々はその反対の境遇になる。
誰しもが、生まれる時は何も持たず、文字通り素裸で生まれた。そして、何も知らず、ただ無心に出発したはずのものが、先へゆくほど差が開き、優劣の度が大きくなる。途中で、不運にも姿を消す者もいる。
●完成された人間になるのが何よりの財産
人間には宿命とか、運命とかいうものがあって、みな同じように素裸に見えた出生の時から、すなわち最初の出発点において、すでに差別があるのである。後になってそれがわかる場合もあり、最後の最後までわからぬ場合もある。
人間にはまた天命とか、天性とかいうものがある。これは、人間である以上は誰にも平等に与えられている。これに気づき、これを利用し活用すれば、優劣の逆転も不可能ではない。気づくのは、人生のどの地点であってもよい。
天命とか、天性とかいう言葉を使ったが、この偉大な力というのは、要するに宇宙エネルギーたる「気」のことである。人間を創造した宇宙の巨大な「気」エネルギーを人間が我が身に吸収し、蓄積し、活用する。
平等の中の差別を、それはそれで受容しながら、差別の中に誰にでも平等に与えられているはずの宇宙エネルギーにより、己の人生を開拓しつつ前進するのが、人間成就、完成へ近づくための最良の方法である。
多くの人間は、ただ社会的にどうあればよいかというぐらいにしか考えていない。これは、生活上の一形式にすぎない。人間には、一人に一人ずつの掛け替えのない人間完成がある。
その人間が、どのくらいの価値をなすか、どの職業、どの道で、どの方法で価値を表現するかということは、社会的な力の発揮の仕方による。しかし、一人一人が人間的に、自己の価値を高めるためには、人間としての自覚の上に立って、その持っている能力を完全に発現しなければならないし、それが人間として生まれてきた目的でなくてはならないだろう。
多くの場合、人間は真の自覚の上に立つことなしに、人がやるから、そのまねをして生きている者が多い。
本当に自己が真の自覚、最高の自覚の上に立って、生き抜いているといえる人は、ほとんどいないだろう。真の自覚の上に立って、自己をつくり上げてみようという人も、ほとんどいないだろう。
人間は、どんな職業に携わっていようとも、あくまでも人間である。職業は生きるための手段、方法であって、自己の価値を発揮する一方法でしかないのに、それに捕らわれて、職業的にのみ終始するために、人間性を高め進化、発展させることを忘れてしまっている。
問題はそこにある。人間自身をしっかりつくり、その人間性のよさをもってはじめて、意義ある、役立つ仕事をしていくこともできるのだ。
人間何が財産であり、何が幸福であるかといえば、それは立派な人間になることである。完成された人間、人格者となることである。
●今日という日の大切さを知って、今を生きる
今日一日という日の重要性を知って、時間を有効に使うことも勧めたい一つである。
その理由は、宇宙天地大自然から人間に与えられた時間というものが、実に貴重なものだからこそである。
老若男女、貧富貴賤(きせん)の別なく、最も公平に万人に与えられた一日二十四時間は、明日の時間を今日使うことができないし、昨日の時間が再び戻ってくる道理もない。
ただ今日という日の二十四時間をいかに有効に使うかに、万事の成否がかかっているのみだ。
世の中には、この貴重な二十四時間を二十時間相当にしか使っていない人がいるかと思うと、二十五時間ぶんにも二十六時間ぶんにも活用している人がいる。人によって、一日の三分の一に当たる八時間労働においても、こなす量や質に差が出る。
時間は蓄えておくことができず、それが人間に与えられた時だけ、今日のこの時間、この瞬間という現在を用いることができるだけである。
もし、今日という日を役立てないまま、無為に過ごしてしまえば、それは永久に失われてしまう。今日という日は、昨日あれほどいろいろなことをしようと待ち構えていたあの明日なのだ、ということをよく覚えておくことだ。
そして、この貴重な今日という日もまた、やがて永遠の時のかなたに去ってしまうのだ、ということを忘れてはならぬ。
私たちが生きることができるのは、現在だけであって、過去はすでになくなっており、未来はまだ到達していないのである。
誰でも、今日一日という同じ量の時間を持って、毎日、毎朝新しく、出発を開始するのである。私たちの一日は、この上なく貴重な人生の中身である二十四時間で、不思議にも満たされている。
それだけではなく、宇宙天地大自然は、時計の針を誰にとっても一律に、同じスピードで回るように創っているのである。
この一日一日が集積した人間の一生というものは、長いようで短い。きわめて短いとさえ言い得る。長い短いは、何に比べればという比較の問題だが、いずれにしても、私たちにとっては一生涯も限られた時間の一こまである。
具体的には、一こまの時間とはおおよそ七十五年から百年という年数を意味する。この百年あまりも当然、現在ただいまの今という一瞬が時々刻々、切れ目なく継続することにより保たれる。過去はみな、この今に集約され、未来もまた、この今がなければ存立し得ない。
このような解釈からしても、人間の一生は、今そのものであるといえることが理解できよう。
従って、人間が器量人を目指す方法はただ一つしかない。まさしく、今与えられた時間を大切にし、今を完全に生き抜くことである。現在の生き方を無視して、いかに将来の幸福を願っても、それは空虚な白昼夢に終わるばかりである。
●器量を磨くとは自己を育成すること
真の器量人、真の器量よしを目指す男女は、自己の心身を磨いて、「気」の入る器を大きく、「気」の流れる量を豊かにすることである。
普通の個人であろうと、男性は怠りなく自己を磨けば、誰でも器量人に近づける。女性も美人であろうとなかろうと、勇気を持って自己啓発を続ければ、次第に内面の美しさがにじみ出る器量よしに近づける。
そこで、日々の生活の中で自己を磨き、人間を大きくする心掛けについて、改めて述べてみたい。
ここでいう器量を磨く、自己を磨くとは、文字通り我をつくる、人間形成のことである。我をつくるとは、その人にとって、一生を懸けての大仕事である。一番大切なことである。
自己自身が完全者たり得ず、愚かなことばかりしていたのでは、器量人や器量よしになれないばかりか、いつになっても幸福な人たり得ない。
いかなる人々、いかなる時代にも通用し、基本となるべき自己育成の原理は、宇宙の原理、真理、法則による以外はない。宇宙の根源的な力により教えられ、育てられる。ここに、最高の自己育成法がある。抽象的な理想論ではない。宇宙の真理以外に、本当の、正しい道はないのである。
宇宙の真理を知る、天地の万物を知る、大自然世界の現実、原理を知るということによって、人間はいくらでも利口になれる、立派になれる、真実を知ることができる。自然から教えられるということは、広く大きい。
人間は死ぬまで成長し続ける。宇宙天地的に真っすぐ伸びて、向上、発展を続けねばならない。縦横バランスのとれた、しっかりとした人間にならねばならない。死ぬまで縦に伸びることを忘れてはいけない。
縦の力とは、宇宙と我、天地と我、大自然世界と我、あるいは先祖と我、両親と我、師匠と我、先輩と我というような強い力である。
縦に伸びる力というのは、内容的なものであり、縦に伸びない人は哀れである。人は、縦に伸びよう伸びようと、心掛けねばならない。横に伸びる力というのは、意識的なものである。横に横にと横着になると、成長は止まってしまう。
縦の宇宙と人間という、平等世界の平等の原理は、縦と横との問題が縦に始まって横に広がるという、この順序によるものである。天地と人間、人間同士、人間社会、人間世界というすべてのものは、縦の関係であることを忘れなければ、横の関係もまた整然たるものである。縦と横の秩序、真理原則である。
そもそも、この宇宙というものは、巨大なエネルギーの場である。そのエネルギーが森羅万象となり、万事万物となって、この大自然世界に存在し、生存する。人間も、そのうちの一つである。
宇宙に絶対と相対があるごとく、平等と差別があるごとく、人間もまた、これらの特質を忠実に備えている。人間自身の中にもあるが、人間と人間の関係の上にもある。
一人の人間と他の人間とを比べてみれば、そこには必ず差別がある。差別は優劣となって表れる。人間ほど優劣の開きの大きな生物は、ほかにはないかもしれない。
優劣があるからには、競争が起こる。人間と人間の競争は、その生涯と生涯の競争である。いかに生きるか、いかに生きたか。そうして、人間として成就、完成への道をどこまで行き着くことができたか。
個人の人生のうちの一日一日の生活の中にも、優劣の差は表れる。その一日一日の積み重ねは、その人の生涯を左右する。ある人は有名になり、富裕になり、ある人々はその反対の境遇になる。
誰しもが、生まれる時は何も持たず、文字通り素裸で生まれた。そして、何も知らず、ただ無心に出発したはずのものが、先へゆくほど差が開き、優劣の度が大きくなる。途中で、不運にも姿を消す者もいる。
●完成された人間になるのが何よりの財産
人間には宿命とか、運命とかいうものがあって、みな同じように素裸に見えた出生の時から、すなわち最初の出発点において、すでに差別があるのである。後になってそれがわかる場合もあり、最後の最後までわからぬ場合もある。
人間にはまた天命とか、天性とかいうものがある。これは、人間である以上は誰にも平等に与えられている。これに気づき、これを利用し活用すれば、優劣の逆転も不可能ではない。気づくのは、人生のどの地点であってもよい。
天命とか、天性とかいう言葉を使ったが、この偉大な力というのは、要するに宇宙エネルギーたる「気」のことである。人間を創造した宇宙の巨大な「気」エネルギーを人間が我が身に吸収し、蓄積し、活用する。
平等の中の差別を、それはそれで受容しながら、差別の中に誰にでも平等に与えられているはずの宇宙エネルギーにより、己の人生を開拓しつつ前進するのが、人間成就、完成へ近づくための最良の方法である。
多くの人間は、ただ社会的にどうあればよいかというぐらいにしか考えていない。これは、生活上の一形式にすぎない。人間には、一人に一人ずつの掛け替えのない人間完成がある。
その人間が、どのくらいの価値をなすか、どの職業、どの道で、どの方法で価値を表現するかということは、社会的な力の発揮の仕方による。しかし、一人一人が人間的に、自己の価値を高めるためには、人間としての自覚の上に立って、その持っている能力を完全に発現しなければならないし、それが人間として生まれてきた目的でなくてはならないだろう。
多くの場合、人間は真の自覚の上に立つことなしに、人がやるから、そのまねをして生きている者が多い。
本当に自己が真の自覚、最高の自覚の上に立って、生き抜いているといえる人は、ほとんどいないだろう。真の自覚の上に立って、自己をつくり上げてみようという人も、ほとんどいないだろう。
人間は、どんな職業に携わっていようとも、あくまでも人間である。職業は生きるための手段、方法であって、自己の価値を発揮する一方法でしかないのに、それに捕らわれて、職業的にのみ終始するために、人間性を高め進化、発展させることを忘れてしまっている。
問題はそこにある。人間自身をしっかりつくり、その人間性のよさをもってはじめて、意義ある、役立つ仕事をしていくこともできるのだ。
人間何が財産であり、何が幸福であるかといえば、それは立派な人間になることである。完成された人間、人格者となることである。
●今日という日の大切さを知って、今を生きる
今日一日という日の重要性を知って、時間を有効に使うことも勧めたい一つである。
その理由は、宇宙天地大自然から人間に与えられた時間というものが、実に貴重なものだからこそである。
老若男女、貧富貴賤(きせん)の別なく、最も公平に万人に与えられた一日二十四時間は、明日の時間を今日使うことができないし、昨日の時間が再び戻ってくる道理もない。
ただ今日という日の二十四時間をいかに有効に使うかに、万事の成否がかかっているのみだ。
世の中には、この貴重な二十四時間を二十時間相当にしか使っていない人がいるかと思うと、二十五時間ぶんにも二十六時間ぶんにも活用している人がいる。人によって、一日の三分の一に当たる八時間労働においても、こなす量や質に差が出る。
時間は蓄えておくことができず、それが人間に与えられた時だけ、今日のこの時間、この瞬間という現在を用いることができるだけである。
もし、今日という日を役立てないまま、無為に過ごしてしまえば、それは永久に失われてしまう。今日という日は、昨日あれほどいろいろなことをしようと待ち構えていたあの明日なのだ、ということをよく覚えておくことだ。
そして、この貴重な今日という日もまた、やがて永遠の時のかなたに去ってしまうのだ、ということを忘れてはならぬ。
私たちが生きることができるのは、現在だけであって、過去はすでになくなっており、未来はまだ到達していないのである。
誰でも、今日一日という同じ量の時間を持って、毎日、毎朝新しく、出発を開始するのである。私たちの一日は、この上なく貴重な人生の中身である二十四時間で、不思議にも満たされている。
それだけではなく、宇宙天地大自然は、時計の針を誰にとっても一律に、同じスピードで回るように創っているのである。
この一日一日が集積した人間の一生というものは、長いようで短い。きわめて短いとさえ言い得る。長い短いは、何に比べればという比較の問題だが、いずれにしても、私たちにとっては一生涯も限られた時間の一こまである。
具体的には、一こまの時間とはおおよそ七十五年から百年という年数を意味する。この百年あまりも当然、現在ただいまの今という一瞬が時々刻々、切れ目なく継続することにより保たれる。過去はみな、この今に集約され、未来もまた、この今がなければ存立し得ない。
このような解釈からしても、人間の一生は、今そのものであるといえることが理解できよう。
従って、人間が器量人を目指す方法はただ一つしかない。まさしく、今与えられた時間を大切にし、今を完全に生き抜くことである。現在の生き方を無視して、いかに将来の幸福を願っても、それは空虚な白昼夢に終わるばかりである。
2009-10-07 15:22
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